ステファン・グラビンスキ著『動きの悪魔』
『動きの悪魔』は「音無しの空間(鉄道のバラッド)」「汚れ男」「車室にて」「永遠の乗客(ユーモレスク)」「偽りの警報」「動きの悪魔」「機関士グロット」「信号」「奇妙な駅(未来の幻想)」「放浪列車(鉄道の伝説)」「待避線」「ウルティマ・トゥーレ」「シャテラの記憶痕跡」「トンネルのもぐらの寓話」の十四編からなる鉄道怪談集である。
私がグラビンスキの著書に触れるのは、これが『狂気の巡礼』に続いて二冊目である。因みに邦訳が出版されたのは『動きの悪魔』の方が先で、解説のページ数も多い。こちらを先に読んでおけばよかった。
鉄道怪談という括りだが、古典的な幽霊譚にとどまらず、サイコ・サスペンス、レトロ・フューチャーなSF、ラヴクラフトを彷彿とさせる洞窟の異形者の物語などなど、幅広いタイプの短編が詰め込まれている。
それぞれ独立した作品として読めるが、関連している部分もある。たとえば、「汚れ男」の主人公ボロン車掌が理想の乗客と評価しているのは、「動きの悪魔」の主人公シゴンだ。また、「信号」には「偽りの警報」にも出てきたプシェウェンチュ(峠という意味)という駅が出てくる。
バラエティー・パック的な愉しさのある作品集だが、『狂気の巡礼』があまりにも私好みだったので、本書でも〈思念の実体化〉をテーマとした作品が特に気に入った。「音無しの空間(鉄道のバラッド)」と「シャテラの記憶痕跡」の二作である。
「音無しの空間(鉄道のバラッド)」は、新線に切り替えられたため、閉鎖されて孤絶したかつての迂回路〈音無しの空間〉で起きた奇妙な出来事の物語。
主人公のシモン・ヴァヴェラは長年鉄道勤めをしたが、衝突事故で右足を失い退職した元車掌だ。そのヴァヴェラが、旧路線が公式に閉鎖されてから一年後、当該部局長のもとに、〈音無しの空間〉の管理を任せて欲しいと願い出たのだ。迂回路はあと数ヶ月で撤去されるので、見張り人の必要など全くない。それでも、ヴァヴェラは古い線路を無償で見守るという。部局長はお笑い草だと思ったが、とりあえずは了承した。
翌日から、ヴァヴェラは元保線工夫の詰め所だったボロボロの小屋に引っ越した。
ヴァヴェラは愛情をこめて熱心に〈職務〉に従事した。
旧線路の長さは12キロに及び、片足のないヴァヴェラが点検作業を終えるのには二時間もかかった。錆びた鉄棒を見つけては綺麗にし、リベット周りを火で鍛え直し、残りの部分に適合させ、線路の隙間を修繕した。信号所とそこに含まれる設備を細心の注意を払って面倒を見、熱心に監視した。かつての存在意義を取り戻してやりたいという思いから、信号所前の線路に一本の支線を復元した。何もかもが運行中の路線のようだった。ヴァヴェラは自分の仕事が誇らしかった。人々から狂人と嗤われても構わなかった。
どうしても鉄道と別れられなかったのだ。
事故で不具になり車掌を辞めざるを得なくなってからも、貨物駅の倉庫係や駐泊所の金属工の助手などをして日銭を稼いだ。いつだって大好きな線路や車両や機関車のそばにいた。そして、半年前、たまたま〈音無しの空間〉のことを耳にした彼は駐泊所を飛び出し、見捨てられた線路を見張るために引っ越したのだ。
親友のルシャニは、ヴァヴェラが〈音無しの空間〉の見張り人になった動機を鉄道への憧れからだと解釈した。
しかし、ヴァヴェラをここに結び付けているのは、別の理由だった。ヴァヴェラには、この空間の声が聞こえる。ここでは至る所で思い出たちが生きている。人間の眼には見えないそれらが、この谷の間をさまよい、線路を打ち鳴らしているのが分かる。思い出は消すことのできない痕跡だ。思い出は死なない。
ゆっくりと数ヶ月が経つにつれて、ヴァヴェラと空間の間には捉えがたいものの、極めて親しい関係が形作られた。ヴァヴェラは時とともに、あたかも人の形に具現化した空間の意識のようになった。空間に漂う過去のあらゆる痕跡を吸収し、自分の中に吸い込むと、今度は憧れで強められ、愛する心の熱い血に脈打ったそれを返すのだった。ヴァヴェラはこの空間と魂のきょうだいなのだった。
