青い花

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狂気の巡礼

2018-04-09 07:10:42 | 日記
ステファン・グラビンスキ著『狂気の巡礼』

本書は、『薔薇の丘にて』収録の全6編と、『狂気の巡礼』から8編を収めた日本独自編集の短編集である。グラビンスキの日本語でのまとまった紹介としては二冊目になる。

グラビンスキはポーランド文学史上ほぼ唯一の恐怖小説専門の作家だ。
“ポーランドのラヴクラフト”、“ポーランドのポー”と評されるグラビンスキであるが、本書の解説では、スタニスワフ・レムやカール・マイ、夢野久作との類似点も指摘されている。
ポーランドの作家に馴染みのない日本人は多いと思うが、私もポーランドの作家の作品は沼野充義編『東欧怪談集』に収録された作品を読んだきりだ。グラビンスキも『東欧怪談集』で初めて知った。収録されていたのは、「シャモタ氏の恋人」である。この短編が印象に残ったので、グラビンスキの作品を他にも読んでみようかと思ったのである。
国書刊行会が出版する書籍は装幀の美しいものが多いが、本書の装幀も古雅でグラビンスキの作風にマッチしている。そのことには、本書を手に取るうえで大いに後押しされた。私は装幀の良し悪しで読むかどうかを決めることが多い。特に、よく知らない作家の作品では、それが一番の決め手になるのだ。私とグラビンスキの巡り合わせは良かったようだ。

恐怖小説と言っても、幽霊だの怪物だのは出てこない。グラビンスキの恐怖とは、そんな外敵から齎されるものではない。気が付いた時には既に己の内部を侵食していて純然たる他者ではなくなっている、いわく云い難い何かだ。その何かは己自身でもあるので、逃れることは出来ない。憂鬱で閉塞的な、それでいて官能的でもある脳髄の地獄だ。
Aという人物(たいていは死者だ)の思考・想念が、Xという場所に残留する。Aの思考・想念は、Xの持つ磁力のようなものと化学反応を起こし、Aという個人を離れ、独立した存在になる。それが、Xを新たに訪れたBという人物の思考・想念を疫病のように侵食し、破綻させてしまう、というパターンの作品が多い。読んでいるうちに、我々が自分オリジナルの思考・想念だと思っているものなんて、実は存在しないのではないかと思えてくる。何処までが〈私〉で、何処からが〈彼〉なのか。そんな線引きが不可能なほど、両者は融合している。
グラビンスキの世界では、思考・想念と云ったものは個人の所有物ではなく、肉体や場所という器を水のように容易く乗り移り、混じり合っていくもののようだ。ブラックウッドの「移植」やモーパッサンの「オルラ」に近いテイストもうっすらと感じる。

本書の中では、どちらかと言えば、『薔薇の丘にて』からの作品の方が私の好みに合うものが多かった。
「狂気の農園」と「斜視」が、恐怖短編として手堅くまとまっていると思う。


「狂気の農園」
私にはKという親友がいた。
Kは時に正気とは思えない見解や理論を主張する男だった。

“Kの主張はある場所ではある物事が起こるに違いないというものだった。ある種の場所の性格・本質・魂が、それらに関連する事故や事件の実現を待ち受けているというのである。彼はこれを〈様式的帰結〉と名付けたが、私はこのすべてに汎神論的要素を感じた。”

そうした種類の見解は、極度に疑り深い私の中に激しい抵抗を呼び起こした。Kと別れた後もその根拠のなさを証明したくてたまらなかったが、Kとは二度と会うことはなかった。
その後、私はすべてにおいてKが間違っていたわけでは無かったことを思い知らされる。少なくとも私に関してのKの見解の一つは不幸にも的中したのだ。

