『軽蔑』(1963年)は、ジャン=リュック・ゴダール監督の長編映画第6作目である。フランス・イタリア合作。原作はアルベルト・モラヴィアの同名小説。
脚本家のポール(ミシェル・ピッコリ)は、妻のカミーユ(ブリジット・バルドー)と穏やかな夫婦生活を送っていた。
ある日、ポールはアメリカから来た映画プロデューサーのプロコシュ(ジャック・パランス)から仕事を依頼される。それは、フリッツ・ラング(本人)が撮影中の映画『オデュッセイア』の脚本がマニアックなので、もっと万人受けするように脚本をリライトしろと言う内容だった。
昼になってカミーユが現れ、夫妻はプロコシュに自宅でのランチに誘われた。
カミーユはプロコシュと二人きりになるのを嫌がっていたが、ポールはカミーユをプロコシュの車に乗せ、先に行かせてしまう。その瞬間からカミーユの夫に対する態度が一変、ひどく冷淡なものになった。ポールには何が起きたのか分からない。カミーユに説明を求めるも、徒に彼女を苛立たせてしまうだけだった。
帰宅後もポールとカミーユの諍いは続いた。二人は別々の部屋で寝ることになる。
翌日、プロコシュからカミーユをロケに誘う電話があった。電話に出たポールは「カミーユ次第だ」と答えてしまう。電話の後で激怒したカミーユは、ポールに「あなたのことは嫌い。もう愛していない。心から軽蔑するわ」と言い放つ。
カプリ島の撮影現場近くにはプロコシュの別荘があった。
撮影中、ラングと対立したプロコシュは、カミーユに別荘へ戻ろうと言う。カミーユはポールを見やるが、ポールはカミーユがプロコシュと別荘に帰ることを承諾した。
ポールは、ラングと『オデュッセイア』について議論を続けた。
彼はオデュッセウス(英名・仏名・独名はユリシーズ)とペネロペに、自分とカミーユを重ねずには居られない。なぜオデュッセウスは十年も帰ってこなかったのか。そもそもなぜ妻を置いて戦争に行ったのか――。
夫婦の愛の終わりをホメロスの『オデュッセイア』に絡めて描いている。
劇中で登場人物たちが口にする哲学や詩をすべて知っていれば、本作への理解がもっと深まったと思う。それでも本作はゴダールの作品の中では解り易い筋立てだったので、碩学な私にも雰囲気は楽しめた。
ポールとカミーユは相思相愛だったが、元々相手に向ける愛情と関心の重さには大きな違いがあった。冒頭では明らかにカミーユの方が重い。
カミーユが「私の足は好き?」「私の髪は好き?」と甘えた声で尋ね、「毎日100回キスして」とねだる。それに対するポールの返事は穏やかだが熱意は感じられず、まるで纏わりついてくる幼子か犬猫をいなしているようだった。
そして、ポールはプロコシュがカミーユに対して邪な感情を抱いていることに気付いていたにも関わらず、彼らを二人きりにしてしまう。ポールの手によってプロコシュのスポーツカーに乗せられたカミーユは、夫の姿が見えなくなるまで不安そうに後ろを振り返っていた。彼女はこの時夫の愛情を信じられなくなったのではないだろうか。
そのうえ、カミーユが明らかに不機嫌になっているというのに、ポールはプロコシュの別荘への招待を断らなかった。「カミーユ次第」という返答は一見妻の意思を尊重しているようだが、関心の薄さが透けて見える発言でもある。
カミーユから度々発せられる信号に、なぜポールは気付かなかったのか。
ポールとカミーユでは愛し方の方法が違うということもある。しかし、それ以上に彼は妻の愛情に胡坐をかいていたのではないだろうか。愛されているという過信が不注意に繋がってしまったのだ。
関心の多寡はそのまま愛情の多寡を表している。劇中でカミーユは度々ポールに視線を向けているが、ポールの方はそれほど彼女を見ていない。夫婦問題について頭を悩ませている時も彼女の心より己の心を探っているように見えた。
たとえ相思相愛であったとしても、二人の感情が同じ熱量を持っていることなどは、まずないだろう。人と人との関係なのだから仕方の無い事とはいえ、愛情の深い側にとっては寂しいことだ。カミーユが冒頭でポールに執拗に甘えかかっていたのは、そんな寂しさの露呈だったのではないだろうか。
その心底に澱の様に積もって行った寂しさとか不信とかが些細なきっかけで溢れ出す。平穏な時には目を瞑っていられた齟齬を無視できなくなる。カミーユをプロコシュの家に行かせたのは、ポールにとっては些細な判断ミス。だがカミーユにとっては不信の決定打。プロコシュの出現が無くても、この夫婦は遅かれ早かれ上手くいかなくなったのではないか。
