青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

遊戯の終わり

2017-02-23 07:07:25 | 日記
コルタサル著『遊戯の終わり』

コルタサルの作風は、他のラテンアメリカの作家と比べると泥臭さが少なく、洗練されている。それを読み易いと捉えるか、食い足りないと捉えるかは、読者の好み次第だろう。

収録作は、三章に分けられている。
Ⅰ:「続いている公園」、「誰も悪くない」、「河」、「殺虫剤」、「いまいましいドア」、「バッカスの巫女たち」
Ⅱ:「キクラデス諸島の偶像」、「黄色い花」、「夕食会」、「楽団」、「旧友」、「動機」、「牡牛」
Ⅲ:「水底譚」、「昼食のあと」、「山椒魚」、「夜、あおむけにされて」、「遊戯の終わり」

異界と繋がるには、通常それなりの場所と手続きがいる。
それは、古びた城や屋敷だったり、伝統ある学校の寄宿舎だったり、逢魔が時の路地裏だったり、華やいだ祭の雑踏だったり、色々だけど。そんな特殊な場所に、特定の時間と小道具、招かれるべき人物が重なると、異界の口は広がる。
多くの幻想小説は、そのルールをふまえて書かれている。
だから、ポーにしてもブラックウッドにしても、読者はこの先何かが起きることをある程度予測して読むことが出来る。

ところが、コルタサルの作品には予兆が無い。
前触れも改行も無く、現実世界と異界がするりと繋がっている。それは、特殊な場所、選ばれた人々にのみ起る希少な現象ではない。普通の人々が極めて自然に道を逸れてしまうのだ。何処で道を踏み外したかが分からないから、戻って来られない。サラリと書き流しているようでいて、恐ろしく巧妙な仕掛けが施されている。読み終わってから、出だしと結末の想定外の乖離に気付いて、「どうしてこうなった?」と途方に暮れてしまう。

コルタサルには、他のマジックリアリズムの旗手たちのような強烈なインパクトはない。緩やかで淡々とした筆運びは、一読すると没個性的だ。その薄さこそがコルタサルの個性ともいえる。

最も印象的だったのが、「誰も悪くはない」。
完成度が高すぎて、感想を述べるのに勇気がいるくらいだ。
“セーターを上手く着られなくて妻との待ち合わせに遅れそう”という、馬鹿馬鹿しい日常の一コマが、何故か出口の見えない悪夢と繋がってしまう。
何処かへ逃げよう、そう考えて、十二階の窓の外へ。彼は毛糸に絡まったまま、どんな世界へ落下していったのだろうか?

「河」は水死体にまつわる幻想譚。
ベッドに眠る〈ぼく〉の隣に横たわる妻の髪がどうしたことか水で濡れていて、もう手遅れだと悟る話。
妻は今、桟橋の石の上に横たえられ、その周りを靴や話し声が取り囲んでいる。彼女は髪をびっしょり濡らして、目を見開いたまま、あおむけに横たわっているのだ。

「水底譚」もまた、夢と水死体の話。
夢に出てきた自分の水死体を、友達と一緒に砂州まで見に行くのだ。
得体の知れないなにものかが桟橋をよじ登ってくる。立ち上がったそいつの体にはごみくずがいっぱいついていて、魚に齧られた痕まで見える。そいつが〈ぼく〉を水底に引きずり込もうとするのだけど、そいつはきっと〈ぼく〉なのだろう。

「山椒魚」は、水槽にいる山椒魚に心惹かれて通い詰めるうちに、意識が山椒魚に乗り移ってしまう話。
山椒魚になった〈ぼく〉は水槽の中から、ガラスに押し付けられた彼の顔を見る。〈ぼく〉は彼という人間を知っている。〈ぼく〉は彼自身でありながら、しかも自分の世界の中にいるのだ。以前、彼はよくここに来ていたが、最近はあまり来なくなった。最初のうち、〈ぼく〉たちは互いに意思を疎通し合っていたけれど、今では人間としての彼と、山椒魚になった〈ぼく〉との間に渡された橋は絶たれてしまった。それでも、いずれ彼が〈ぼく〉たちについて、山椒魚について、このような物語を書いてくれるだろう、そう考えることが〈ぼく〉の慰めになっているのだ。

「遊戯の終わり」は、思春期独特の脆く移ろい易い心の動きを瑞々しく描き出している。
三人の少女は、毎日のように線路際で《彫像ごっこ》を楽しんでいた。しかし、一人の少年が車窓から手紙を投げ寄越すようになってから、彼女たちの間に亀裂が生まれる。誰が悪いわけでもないのに辛い結末で胸が痛くなるのだが、それが思春期の少年少女なのだろう。
誰もが子供の時には持っていて、成長の過程で必ず失ってしまうキラキラした感情。「殺虫剤」も似たような傾向の作品だが、暴力性が無い分、こちらの方が読後の寂寥感が深かった。
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