青い花

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バグダードのフランケンシュタイン

2021-06-25 09:00:49 | 日記
アフマド・サアダーウィー著『バグダードのフランケンシュタイン』

本書の舞台となるのは、2005年のバグダードだ。
この年は、イラク戦争の後、イラクに暫定政権が成立した年である。同年6月には連合国暫定当局からイラク暫定政権に主権が移譲されたが、国内は依然として不安定な状態にあり、対立する諸勢力や多国籍軍に対するテロが活発化していた。

“いかなるとき、いかなる場所にも、自動車爆弾や爆発物は仕掛けられ、爆発するかもしれないのだ。この歩道に座ったら、自分が死ぬ機会はもっと増えるのではないか、と思った。その場に座ったまま、今日一日の間にもこうした爆発物が何十個も爆発したり、無害化処理を受けたりするのだろうと考えにふけっていると、やがて夕闇が垂れ込めてきた。少なくとも、一台の自動車爆弾もなしに一日が終わることはない。”

爆破テロが、本書における一連の怪事件の発端となっている。

バグダードの中心部、バターウィイーン地区のタイラーン広場で大規模な爆発テロが起きた。
その時、古物商のハーディーは、カフェから出てきたところだった。
四輪駆動車が轟音と閃光を放ち爆発した。
一瞬何が起きたのかわからなかった。
火炎と煙の塊が車や人々を飲み込んでいた。
プラスティックや車のシートが燃え、遺体の焼ける臭いが鼻を襲った。
電線が切断され、ガラスは飛散し、近隣の建物の塀がぶつかり合い、屋根が崩れ落ちてくる。
歩道には遺体がもつれるように積みあがり、赤と黒の混ざった色に染め上げられていた。
ハーディーは、煙草を吸いながらその光景を見つめていた。

ハーディーは、数ヶ月前に、年下の相棒ナーヒムをカッラーダ地区のテロで爆殺されていた。
相棒の死はハーディーの性格を変えた。
攻撃的になり、誰であれ、ナーヒムを見舞った奇禍について口火を切ろうものなら口論を吹っかけていった。昼間から酒の匂いをさせ、ほら話に興じ、服装は不潔さを増した。
ハーディーの憎悪と予測不可能な反応を避けるために、人々はナーヒムの名を口にしなくなった。

ナーヒムの死以降、ハーディーは爆破テロが起きると、密かに犠牲者の肉片を拾い集め、彼とナーヒムの拠点「ユダヤ教徒の廃屋」に持ち帰るようになった。
そして、肉片を繋ぎ合わせ、一人分の人体を作り上げ、「名無しさん」と呼んだ。

ハスィーブ・ムハンマド・ジャアルファルは、タイラーン広場付近のホテルで働いていて、テロに巻き込まれた。
バラバラになった遺体から抜け出したハスィーブの魂は、体を求め、自らの墓、自宅、事件現場などを彷徨った。

ハスィーブはある家屋で全裸の男が眠っているのを見た。
その男は全身継ぎ接ぎだらけて、醜く奇怪な姿をしていた。
その男――「名無しさん」は魂を持っておらず、誰でもなかった。
ハスィーブが「名無しさん」に触れると、彼の魂は触れたところから「名無しさん」の中に沈み込み、やがてすっぽりと飲み込まれた。
体のない魂と魂のない体は、こうして一つになり家屋を抜け出した。

ウンム・ダーニヤール・イリーシュワーは、タイラーン広場の爆破テロの数分前、現場近くの停留所を発車したバスに乗っていて難を逃れた。
バスの中では皆が素早くその方角を見つめ、渋滞の向こうに濛々と煙が立つのを怯える眼差しで見届けた。
イリーシュワーは、20年前に息子ダーニヤールを戦争で亡くしていた。遺体は帰ってこなかったので、彼女は息子の死を受け入れられなかった。
それ以降、イリーシュワーは、息子の帰還と、息子を無理やり戦場に送り込んだバアス党党員アブー・ザイドゥーンの地獄行きを、殉教者聖ゴルギースの肖像画に祈り続けていた。

だから、イリーシュワーは、「名無しさん」と遭遇した時、聖ゴルギースが彼女の願いを叶えてくれたと思った。息子が帰ってきたのだと。
老婆は、「名無しさん」に「ダーニヤール」と呼びかけ、息子の服を着せた。
テロ犠牲者の遺体の寄せ集めと、体を失った魂によって出来たこの驚くべき複合体は、こうして名前を得た。

タイラーン広場のテロから程無くして、バターウィイーン地区の空き家で物乞い四人の他殺体が発見された。
それは、お互いの首を絞め合うという世にも奇妙な遺体だった。
しかし、昨晩被害者たちを目撃したという酔っ払いは、現場にいたのは四人ではなく五人だったと証言する。その五人目の人物はでっかい口の醜い奴だったと。四人とも、その五人目の首を絞めようとしていたのだと。

怪事件はそれで収まらなかった。
四人の物乞いに続いて、自宅の床屋の前で刺殺されたアブー・ザイドゥーン、売春宿で絞殺された将校、そのほか何人もが他殺体で発見された。
事件の現場では、例の醜い男が目撃された。被害者たちの共通点は、テロリストかその支援者・協力者。誰かを死に追いやったことのある罪人たちだ。
捜索のために、スルール・ムハンマド・マジート准将を局長とする追跡捜査局や、マフムード・サワーディーらジャーナリストたちが動き出した。