昼に二回、夜に一回、ヴァヴェラが行っていた〈訓練〉と〈演習〉とは、保線工夫によって実行されていた一連の作業の再現だった。
見張り人は駅舎の前に出ると、信号を手にし、転轍機と詰所の間に立った。別の時には転轍機のクランク、或いは信号所のレバーを動かして、線路のレールを切り替えた。夜毎、転轍機の緑の信号と、トンネル近くのもう一つの信号機に緑の、或いは白い灯をともした。〈夜間警報〉のため信号の光を変えると、それはルビー色で警告を発した。
ヴァヴェラは〈あれ〉の訪れを待った。
線路に走り寄り、耳を地面に押し当て、息を飲んで耳を澄ました。しかし、まだ早すぎるようだった。
そうこうするうちに、町から悪い知らせが来た。
交通局が遅くとも春にはこの区間の解体を開始するというのだ。ヴァヴェラは心痛のあまり恐ろしく面変わりした。完全に自分の中に閉じこもり、ルシャニでさえ出入りを禁じた。
ある日の黄昏時、転轍機の〈演習〉の最中に彼は身震いした。
トンネルの向こうから流れてくるのは、たしかに待ち焦がれた〈あれ〉なのだった。甘い、愛しい鈍い響き!大切なかけがえのない響き!この記念すべき晩から、〈あれ〉は日ごとに、よりはっきりと、だんだん近づいて、次第に力強く聞こえるようになった。遂に成就の時が来たのだ。
“「俺はあんたたちと行くよ、ご同僚、俺はあんたたちと死ぬまで一生!」”
「シャテラの記憶痕跡」は、鉄道事故の際に目撃した女の虜になり、彼女との出会いの瞬間を再現し続けようとする男の話。
“ルドヴィク・シャテラは思い出の恋人だった。というのも彼は人や物事が永遠に通り過ぎるのを決して受け入れられなかったのだ。過去へと落ちていき決して戻らない一刻一刻が彼にとっては非常に貴重で、金で買えない価値があり、彼は言葉にできない悲しみを抱いてこれを見送った。時間をその道から呼び戻すために、あのカーブに消えるのを呼び止めるためになら、いったい何を差し出したことだろう!”
ザクリチュ駅長のシャテラは毎日列車を見送るように、哀切をこめて過去を見送る。
一方通行に去っていく時間を救うことは出来ない。人生は別れの数珠つなぎ。通り過ぎ、遠くで消え去っていく物事を思うと、シャテラの心は無限の叙情で膨れた。
一日の業務を終えた黄昏時から朝方三時まで、シャテラは、今日ではもう存在しないクニェユフ停車場の方角へ散歩に出かけることを日課としていた。
一年前までここには、駅舎が、乗り入れ口前の転轍手の小塔、二つの信号機、いくつかのポイントと共に立っていた。シャテラの親友である助役のドロンは東部国境地帯に異動になった。転轍手のジャックはボフマシュ駅の職を割り当てられた。建物は完膚なきまでに解体され、施設や信号は撤去された。親友と共に過ごした庭は地表から消え、列車交換用のレールすら取り去られた。白いマイルストーンだけが、かつて駅があった場所を示していた。シャテラはこの白い過去の遺物に腰掛け、物思いにふけりながらパイプを吸った。
停車場の閉鎖からこうして一年が過ぎた。
或る夜、シャテラはかつて駅があった場所の近くで、信号が黄色く光っているのを見た。それは一年前に撤去されたはずではないか?幻覚か?今度は、頭上六メートルほどの高さに赤く輝く信号をいくつか目にした。線路が塞がっていると警告しているのだ。シャテラは催眠術にかかったように警告信号を見つめた。我に返った時にはすでに東の山の端が明るんでいて、信号は消えていた。
その日から一週間が過ぎた。
奇跡の七日間、クニェユフでは彼のために信号機が毎日作動し、誰かの手が色を変え、光を調節していた。駅が今にも息を吹き返し、プラットフォームに親友の声が響くような気がした。あと一日か二日もすれば、素晴らしかったあの頃が全て戻るかもしれない。
しかし、今日は信号が見えなかった。シャテラは夜明けまで待ち通したが、光は灯らなかった。