数年後、私は妻のアグネスを失った。
その痛手から立ち直れなかった私は、幼い我が子たちを連れて旅に出た。その間もKと彼の理論のことは忘れなかった。

或る時、私たちはある街に長めに逗留した。
晴れた八月の日曜日、私は子供たちを連れて、辻馬車で出かけた。街を出て半マイルも過ぎた時、街道から幾分奥まったところで私の注意を引き付けたのは、見捨てられた果樹園の中にぽつんと立つ奇妙な建物で、完全に無人であった。
私は近隣の住民の「この家は放っておきなされ」という反対を押し切って、その農家に引っ越すことに決めた。私にはその農家がKの論証を確かめるために作られたかのように思われたのだ。

不思議な建物だった。
プロポーションが下に行くほど狭まっているのだ。基礎が天辺に比べて驚くほど小さく、屋根が上部と共にあからさまに土台を押しつぶしていた。窓は厚い壁に嵌め込まれ、消え入りそうなほど小さかった。それに加えて、煉瓦の壁は無数の穴と罅で損なわれていた。それらの特徴は、動物が吹き出物に覆われているかのような病的な印象をこの建物に与えていた。
内部も亀裂や瘤だらけで外観に劣らず酷かった。
もっとも奇妙だったのは角部屋だ。壁の漆喰が剥がれた痕に出来た疱疹が、謎めいた像を形作っていたのだ。私がそれを紙に書き写してみると、かなり奇妙な絵が、というか絵の一部が出来上がった。

その後、私はこの不快な印象の建物と、それに劣らず狂気を孕んだ果樹園に精神を犯されていく。そして、最終的にはあの奇妙な絵の通りの惨劇を起こしてしまうのだ。あたかもKの主張〈様式的帰結〉を証明するかのように。


「斜視」
私はブジェフヴァという男との腐れ縁に悩まされていた。
汚らわしい男だった。私は彼からの絶え間ない嘲笑と迫害に疲弊していた。完全に絶交するように仕向けてみても、甘い微笑ですべて冗談に変えられてしまうのだ。
彼は斜視だった。とりわけ右目は不快で、赤毛の睫毛の下から岩のような視線を発していた。小さな醜い顔は煉瓦色に覆われ、常に意地の悪い皮肉な笑みで歪んでおり、貧弱な錆色の口髭は挑戦的にひねり上げられ、触覚のようにひっきりなしに動いていた。
最初に関わった時から、彼には我慢がならなかった。彼は気質も嗜好も刺激に対する反応も、私とは極端に異なっていた。私にとって嫌な奴の見本、決して和解することが出来ない、私の歩くアンチテーゼであった。

私の嫌悪感を嗤うかのように、彼は私に対する包囲網を狭めていった。
私の親しい知人らのサークルに入り込んで、私のごく細かな計画や僅かな動きまで探り出していた。せめて一日でも彼の顔を見ないで済むように遠出しても、行った先には大抵彼がいて、甘ったるく不快な嘲笑で擦り寄ってくる。
彼は私を激怒させる方法を知り尽くしていた。私の信条や、芸術作品や学術的発見に対する驚きや称賛に対して、悉く冷笑的な態度をとったのだ。

彼は反対意見に我慢できない激しい気性から喧嘩騒ぎが絶えず、数え切れないほど名誉棄損の訴訟を抱えていた。
しかし、奇妙なことに、彼が私に対して怒ったことは一度もなかった。私の方は、彼の振る舞いから、一度ならず不躾な言葉を浴びせたり悪態をついたりしたものだったが。まるで、私一人が罰せられずに彼を侮辱する特権を有しているかのようだった。

その彼が突然非業の死を遂げた。
私との諍いの延長で、その場に居た最も手ごわい敵の一人と決闘する羽目になったのだ。私が元凶であるにも関わらず、彼は私に証人を頼んだ。私は断り、自発的に敵側に援助を申し出た。その決闘で額に致命傷を受け、彼は倒れた。彼の最後の視線は、私に向けられていた。
私は彼から解放されたと思った。しかし、彼の今際の際の一瞥は、永遠に私の魂に深い溝を刻んだのだ。