“カフェに集う人々は昼の間中、彼の目撃談で盛り上がる。皆は競ってその醜悪な容貌を描写していく。彼は私たちと同じレストランにおり、同じ洋服店に入り、あるいは同じKIA社製バスに乗り合わせている。彼はいたるところにいて、夜、屋根や堀を跳び移り、すごい速さで駆け回る恐るべき能力を持っている。誰が次に犠牲者になるかは誰にもわからない。政府がどれだけ安全宣言を出そうが、人々は日ごとに確信を深めつつある。この犯罪者は消して死ぬことはない。”

事件現場で目撃された醜い男は、「名無しさん」だった。
彼は自らの体を構成する肉片の元の持ち主たちや、魂となって彼の体に入り込んだハスィーブを殺した罪人たちに復讐の鉄槌を下していたのだ。

時間とともに「名無しさん」の体のパーツは、一つ一つ腐り落ちていく。
そのたびに彼は失った個所に新しい遺体の肉片を繋いでいく。テロは毎日起き、その度に遺体は増えていくから、肉片の入手には苦労しない。
しかし、じきに彼は察していく。
彼の体を構成する肉片たちは、必ずしも罪なき人々のものだけではないことを。テロリストは、善人も悪人も無選別に爆弾で吹き飛ばしてしまうことを。混迷を極めるこの町では、加害者も容易に被害者になるのだと。

ジャーナリストのマフムードは、タイラーン広場が爆破された瞬間に、反対側の通りを歩いていた。もし、友達に別れを告げて、さっさと通りの向こう側に渡っていたら、彼は死んでいただろう。
マフムードは、バターウィイーン地区の連続殺人事件を取材するうちに、ハーディーの存在に行きついた。
ハーディーは、「名無しさん」について知る限りのことをマフムードに話す。が、あまりにも奇怪な内容なので、マフムードは信じられない。
マフムードは、「名無しさん」に会わせてくれるか写真を撮って欲しいとハーディーに頼むが、ハーディーはそんなことをしたら殺されると断る。そこで、マフムードは取材用のICレコーダーをハーディーに渡し、「名無しさん」と話してくれよと頼んだ。

“誰かにこういうでたらめな話をしてもらうのは難しい。でも実行された犯罪の背後には、必ずこういう整然とした、でたらめな話がある。”

その後、「名無しさん」の訪問を受けたハーディーは、マフムードに、「名無しさん」にICレコーダーを渡したことを知らせて来た。
さらに十日後、ハーディーはICレコーダーを返してきた。
マフムードがICレコーダーを再生してみると、そこにはとてもハーディーの知能では考えつかないような深遠なる告白が吹き込まれていて――。


テロ犠牲者の遺体を使って何らかの作品を作り上げるというストーリーは、ハサン・ブラーシムの『死体展覧会』と共通する。
素材に利用出来るほど、この地にはテロが生み出した遺体が溢れている。そして、犠牲者の遺体にメッセージを付与したいという強い意思も。
なお、ハサン・ブラーシムは2000年にイラクを出国し、数か国を渡り歩いたのちに、2016年にフィンランドの市民権を得ているが、アフマド・サアダーウィーは現在もバグダードに留まっているそうだ。

異形の怪物「名無しさん」が主人公の物語と思って読み始めたが、実際には「名無しさん」よりも、彼を取り巻く町の人々の描写に力が入れられていた。

バグダードという町は、存外、人の出入りが頻繁な町なのだった。
勝手な先入観で、先祖代々この町に根付いている住民が大半だと思っていたのだが、本作に登場する人物の多くは他所からの移住者であり、異教徒や、家系を何代か遡ればアラブ人ですらない者も混ざっている。
また、そのうちの何人かが、本書が終幕する前に故郷に引っ込んだり、新たな土地に職を求めたり、アメリカに亡命したりして、バグダードから去っている。
無数の死体を繋ぎ合わせて構成され、常にそのパーツが入れ替わる「名無しさん」は、出自も宗教もバラバラな人々で構成されたバグダードそのものだ。

この町では、誰もが戦争やテロの被害者であり、遺族だ。そのせいで、却って互いの悲しみに寄り添えないのかもしれない。
イリーシュワーは、聖オディーション教会の敬虔な信徒だが、彼女が教会で息子について話しても、誰も親身になって聞いてくれない。ハーディーに至っては、ほら吹き男と軽蔑されている。
「名無しさん」は、そんな孤独な人達の心に溜まった怒りや憎しみの受け皿となり、復讐を繰り返す。「名無しさん」はいつか我が身が完全に朽ちて、今生から解放されることを願っているが、はたしてそんな日は来るのだろうか。「名無しさん」が見つけなければならない真の加害者とは?

「名無しさん」の告白が吹き込まれたICレコーダーは、その後、マフムードから「作家」の手に渡り、小説の資料として使われた。さらに「作家」の原稿は、事件を追う追跡捜査局に押収された。「名無しさん」の物語には、人の手から人の手に渡るたびに、新たな物語が絡みつき、何が本当なのかわからなくなっていく。

物語の終盤で、とある人物が怪事件の犯人として逮捕される。
当局は事件解決を報道し、町の人々は歓喜に沸くが、中には逮捕された人物が本当の犯人だと信じていない者もいる。
テロによって荒廃したホテルの三階の部屋では、ガラスの抜けた窓のそばに亡霊のような男が佇んでいる。彼はイリーシュワーが残していった老猫を撫でながら、人々の祝祭を見つめているのだった。
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