文句を言わないからと言って、不満が無いわけでは無い。「いて当たり前」「愛されて当然」と思った瞬間から男女の仲は亀裂が生じるのだろうと思った。
ポールはポールなりに考えてはいた。だが、考えるだけで実際には何もしていなかった。
ポールは『オデュッセイア』の脚本を書くために、オデュッセウスと己を重ね合わせる。そして、オッデュセウスの愛情表現を己の選択肢の一つとして検討する。
オデュッセウスはイタケに帰還した後、出征中にペネロペに求婚した男たちを悉く射殺した。ポールもオデュッセウスに倣い拳銃を手にする。しかし、彼は発砲することが出来なかった。
彼はオデュッセウスよりも理性的な人だったから、殺すことは解決にならないと考えたのだ。例えば、カミーユの浮気を責め、彼女を殺害したとする。その結果、カミーユの死によってポールは彼女の愛を永久に失う。逆にプロコシュを殺せば、ポールはカミーユに怯えられ、やはり愛を失う。それが、彼の判断だった。
殺害が解決に繋がらないことは、ラングも指摘していた。理性の優る人なら皆そう考える。
しかし、カミーユは理性より情緒の人なのだ。ポールは問題を根本から見誤っていた。如何に彼女を理解していなかったかという証左である。
オデュッセウスの蛮行は、善悪や理屈を超えた愛の証明だった。オデュッセウスは言葉より行動で妻に愛を伝えたのだ。
カミーユが望んでいたのも、行動による愛の証明だったのではないだろうか。
まさかプロコシュを殺して欲しいとまでは思っていなかっただろうが、抗議くらいはして欲しかっただろう。カミーユはポールと口論している間、彼の口からどれだけ愛の言葉を吐かれても、自分を言いくるめるための詭弁にしか聞こえなかったに違いない。口ばかりで何もしない男、そんな評価が“軽蔑”と言う言葉に繋がったのではないだろうか。
なんだが、ポールに対する評価ばかりが辛くなってしまったが、カミーユにも非が無いわけでは無い。この夫婦はどちらも独り善がりなのだ。そして、どちらも口で言うほどは相手を愛していない。カミーユが好きでもないプロコシュと出て行ったのも、残されたポールが妙にサバサバした態度だったのも、そういうことだからではないか。
愛について真剣に考えてみたら、愛なんて元々無かったことに気がついてしまった、そんな虚無感。地中海の青さと愛の幻滅が目に染みる作品だった。
脚本家のポール(ミシェル・ピッコリ)は、妻のカミーユ(ブリジット・バルドー)と穏やかな夫婦生活を送っていた。
ある日、ポールはアメリカから来た映画プロデューサーのプロコシュ(ジャック・パランス)から仕事を依頼される。それは、フリッツ・ラング(本人)が撮影中の映画『オデュッセイア』の脚本がマニアックなので、もっと万人受けするように脚本をリライトしろと言う内容だった。
昼になってカミーユが現れ、夫妻はプロコシュに自宅でのランチに誘われた。
カミーユはプロコシュと二人きりになるのを嫌がっていたが、ポールはカミーユをプロコシュの車に乗せ、先に行かせてしまう。その瞬間からカミーユの夫に対する態度が一変、ひどく冷淡なものになった。ポールには何が起きたのか分からない。カミーユに説明を求めるも、徒に彼女を苛立たせてしまうだけだった。
帰宅後もポールとカミーユの諍いは続いた。二人は別々の部屋で寝ることになる。
翌日、プロコシュからカミーユをロケに誘う電話があった。電話に出たポールは「カミーユ次第だ」と答えてしまう。電話の後で激怒したカミーユは、ポールに「あなたのことは嫌い。もう愛していない。心から軽蔑するわ」と言い放つ。
カプリ島の撮影現場近くにはプロコシュの別荘があった。
撮影中、ラングと対立したプロコシュは、カミーユに別荘へ戻ろうと言う。カミーユはポールを見やるが、ポールはカミーユがプロコシュと別荘に帰ることを承諾した。
ポールは、ラングと『オデュッセイア』について議論を続けた。
彼はオデュッセウス(英名・仏名・独名はユリシーズ)とペネロペに、自分とカミーユを重ねずには居られない。なぜオデュッセウスは十年も帰ってこなかったのか。そもそもなぜ妻を置いて戦争に行ったのか――。
夫婦の愛の終わりをホメロスの『オデュッセイア』に絡めて描いている。
劇中で登場人物たちが口にする哲学や詩をすべて知っていれば、本作への理解がもっと深まったと思う。それでも本作はゴダールの作品の中では解り易い筋立てだったので、碩学な私にも雰囲気は楽しめた。
ポールとカミーユは相思相愛だったが、元々相手に向ける愛情と関心の重さには大きな違いがあった。冒頭では明らかにカミーユの方が重い。