翌日、ザクリチュで事故が起きた。
列車交換手のヤクサが列車に轢かれて死んだのだ。残ったのは、一番線のプラットフォーム前に飛ばされた片腕だけだった。血まみれの残骸は、シャテラの記憶に深い傷跡を残した。
その数週間後、シャテラは風によって線路に運ばれた砂がヤクサの片腕を再現しているのを発見した。それは数日間にわたって繰り返し起こったが、日が経つにつれて不鮮明で不正確になり、発生も散発的になって、遂には完全に止んだ。
同時に似たような徴候をクニェユフ駅の跡地でも観察した。失われたはずの信号機が数日間隔で現れたが、毎回次第に弱まっていき、遂には命が尽き果てたのだ。シャテラはこの現象の虜になった。そして、過去を救う〈エングラム理論〉を生み出した。
“すなわち、世の中で滅びるものはない、ごく些細な出来事であっても跡形もなく消えたり吹き払われたりすることはない。そうではなく――すべては定着され、記録される。(中略)実際の出来事は目に見える世界の舞台で行われ、おそらく四次元空間にしみ込み、ここで己の像をアストラル界の感光板に定着する。冥界のどこかに記録された過去の瞬間と事柄のその像は、何かの形而上的写真のようなもので、シャテラはその写真を〈エングラム〉と呼んだ。”
〈エングラム〉とは、過ぎ去った事実と出来事の痕跡であり、それは冥界の感光板上に存続している。そして、再び可視領域に戻り、こだまとなって繰り返す機会を窺っているのだ。
〈エングラム〉の活性は元々の出来事の大きさによって左右される。最も多く定着されるのは悲劇的な事件である。なぜなら〈エングラム〉の活性化において主要な役割を演じるのは、人間の感情、思考、回想だからだ。故に、時間のパースペクティブを遠く遡るほど、再生はより難しくなり、忘れられて久しい物事の〈エングラム〉はなかなか再現できない。
シャテラは永遠に有効な過去を持ちたいと望んだ。
それから暫くして、ザクリチュ駅で記憶に残る大事故が起きた。
信号ミスの結果、急行と普通列車が衝突し、百名を超える死亡者を出したのだ。それから続く数日間、現場は戦場さながらだった。その間にもシャテラは出来事の詳細な記憶を心に焼き付け続けていた。ほんの一瞬、彼の目の前を通り過ぎた金髪の娘を。線路間の外灯に頭をぶつけて即死した彼女の姿、その陰鬱な魅力の中で、最も恐ろしい瞬間を。車輪の下に落ちた彼女を引き上げ、血まみれの唇に口づけた時の、血の味、歯の光沢、断末魔の収縮を。
事故の一ヵ月後、こだまが目を覚ました。
〈エングラム〉は再現されたが、何故か最初から正確ではなかった。そして、繰り返すたびに不鮮明になっていった。条件が不十分なのか?もしそうならば、条件を強化すべく行動すべきではないか?彼女の〈エングラム〉の正確で永続的な再現を望むシャテラは、良心の呵責を打ち破り、破滅の道へと突き進んでいくのだった。
このほかには、ある場所の性格・本質が、それらに関連する事故・事件の実現を誘発するという〈様式的帰結〉を実証する様な密室の心理劇「車室にて」と、国内最後の駅のカローン(ギリシャ神話の冥界の渡し守)を自負する番人が見る予知夢「ウルティマ・トゥーレ」も私の好みのど真ん中だった。ウルティマ・トゥーレとは、ラテン語で世界の終わりという意味だ。異界へ通じる鉄道の物語として、これ以上ないくらいふさわしいタイトルだと思う。
列車と動きへの偏愛や妄執に囚われ、異界へと旅立っていく人々の物語が13編続いたのちに、最終話として、列車も動きも全否定し、鉄道からの逃走を図る保線工夫の物語「トンネルのもぐらの寓話」が配置されているのも面白い趣向だ。
本書も『狂気の巡礼』と同じく、国書刊行会から出版されている。『狂気の巡礼』の装幀も美しかったが、本書の装幀も素晴らしい。漆黒の闇を駆け抜ける玉虫色の機関車は、無機物でありながら星に匹敵する生命体のようだ。グラビンスキが冥府でこの表紙を見たならきっと喜ぶに違いないと思った。