“「あなたは怒る必要はなかった。そんなことをしても何もならない。そもそも私はあなたを、あなたは私を侮辱することは出来ない。ねえ、それはまるで、だれかが自分自身を平手打ちしたがるようなものだ。私たち二人で一つの体系なのだから」”

それは、かつて私が彼の顔を殴った時に、彼から受けた言葉だった。
彼の死後、私の中で二つの基本的な動機、二つの主要な気分の仮借なき戦いが始まった。戦いは私の中に入り込んだ新参の方が上位を占め、内心嫌悪しながらも私は常にそいつの耳打ちに従うようになった。私は名誉も信仰もない皮肉屋に、望みの低い人間になり果てた。
二重人格というよりは、むしろ重複、何か忌まわしい添加であった。私はその忌々しい共存で傷つき、自分で取り除けなかった変化を自覚し、なすすべもなく絶望した。私は肉体的、道徳的に自分自身を酷く嫌い、自分に我慢がならなくなった。新たな侵入者による奇行を出来る限り最小限の留めるために、私は人々を避けたのだが、彼らの目には驚愕と嫌悪が見えた。

自宅に閉じこもり、絶対的な孤独の中、私は隠れた敵と格闘しながら精神的苦痛を味わった。
私が住んでいた建物は平屋で、三世帯に分かれていた。私は一つの翼を締めていたから、ここより左にはもう部屋はない。庭は柵に囲まれていて、立ち入ることは不可能だ。それなのに、半ば放心して目を室内にさまよわせていると、突然左の壁の向こうから何かのざわめきが聴こえるような気がするのだ。
私がここで憎い敵を我が不幸な自我から追い出そうと戦っている間、壁の向こうでは何らかの存在が生まれ、何かが作られている……私は壁を壊して、内部を確認することにした。


観念的な恐怖を描くことを好む作家らしいが、人物の内面の葛藤や自然や建物の描写がリアルなので、フワフワした印象はない。たんなる多重人格でもなく、霊的な憑依でもない、凝った趣向の物語が多く、最後まで飽きない。只々心の内から実体化した純粋な悪に圧倒される。上の二作の他は、「チェラヴァの問題」が、ありきたりなドッペルゲンガー譚に見せかけて、実は…な捻りが利いていて、収録作の中では上位に位置する出来栄えだろう。

私の感想が拙いせいで、ワンパターンな作家と誤解させてしまうかもしれないが、そんなことは決してない。〈思念の実体化〉が一貫したテーマになっているが、作品ごとに手を変え品を変え読者を楽しませてくれる巧みな作家である。

作家を主人公とした「領域」にこんな場面がある。

“(主人公のヴェジェシミャンは)「人間が考えることは一切無駄にならない。どんな考えであっても、たとえどれほど風変わりであろうと、実を結ばずに死にはしない」友人知人の間で幾度もこう繰り返していた。
 そしてどうやら、まさにこの虚構の実現への信念が、彼の作品の動脈に隠された情熱を注ぎこみ、見かけの冷淡さにもかかわらず、深く人を感動させたようなのだ……。
だが彼は決して自分に満足しなかった。誠実な創作者ならだれもがそうであるように、絶えず新たな表現方法を探していた。”

創作者としてキャリアを積んでいくうちに、どうしても手癖みたいなものが出てくる。また、あるパターンが評価を受けると、それに味を占めて自己模倣に陥ってしまうこともあるだろう。それは他人の作品の剽窃と違い、罪というほどではないし、ファンの中にはそれを望む者も少なからずいる。しかし、誠実な創作者たるグラビンスキは絶えず新たな表現方法を探すのだ。それがどれほど気違いじみた虚構であれ、必ず成就できると信じている。
グラビンスキの作品は、たいてい悲惨な結末を迎える。上に引用した「領域」のヴェジェシミャンも破滅する。しかし、どの作品も胸糞が悪くなるようなエグミはない。それは、グラビンスキの作家としての誠実さが、陰鬱な作品群の底からある種の気品と清潔感を滲ませているからなのだろう。
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