収録作は、「蟹だらけの船」「魔法の庭」「不実の村」「小道の恐怖」「動物たちの森」「だれも知らなかった「大きな魚、小さな魚」「うまくやれよ」「猫と泥棒」「菓子泥棒」「楽しみはつづかない」の11編。
カルヴィーノを読むのは、『むずかしい愛』に続く二冊目だ(2018・10・19の当ブログ)。
『むずかしい愛』が、陰画としての愛や恋愛におけるコミュニケーションの難しさを描く作品集であるのに対して、『魔法の庭』の作品群は、子供が主人公の作品が多いことと、恋愛の描写が殆どないことから、『むずかしい愛』ほど息苦しさを感じることはなかった。
収録作のなかでは、「大きな魚、小さな魚」に、失恋したあまり若くない女性が出てくるけれど、あれも恋愛の儚さがテーマではないだろう。どちらかというと、主人公の少年と大人の女性との嚙み合わなさに焦点を当てているのだと思う。
愛の不在がテーマではないと言っても、コミュニケーション不全や刹那的な人間関係は通奏低音ように描かれている。このあたりがカルヴィーノの特性なのかなと、この作者の作品が二作目の私はうっすらと感じたものだった。
自分の子供時代を思い出しても、探検ごっこに興じたり自転車を乗り回したりして、偶々辿り着いた公園や空き地で出会った子たちと夕方になるまで遊んで、バイバ~イと別れて、そのまま二度と会わなかったという経験はいくらでもあった。
その瞬間は最高に楽しいし、その子たちのことが大好きになっているけど、別れがたいとかまた会いたいとかいう関係の継続を望む気持ちは生まれかった。むしろ、続いていたらだんだん新鮮味が薄れて詰まらなくなっていたような気もする、そういう意味での特別な関係。
“栗の幹の洞窟、石に生えた薄青色の地衣類、炭置き場の空き地、そんな単調で締まりのないドラマの脇役たちが、はるか遠い日々の記憶にふかくむすびついて、かれのなかで息づいていた。逃げた山羊、穴から追い出したテン、女の子のめくれた下着。そうした記憶に、古郷での戦闘やその後のかれの歴史といった新しい記憶がつけ加わって行った。遊びに、仕事に、そして狩りになってしまった戦争。ロレート橋の硝煙のにおい、斜面の茂みを下りながらの救出作戦、死体でいっぱいの地雷原。
「小道の恐怖」”
収録作の舞台は、第二次世界大戦中、もしくは終戦直後のイタリアの片田舎だ。
子供たちの遊ぶ草むらや山道のそこかしこに、地雷が埋まっていたり兵士が潜んでいたりする。本当の戦争のすぐ横で、子供たちは戦争ごっこを全力で楽しむ。一つの遊びが壊れたら、すぐにまた別の遊びを作り出す。瞬間を全力で生きている。空と海はひたすら明るい。
「蟹だらけの船」
―――悲しみ広場子供たちが、蟹の群れと少女と出会う。―――
港の沖合には、戦争中にドイツ軍が沈めて縦にしていた船が残っていた。
二隻が重なり合っていて、見えているは完全に沈み切っている船の上に載っているほうだった。船は、悲しみ広場の子供たちの本日の探検場となった。
悲しみ広場の子供たちは船に泳ぎ着くと、総舵輪やサイレン、ハッチ、ボート、そういった船が必ず装備している品々を探し始めた。
貧相な船だった。
遊ぶのなら、色んな機械に囲まれているか、船倉のなかの方がずっと面白いに決まっている。
“下敷きになっている船に降りられるかな?”
だとしたら最高だ。
完全に密閉されたあの下に行けるなんて、まるで潜水艦の中みたいだ。
下の船には機雷が山ほど仕掛けてあるかもしれない。階段を下りる子供たちの胸は期待と恐怖で膨らんでいたことだろう。
海水の溜まった船倉の壁は、海藻とカサガイで覆い尽くされていて、ありとあらゆる形や大きさの蟹が何千匹も蠢いていた。だけど、機雷なんて一つもなかった。
子供たちが上甲板に戻ると、見知らぬ少女の姿があった。
さっきは見かけなかったのに、ずっとそこにいたかのような気がした。どこから来たのだろう。アレネッラの連中の仲間かもしれない。
“その子を生け捕りにしろ!”