『動きの悪魔』は「音無しの空間(鉄道のバラッド)」「汚れ男」「車室にて」「永遠の乗客(ユーモレスク)」「偽りの警報」「動きの悪魔」「機関士グロット」「信号」「奇妙な駅(未来の幻想)」「放浪列車(鉄道の伝説)」「待避線」「ウルティマ・トゥーレ」「シャテラの記憶痕跡」「トンネルのもぐらの寓話」の十四編からなる鉄道怪談集である。
私がグラビンスキの著書に触れるのは、これが『狂気の巡礼』に続いて二冊目である。因みに邦訳が出版されたのは『動きの悪魔』の方が先で、解説のページ数も多い。こちらを先に読んでおけばよかった。
鉄道怪談という括りだが、古典的な幽霊譚にとどまらず、サイコ・サスペンス、レトロ・フューチャーなSF、ラヴクラフトを彷彿とさせる洞窟の異形者の物語などなど、幅広いタイプの短編が詰め込まれている。
それぞれ独立した作品として読めるが、関連している部分もある。たとえば、「汚れ男」の主人公ボロン車掌が理想の乗客と評価しているのは、「動きの悪魔」の主人公シゴンだ。また、「信号」には「偽りの警報」にも出てきたプシェウェンチュ(峠という意味)という駅が出てくる。
バラエティー・パック的な愉しさのある作品集だが、『狂気の巡礼』があまりにも私好みだったので、本書でも〈思念の実体化〉をテーマとした作品が特に気に入った。「音無しの空間(鉄道のバラッド)」と「シャテラの記憶痕跡」の二作である。
「音無しの空間(鉄道のバラッド)」は、新線に切り替えられたため、閉鎖されて孤絶したかつての迂回路〈音無しの空間〉で起きた奇妙な出来事の物語。
主人公のシモン・ヴァヴェラは長年鉄道勤めをしたが、衝突事故で右足を失い退職した元車掌だ。そのヴァヴェラが、旧路線が公式に閉鎖されてから一年後、当該部局長のもとに、〈音無しの空間〉の管理を任せて欲しいと願い出たのだ。迂回路はあと数ヶ月で撤去されるので、見張り人の必要など全くない。それでも、ヴァヴェラは古い線路を無償で見守るという。部局長はお笑い草だと思ったが、とりあえずは了承した。
翌日から、ヴァヴェラは元保線工夫の詰め所だったボロボロの小屋に引っ越した。
ヴァヴェラは愛情をこめて熱心に〈職務〉に従事した。
旧線路の長さは12キロに及び、片足のないヴァヴェラが点検作業を終えるのには二時間もかかった。錆びた鉄棒を見つけては綺麗にし、リベット周りを火で鍛え直し、残りの部分に適合させ、線路の隙間を修繕した。信号所とそこに含まれる設備を細心の注意を払って面倒を見、熱心に監視した。かつての存在意義を取り戻してやりたいという思いから、信号所前の線路に一本の支線を復元した。何もかもが運行中の路線のようだった。ヴァヴェラは自分の仕事が誇らしかった。人々から狂人と嗤われても構わなかった。
どうしても鉄道と別れられなかったのだ。
事故で不具になり車掌を辞めざるを得なくなってからも、貨物駅の倉庫係や駐泊所の金属工の助手などをして日銭を稼いだ。いつだって大好きな線路や車両や機関車のそばにいた。そして、半年前、たまたま〈音無しの空間〉のことを耳にした彼は駐泊所を飛び出し、見捨てられた線路を見張るために引っ越したのだ。
親友のルシャニは、ヴァヴェラが〈音無しの空間〉の見張り人になった動機を鉄道への憧れからだと解釈した。
しかし、ヴァヴェラをここに結び付けているのは、別の理由だった。ヴァヴェラには、この空間の声が聞こえる。ここでは至る所で思い出たちが生きている。人間の眼には見えないそれらが、この谷の間をさまよい、線路を打ち鳴らしているのが分かる。思い出は消すことのできない痕跡だ。思い出は死なない。
ゆっくりと数ヶ月が経つにつれて、ヴァヴェラと空間の間には捉えがたいものの、極めて親しい関係が形作られた。ヴァヴェラは時とともに、あたかも人の形に具現化した空間の意識のようになった。空間に漂う過去のあらゆる痕跡を吸収し、自分の中に吸い込むと、今度は憧れで強められ、愛する心の熱い血に脈打ったそれを返すのだった。ヴァヴェラはこの空間と魂のきょうだいなのだった。