カミーユが「私の足は好き?」「私の髪は好き?」と甘えた声で尋ね、「毎日100回キスして」とねだる。それに対するポールの返事は穏やかだが熱意は感じられず、まるで纏わりついてくる幼子か犬猫をいなしているようだった。
そして、ポールはプロコシュがカミーユに対して邪な感情を抱いていることに気付いていたにも関わらず、彼らを二人きりにしてしまう。ポールの手によってプロコシュのスポーツカーに乗せられたカミーユは、夫の姿が見えなくなるまで不安そうに後ろを振り返っていた。彼女はこの時夫の愛情を信じられなくなったのではないだろうか。
そのうえ、カミーユが明らかに不機嫌になっているというのに、ポールはプロコシュの別荘への招待を断らなかった。「カミーユ次第」という返答は一見妻の意思を尊重しているようだが、関心の薄さが透けて見える発言でもある。
カミーユから度々発せられる信号に、なぜポールは気付かなかったのか。
ポールとカミーユでは愛し方の方法が違うということもある。しかし、それ以上に彼は妻の愛情に胡坐をかいていたのではないだろうか。愛されているという過信が不注意に繋がってしまったのだ。
関心の多寡はそのまま愛情の多寡を表している。劇中でカミーユは度々ポールに視線を向けているが、ポールの方はそれほど彼女を見ていない。夫婦問題について頭を悩ませている時も彼女の心より己の心を探っているように見えた。
たとえ相思相愛であったとしても、二人の感情が同じ熱量を持っていることなどは、まずないだろう。人と人との関係なのだから仕方の無い事とはいえ、愛情の深い側にとっては寂しいことだ。カミーユが冒頭でポールに執拗に甘えかかっていたのは、そんな寂しさの露呈だったのではないだろうか。
その心底に澱の様に積もって行った寂しさとか不信とかが些細なきっかけで溢れ出す。平穏な時には目を瞑っていられた齟齬を無視できなくなる。カミーユをプロコシュの家に行かせたのは、ポールにとっては些細な判断ミス。だがカミーユにとっては不信の決定打。プロコシュの出現が無くても、この夫婦は遅かれ早かれ上手くいかなくなったのではないか。
文句を言わないからと言って、不満が無いわけでは無い。「いて当たり前」「愛されて当然」と思った瞬間から男女の仲は亀裂が生じるのだろうと思った。
ポールはポールなりに考えてはいた。だが、考えるだけで実際には何もしていなかった。
ポールは『オデュッセイア』の脚本を書くために、オデュッセウスと己を重ね合わせる。そして、オッデュセウスの愛情表現を己の選択肢の一つとして検討する。
オデュッセウスはイタケに帰還した後、出征中にペネロペに求婚した男たちを悉く射殺した。ポールもオデュッセウスに倣い拳銃を手にする。しかし、彼は発砲することが出来なかった。
彼はオデュッセウスよりも理性的な人だったから、殺すことは解決にならないと考えたのだ。例えば、カミーユの浮気を責め、彼女を殺害したとする。その結果、カミーユの死によってポールは彼女の愛を永久に失う。逆にプロコシュを殺せば、ポールはカミーユに怯えられ、やはり愛を失う。それが、彼の判断だった。
殺害が解決に繋がらないことは、ラングも指摘していた。理性の優る人なら皆そう考える。
しかし、カミーユは理性より情緒の人なのだ。ポールは問題を根本から見誤っていた。如何に彼女を理解していなかったかという証左である。
オデュッセウスの蛮行は、善悪や理屈を超えた愛の証明だった。オデュッセウスは言葉より行動で妻に愛を伝えたのだ。
カミーユが望んでいたのも、行動による愛の証明だったのではないだろうか。
まさかプロコシュを殺して欲しいとまでは思っていなかっただろうが、抗議くらいはして欲しかっただろう。カミーユはポールと口論している間、彼の口からどれだけ愛の言葉を吐かれても、自分を言いくるめるための詭弁にしか聞こえなかったに違いない。口ばかりで何もしない男、そんな評価が“軽蔑”と言う言葉に繋がったのではないだろうか。
なんだが、ポールに対する評価ばかりが辛くなってしまったが、カミーユにも非が無いわけでは無い。この夫婦はどちらも独り善がりなのだ。そして、どちらも口で言うほどは相手を愛していない。カミーユが好きでもないプロコシュと出て行ったのも、残されたポールが妙にサバサバした態度だったのも、そういうことだからではないか。
愛について真剣に考えてみたら、愛なんて元々無かったことに気がついてしまった、そんな虚無感。地中海の青さと愛の幻滅が目に染みる作品だった。