後ろを振り返ると、水遊びをしていたアレネッラの子供たちが潜水でやってきて、錨の鎖をよじ登り、甲板の手すりを乗り越えてくるところだった。
“戦闘開始だ!”
悲しみ広場とアレネッラとの間で戦闘が始まった。
アレネッラの方は水中が得意だということもあり、機を見るに敏だった。だが、悲しみ広場は強かった。なんせ、旧市街の狭い坂道で、サン・シーロやジャルディネッティの連中相手の取っ組み合いで鍛え上げられているのだ。
一時は後退させられたが、結果的には悲しみ広場が勝利をおさめた。
子供たちが舳に戻ってみると、少女は相変わらずそこにいた。
“おれたちといっしょに来るんだ”
しかし、少女は持っていたクラゲを投げつけると、笑い声を立てながら舳の先まで行き、綺麗な弧を描いて海に飛び込んだ。そして、振り向きもせずに泳ぎ去ってしまった。
まっさらな青空。陽気で若々しい陽光。ぎらぎらと照り返す紺碧の海。大空いっぱいに埋め尽くそうと飛び交うカモメ。海風をはらむ海水着。元気いっぱいの子供たち。
場面と場面の間に関連性はなく、子供たちの出会いに何の発展性もない。すべてが刹那的な、だけど焼き付くように強い光を放っている。
タイトルに含まれている割に、蟹の描写はそれほど多くない。それでいて、確実にこの作品の「陽」を際立たせる「陰」の効果を発揮している。
突然現れて消えた少女が何者なのかは、最後まで分からない。
悲しみ広場の子供たちは、手に入れようと夢中になった少女の消失に身じろぐが、次の瞬間にはもう別の遊びに夢中になっているのだった。
「魔法の庭」
―――ジョヴァンニーノとセレネッラは、素敵な屋敷で青白い少年を目撃する。―――
線路沿いからスタートしたジョヴァンニーノとセレネッラの探検は、トンネルをくぐり抜けると、初めて見る生垣の狭い通路に繋がっていた。
路を辿ると庭の一画に出た。
人影は全くない。ユーカリの撓んだ葉村と空に切れ端とが繰り出す、遥か頭上の細い円蓋。小鳥のさえずり以外、物音は何一つ聞こえない。見捨てられた庭なのだろうか?
何もかもが素敵だけど、不安は立ち込めていた。
“この庭はぼくらのものじゃない、だからすぐに追い出されることになるかもしれない。”
手入れの行き届いた花壇の広がる庭を歩き進めると、高台の大きな屋敷に出た。
相変わらず、人影はない。
ジョヴァンニーノは手押し車を見つけると、セレネッラを乗せてやり、彼女の指さす花を摘んできてやるのだった。それはとても綺麗な花束になったけれど、生け垣を乗り越えて逃げるときには、きっと捨てていかなければならないのだ。
二人はプールを見つけると水に飛び込み、水泳に飽きるとプールサイドの卓球で遊んだ。
“でも思ったほど楽しくなかった。心の底に絶えずもやもやした不安のようなものが澱んでいて、みんな他人のものなのだから、いつ何時、出て行けと言われて追いはらわれたって仕方がないと思っていた。”
銅鑼が鳴り、籠った音が暫く響いた。
二人が花壇に隠れると、召使がパラソルの下の丸テーブルにミルクティーとスポンジケーキを置いて引き揚げていった。
二人はそれらを口にしてみたが、味がわからなかった。美味しいのに味わうことが出来ないのだ。
屋敷に近づき、鎧戸の格子の桟を透かして中を覗くと、そこは綺麗な部屋だった。
薄明りの中、壁いっぱいに蝶の標本が飾られている。青白い少年が、デッキ・チェアに腰掛け、華奢な白い手で挿画入りの分厚い本をめくっていた。
少年は覗いている二人よりももっと不安そうにそわそわしていた。
