青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

歪み真珠

2017-07-05 07:04:03 | 日記
山尾悠子著『歪み真珠』は、「ゴルゴンゾーラ大王あるいは草の冠」「美神の通過」「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」「美しい背中のアタランテ」「マスクとベルガマスク」「聖アントワーヌの憂鬱」「水源地まで」「向日性について」「ドロテアの首と銀の皿」「影盗みの話」「火の発見」「アンヌンツィアツィオーネ」「夜の宮殿の観光、女王との謁見つき」「夜の宮殿と輝く真昼の塔」「紫禁城の後宮で、ひとりの女が」の15編が収められた掌編集。
ただし、「ドロテアの首と銀の皿」のみは短編の長さである。この「ドロテアの首と銀の皿」は『ラピスラズリ』の番外編だが、『ラピスラズリ』を未読でも問題ないほど独立した作品である(読んでおいた方がより楽しめる)。

山尾悠子らしい人肌の温もりを感じさせない無機質で清潔な物語の詰め合わせ。バロック真珠を繋いだ首飾りのような掌編集だ。
伝染病との戦いに敗れた蛙の王、大理石の台座に乗って荒れ野を通過する美神、鏡を使って人魚に合図を送る娼婦たち、どちらが男でどちらが女だかわからない美しい双子、鏡を見ることが出来ない〈影盗み〉…どの物語からも宝石のようにキラキラしたイメージが乱反射する。
幻想物語だが、言葉を入念に選んで精密に物語を構築しているため偽物臭さが無い。世界観に一本筋が通っているのだ。静謐なパーフェクトワールド。そして、その完璧に美しい世界を惜しみなく崩壊させることによって得られるカタルシス。この愉しさを一度知ったら中毒になってしまう。


「美しい背中のアタランテ」は、ギリシャ神話に登場する女狩人アタランテの物語。
アタランテの父は男子を欲していたため、女児のアタランテが生まれるとすぐに山に捨てた。雌熊に育てられたアタランテは、やがて怪力と俊足で知られるようになる。また、アルテミスに倣い処女を守り、狩りを生業とするアタランテは、アルテミスの様に美しく清らかで無慈悲だった。

アタランテの名声に惹かれ、求婚者たちが押し寄せた。
アタランテは、求婚者たちに彼女との徒競走に応じることを要求する。求婚者が勝てば結婚するが、負ければその場で射殺するというのが条件だ。
アタランテは人間のうちで最も俊足だったので、求婚者たちは次々に惨殺されていく。

“なるほど私の見てくれは悪くないようだ。強いて冷静を保ちながらアタランテは考えた。だがそのことが何の役に立ったか?また怪力俊足とは、女の身に与えられるにしては何と風変わりな特質であることよ。男も女ももはや私には煩わしい。母を泣かせ、運命に絶望したこの身に出来ることがまだ何か残っているだろうか。”

アタランテは自分が負けるなどとは微塵も考えていない。走る前から射殺する気満々である。
最初は復讐のつもりだったかもしれない。
父に捨てられたこと。アルゴナウタイに参加できなかったこと。脂下がった男から足元に金の林檎を転がされること。そんな男の身勝手な理屈で蒙った様々な不如意とか、己の特技特質が女としての幸福に何一つ寄与してくれないこととか、それらに対する憤怒を噂に浮かれてヌルッと求婚してくる軽薄な男たちにぶつけてみたかったのかもしれない。
求婚者は雨霰のように現れる。アタランテは狩人としての仕事も捨てて、ひたすら走り続けた。最早誰も彼女の顔を見ることが出来ない。

“アタランテの顔は忘れられた。それはあまりの速さに着衣がはだけた背中、音は壁となり疾走の速度がすべてを混沌に巻き込む場所でだけ見ることのできる背中。走ることに特化して鍛え抜かれたしなやかで強靭な筋肉のうねり。背後で惨殺される求婚者たちの悲鳴と血飛沫には見向きもしない。男たちはただ後を追ってふらふらと駆け出すしかなかった。俊足のアタランテは美しい背中、それは鋭く風を切り混沌とした世界の中心に飛び込んでいく。”

何者よりも速く疾走すること。
その一点に集中して特化することが、アタランテの救いとなった。もはや何のために求婚者たちに命がけの徒競走を要求しているのかも思い出せない。彼女の意中にあるのは疾走する自分の背中だけだ。完璧に純化された存在となって、アタランテは俗世から離脱していくのである。


「アンヌツィアツィオーネ」は、天使を見ることのできる少女の物語。アンヌツィアツィオーネとは、受胎告知という意味だ。
“人は暗い所では天使に会わない。”という出だしの一文から引き込まれる。『ラピスラズリ』の啓蟄の天使もだけど、この物語の天使も人間に慈愛や恩恵を与えてくれない。それなのに尊く慕わしく感じるのはなぜなのだろう。

