青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

欲望

2017-04-17 07:12:41 | 日記
『欲望』は、1967年のイギリス・イタリア合作映画。

コルタサルの小説『悪魔の涎』を下敷きに、イタリア映画三大巨匠の一人ミケランジェロ・アントニオーニが脚本・監督を手掛けた。1960年代中盤のロンドンを舞台に、当時のイギリスの世相を織り交ぜつつ、不条理な世界を描く。1967年のカンヌ国際映画祭にてパルム・ドールを受賞した。

音楽はハービー・ハンコック。
アントニオーニは当初、BGM無しで映画を作ろうとしたのだそうだ。確かに、車を乗り回す珍奇な白メイクの青年たち、施設から出てくる貧民の群れ、デモ行進、ライブハウス、ドラッグ・パーティなど、賑やかな場面が多い割には、アンバランスなほど音の数が少ない。


1960年代のロンドン。
ファッション・カメラマンのトーマス(デヴィッド・ヘミングス)は、ある日公園で逢引中の初老の紳士と若い女(ヴァネッサ・レッドグレイブ)を見かけ、二人の戯れる姿を撮影した。女はトーマスが自分達を撮影しているのに気づくと、ネガを渡すように懇願してきた。トーマスは女の狼狽える姿を面白がり、ネガを渡すことを渋る。女はトーマスに掴みかかってまでネガを手に入れようとするが、紳士の姿が消えたのに気が付くと、走り去っていった。

女がトーマスのスタジオに突然現れた。
どうしてここが分かったのかと驚くトーマスに、女は再びネガの譲渡を要求する。トーマスは女との駆け引きを楽しんだ後、女の名前と電話番号を聞き出し、ネガを渡す。しかし、それは偽物であった。

トーマスはネガを現像した。
すると、男女の逢引を撮影しただけだったはずの写真に、不穏な箇所があることに気が付く。その部分を引き延ばしてみると、そこには不自然な方向に視線を送る女、叢から銃口を向けている人物、そして射殺された男の死体が写っていた。

トーマスは女に電話するが、番号は出鱈目だった。
女は何者なのか?あの場で何が行われていたのか?トーマスは確認のため、再び公園に向かうのだが――。


サスペンス・スリラーを思わせる物語は、次第に不条理劇の様相を呈していく。

トーマスは夜の公園に向かう途中であの女の姿を見かける。
彼女を追っていくうちに、いつの間にかライブハウスに入り込んでいた。場内ではヤード・バーズが演奏中だが、アンプの調子が悪くなったことに腹を立てたジェフ・ベックがアンプにエレキギターを叩きつけた挙句、壊れたギターを観客に投げつける。ジェフ・ベックにとってはもはやゴミに過ぎないそれに、聴衆は何らかの価値を見出し奪い合う。トーマスがそれを手にするが、ライブハウスを出た途端に何でこんなものを拾ったのだろうと言わんばかりの表情を浮かべ、路上に投げ捨てる。

夜の公園で死体を見つけられなかったトーマスは、翌朝もう一度公園に向かう。
カメラをぶら下げて死体を探すトーマスの前に、冒頭に出てきた白メイクの青年たちが再び現れる。そして、彼らは戯れとは思えない熱心さでエア・テニスを始めるのだ。
見えないラケットを振るい、見えない球を打つ彼らは、自分たちを見ているトーマスに気が付くと、金網の外に飛んで行った球を拾うようにジェスチャーで合図してくる。トーマスはカメラを置いて見えない球を拾うと、彼らに向かって投げるポーズをとってみせた。
無言でこちらを見つめるトーマスのアップが暫く続いたのち、ラケットが球を打つ音が響いてきて、トーマスの姿が消えたところで映画は終わる。


無いはずのものがあり、あるはずのものが無い。無価値なものに価値を見出したり、また価値を見失ったりする。
女は二度とトーマスの前に現れないだろうし、事の真相は不明のままだろう。
若くして成功を収めたトーマスは、仕事にも女性関係にも倦んでいる。ドラッグにすらのめり込めない。ファッション業界で飯を食っているくせにモデルたちを軽蔑し、街に繰り出しては社会派モドキの写真を撮ったり、骨董屋でオブジェの材料になりそうな古道具を漁ったりしている。しかし、社会問題にも芸術にも本格的に取り組む気配はない。所詮、ナンチャッテ止まりなのだ。
どこかに旅に出たいと願いつつもどこにも行けないらしい彼は、気が付かないうちに現実と虚構の境界線を往還していた。彼は一時でも退屈な人生を肯うのに充分な体験を出来たのだろうか?

それにしても、“欲望”という邦題は、下世話で作品の雰囲気に合っていない。もっと気の利いた邦題に出来なかったものだろうか?原題は“Blow Up”、写真を引き延ばすという意味。トーマスも私たちも、現実のようでいて本当の現実ではない、自分が見たいように“Blow Up”した歪んだ虚構しか見ていないのだろう。
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