昼に二回、夜に一回、ヴァヴェラが行っていた〈訓練〉と〈演習〉とは、保線工夫によって実行されていた一連の作業の再現だった。
見張り人は駅舎の前に出ると、信号を手にし、転轍機と詰所の間に立った。別の時には転轍機のクランク、或いは信号所のレバーを動かして、線路のレールを切り替えた。夜毎、転轍機の緑の信号と、トンネル近くのもう一つの信号機に緑の、或いは白い灯をともした。〈夜間警報〉のため信号の光を変えると、それはルビー色で警告を発した。
ヴァヴェラは〈あれ〉の訪れを待った。
線路に走り寄り、耳を地面に押し当て、息を飲んで耳を澄ました。しかし、まだ早すぎるようだった。
そうこうするうちに、町から悪い知らせが来た。
交通局が遅くとも春にはこの区間の解体を開始するというのだ。ヴァヴェラは心痛のあまり恐ろしく面変わりした。完全に自分の中に閉じこもり、ルシャニでさえ出入りを禁じた。
ある日の黄昏時、転轍機の〈演習〉の最中に彼は身震いした。
トンネルの向こうから流れてくるのは、たしかに待ち焦がれた〈あれ〉なのだった。甘い、愛しい鈍い響き!大切なかけがえのない響き!この記念すべき晩から、〈あれ〉は日ごとに、よりはっきりと、だんだん近づいて、次第に力強く聞こえるようになった。遂に成就の時が来たのだ。
“「俺はあんたたちと行くよ、ご同僚、俺はあんたたちと死ぬまで一生!」”
「シャテラの記憶痕跡」は、鉄道事故の際に目撃した女の虜になり、彼女との出会いの瞬間を再現し続けようとする男の話。
“ルドヴィク・シャテラは思い出の恋人だった。というのも彼は人や物事が永遠に通り過ぎるのを決して受け入れられなかったのだ。過去へと落ちていき決して戻らない一刻一刻が彼にとっては非常に貴重で、金で買えない価値があり、彼は言葉にできない悲しみを抱いてこれを見送った。時間をその道から呼び戻すために、あのカーブに消えるのを呼び止めるためになら、いったい何を差し出したことだろう!”
ザクリチュ駅長のシャテラは毎日列車を見送るように、哀切をこめて過去を見送る。
一方通行に去っていく時間を救うことは出来ない。人生は別れの数珠つなぎ。通り過ぎ、遠くで消え去っていく物事を思うと、シャテラの心は無限の叙情で膨れた。
一日の業務を終えた黄昏時から朝方三時まで、シャテラは、今日ではもう存在しないクニェユフ停車場の方角へ散歩に出かけることを日課としていた。
一年前までここには、駅舎が、乗り入れ口前の転轍手の小塔、二つの信号機、いくつかのポイントと共に立っていた。シャテラの親友である助役のドロンは東部国境地帯に異動になった。転轍手のジャックはボフマシュ駅の職を割り当てられた。建物は完膚なきまでに解体され、施設や信号は撤去された。親友と共に過ごした庭は地表から消え、列車交換用のレールすら取り去られた。白いマイルストーンだけが、かつて駅があった場所を示していた。シャテラはこの白い過去の遺物に腰掛け、物思いにふけりながらパイプを吸った。
停車場の閉鎖からこうして一年が過ぎた。
或る夜、シャテラはかつて駅があった場所の近くで、信号が黄色く光っているのを見た。それは一年前に撤去されたはずではないか?幻覚か?今度は、頭上六メートルほどの高さに赤く輝く信号をいくつか目にした。線路が塞がっていると警告しているのだ。シャテラは催眠術にかかったように警告信号を見つめた。我に返った時にはすでに東の山の端が明るんでいて、信号は消えていた。
その日から一週間が過ぎた。
奇跡の七日間、クニェユフでは彼のために信号機が毎日作動し、誰かの手が色を変え、光を調節していた。駅が今にも息を吹き返し、プラットフォームに親友の声が響くような気がした。あと一日か二日もすれば、素晴らしかったあの頃が全て戻るかもしれない。
しかし、今日は信号が見えなかった。シャテラは夜明けまで待ち通したが、光は灯らなかった。