少女は幼いころから折々に同じ天使を見た。それが天使であることは誰に教わらなくとも彼女には正しく理解できた。
天使を見るのにはコツのようなものがある。
天使は視界の中央には姿を見せない。気配に気づいても、そちらに目を向けると忽ち消えてしまうので、気づいていないような素振で視界の隅にその姿を捉えるしかない。

だけど、少女は一度だけ天使の姿をはっきりと見たことがあった。
七歳の誕生日のことだった。彼女はある目的をもって、日曝しの塔の縁石にしがみついていた。うっかりと手を離せば吹き飛ばされそうな強風の中、用ありげに飛行していく最中の天使の遠い姿を目撃したのだ。その時、彼女の胸に満ちた思いは、安堵としか言いようのないものだった。
この天使は何者なのか?彼女の守護天使なのだろうか?

天使を見た日の夜は、髪をほどくと必ず数片の白い羽毛がこぼれだした。床に舞い散ったそれは拾い上げる前に、跡形もなく消え失せるのだった。
天使との秘め事を守るため彼女は寡黙に育った。天使は彼女であり、彼女は天使であるように思われ、それ以外のすべてのことは些事となった。

“あのかたとわたしとのあいだには約束がある。”

“どのような結末を迎えることになるのか皆目見当がつかないにしても、人としてのわたしの人生はすでに神ではなく天使の領域に侵犯されている”

彼女は、いつかそのように思い定めるようになっていた。
天使の姿をはっきり見ることが出来なくても、その声を夢で聴くことは出来た。

“恵ミニ満チタル汝ニ幸イアレ。”

輝く羽と同じ物質で出来た祝福の言葉に、彼女は歓喜の涙をこぼした。

15歳の年越しの夜に見た夢はいつもと違っていた。
十日と十夜の大火事の果てに滅びた世界の中心で、彼女は象牙の冠を戴いた女王になっていた。円天井の塔からは王都の廃墟が地平まで続いていくのが眺められた。
そして、西でもなく東でもない方角に光が増し、凛々しい処女戦士のような甲冑姿の天使が入場してくるのを彼女は見た。見覚えの無い天使だった。性別不明の彼もしくは彼女は死の告知の徴である棕櫚の枝を手にしていた――。

許嫁の決まった16歳の春、ついに彼女は正式な天使の訪れを迎えた。そのとき陽光に満ちた世界には一点の曇りもなく、東屋には薔薇が咲き誇っていた。祝福そのものの世界だった。
マリアよ、と旧知の天使は初めて彼女の名を呼んだ。
その口調は晴れやかさを確信させはしたが、初めて正面から見たその顔は金色の光に満ちながらも妙に意味ありげな目つきと馴れ馴れしさすら感じさせる唇で。

“恵に満ちたる汝に幸いあれ。汝、精霊によりて身籠りたり。”

“生まれる御子は半陰陽。御子は世界を滅ぼすでしょう。……”

彼女に死を告知した甲冑姿の天使と受胎告知の天使は、それぞれ別の存在からの使者なのだろうか?腰に剣を下げた甲冑の天使は、頑なで潔癖な面持ちが神の御使いにふさわしい。ならば、やや禍々しさを感じさせる受胎告知の天使は、神の御使いではないということだろうか?そうなると、この天使が百合の花を捧げて受胎を告げた御子もまた神の子ではないことになるのだが。でも、そんなことは、“神ではなく天使の領域に侵犯されている”と考えている彼女にとってはどうでも良い事かもしれない。

作中には明確な回答はない。
だけど、私はこの二人の天使は同じ天使だと思うのだ。処女の様に潔癖な死の天使と、淫蕩な匂いのする受胎告知の天使は、一つの存在の表裏なのではないか?
彼女の生んだ御子即ちイエス・キリストもまた、相反する要素を併せ持つ存在だ。彼は破壊者であり救済者でもあるのだ。
完璧に構築された世界が反転して、崩壊する。寄って立つ大地が突如無くなることの恐怖と快感。救済が破壊で、破壊が救済。世界が崩壊した後の廃墟からは、また新しい世界が生まれる。その死と再生の担い手が、マリアでありイエス・キリストなのだろう。そして、来るべき時期を告げるのが天使の役割だ。世界を一つの有機体とし、その死と再生のサイクルを殆ど作業的と言っても良いほどに無機的な態度で取り仕切る。そこには一人一人の人間への共感や慈しみはない。


鉱物的な無機質さと共感性の排除。山尾悠子の作品はいつもそうだ。感動の押し売りに食傷している人にとっては、一服の清涼剤となるであろう。
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