翌日、ザクリチュで事故が起きた。
列車交換手のヤクサが列車に轢かれて死んだのだ。残ったのは、一番線のプラットフォーム前に飛ばされた片腕だけだった。血まみれの残骸は、シャテラの記憶に深い傷跡を残した。
その数週間後、シャテラは風によって線路に運ばれた砂がヤクサの片腕を再現しているのを発見した。それは数日間にわたって繰り返し起こったが、日が経つにつれて不鮮明で不正確になり、発生も散発的になって、遂には完全に止んだ。
同時に似たような徴候をクニェユフ駅の跡地でも観察した。失われたはずの信号機が数日間隔で現れたが、毎回次第に弱まっていき、遂には命が尽き果てたのだ。シャテラはこの現象の虜になった。そして、過去を救う〈エングラム理論〉を生み出した。
“すなわち、世の中で滅びるものはない、ごく些細な出来事であっても跡形もなく消えたり吹き払われたりすることはない。そうではなく――すべては定着され、記録される。(中略)実際の出来事は目に見える世界の舞台で行われ、おそらく四次元空間にしみ込み、ここで己の像をアストラル界の感光板に定着する。冥界のどこかに記録された過去の瞬間と事柄のその像は、何かの形而上的写真のようなもので、シャテラはその写真を〈エングラム〉と呼んだ。”
〈エングラム〉とは、過ぎ去った事実と出来事の痕跡であり、それは冥界の感光板上に存続している。そして、再び可視領域に戻り、こだまとなって繰り返す機会を窺っているのだ。
〈エングラム〉の活性は元々の出来事の大きさによって左右される。最も多く定着されるのは悲劇的な事件である。なぜなら〈エングラム〉の活性化において主要な役割を演じるのは、人間の感情、思考、回想だからだ。故に、時間のパースペクティブを遠く遡るほど、再生はより難しくなり、忘れられて久しい物事の〈エングラム〉はなかなか再現できない。
シャテラは永遠に有効な過去を持ちたいと望んだ。
それから暫くして、ザクリチュ駅で記憶に残る大事故が起きた。
信号ミスの結果、急行と普通列車が衝突し、百名を超える死亡者を出したのだ。それから続く数日間、現場は戦場さながらだった。その間にもシャテラは出来事の詳細な記憶を心に焼き付け続けていた。ほんの一瞬、彼の目の前を通り過ぎた金髪の娘を。線路間の外灯に頭をぶつけて即死した彼女の姿、その陰鬱な魅力の中で、最も恐ろしい瞬間を。車輪の下に落ちた彼女を引き上げ、血まみれの唇に口づけた時の、血の味、歯の光沢、断末魔の収縮を。
事故の一ヵ月後、こだまが目を覚ました。
〈エングラム〉は再現されたが、何故か最初から正確ではなかった。そして、繰り返すたびに不鮮明になっていった。条件が不十分なのか?もしそうならば、条件を強化すべく行動すべきではないか?彼女の〈エングラム〉の正確で永続的な再現を望むシャテラは、良心の呵責を打ち破り、破滅の道へと突き進んでいくのだった。
このほかには、ある場所の性格・本質が、それらに関連する事故・事件の実現を誘発するという〈様式的帰結〉を実証する様な密室の心理劇「車室にて」と、国内最後の駅のカローン(ギリシャ神話の冥界の渡し守)を自負する番人が見る予知夢「ウルティマ・トゥーレ」も私の好みのど真ん中だった。ウルティマ・トゥーレとは、ラテン語で世界の終わりという意味だ。異界へ通じる鉄道の物語として、これ以上ないくらいふさわしいタイトルだと思う。
列車と動きへの偏愛や妄執に囚われ、異界へと旅立っていく人々の物語が13編続いたのちに、最終話として、列車も動きも全否定し、鉄道からの逃走を図る保線工夫の物語「トンネルのもぐらの寓話」が配置されているのも面白い趣向だ。
本書も『狂気の巡礼』と同じく、国書刊行会から出版されている。『狂気の巡礼』の装幀も美しかったが、本書の装幀も素晴らしい。漆黒の闇を駆け抜ける玉虫色の機関車は、無機物でありながら星に匹敵する生命体のようだ。グラビンスキが冥府でこの表紙を見たならきっと喜ぶに違いないと思った。