“まるで、その本も、そのデッキ・チェアも、あの額に入れて飾った蝶たちも、そして噴水におやつにプールに並木道つきの庭も、何か大きな手違いで自分に与えられているだけなのだと思っているようだった。だから彼には味わうことが出来なくて、ただその過ちの苦渋を自分の罪ででもあるかのように我が身に引き受けて咬みしめているだけなのだった。”
線路のレールは夏の日差しを受けて煌めき、焼けそうに熱い。その下には一面、うろこ模様の海。上には白い雲のたなびく空。
線路を歩くのは楽しいし、遊びだって色々できる。レールの上を釣り合いを取りながら歩いてみたり、枕木から枕木へと飛び移ったり。いつもより遠くまで足を延ばせば、もっと楽しいことが見つかるかもしれない。
しかし、どこで間違えたのか、いつもの遊びが、いつの間にか現実とも異界ともつかない奇妙な場所に繋がってしまった。
庭と屋敷を構成するすべてのものが、美しく心地良い。しかし、なぜかその美と心地良さを味わうことが出来ない。
あの青白い少年は、きっと屋敷と庭の主に違いないのに、まるで幽閉された罪人のようでもあった。彼は何を象徴しているのか。迷い込んだ二人と少年との間には、感情の奇妙な共有があったのに、両者の関係は最後まで一方的に覗き見る者と覗き見られる者でしかなかった。
ジョヴァンニーノとセレネッラはひたすら押し黙ってその場を離れた。もと来た道を急ぎ足で、しかし決して走らずに引き返すと、浜辺に続く道があった。
遊び方を間違えたのなら、新しい遊びを始めなければならない。
海に辿り着いた二人は、とびきり楽しい遊びを考え出した。二人は日が暮れるまで、海草を投げ合って戦争ごっこを続けた。
ジョヴァンニーノとセレネッラは、「楽しみはつづかない」でも、新しい遊びに興じている。葦が生い茂る川岸で二人が出会ったのは、悲しい目の兵士だった。
二人は絶えず新しい遊びを思いつく。
だけど楽しみは続かない。
現実が絶えず水を差してくる。うなだれて地面にへたり込む。それでも、新しい遊びをあきらめない。へこたれても、へこたれても、何かを思いついて走り出す。
現実と白昼夢がシームレスな奇妙な世界だ。
遊ぶ子供たちと殺される兵士たち。どちらも虚しくなるくらい明るくて軽い。彼らは本当にそこにいたのか?彼らが火をつけた導火線はどこに続いていたのか?こんな戦争の描き方もあるのだ。
カルヴィーノを読むのは、『むずかしい愛』に続く二冊目だ(2018・10・19の当ブログ)。
『むずかしい愛』が、陰画としての愛や恋愛におけるコミュニケーションの難しさを描く作品集であるのに対して、『魔法の庭』の作品群は、子供が主人公の作品が多いことと、恋愛の描写が殆どないことから、『むずかしい愛』ほど息苦しさを感じることはなかった。
収録作のなかでは、「大きな魚、小さな魚」に、失恋したあまり若くない女性が出てくるけれど、あれも恋愛の儚さがテーマではないだろう。どちらかというと、主人公の少年と大人の女性との嚙み合わなさに焦点を当てているのだと思う。
愛の不在がテーマではないと言っても、コミュニケーション不全や刹那的な人間関係は通奏低音ように描かれている。このあたりがカルヴィーノの特性なのかなと、この作者の作品が二作目の私はうっすらと感じたものだった。
自分の子供時代を思い出しても、探検ごっこに興じたり自転車を乗り回したりして、偶々辿り着いた公園や空き地で出会った子たちと夕方になるまで遊んで、バイバ~イと別れて、そのまま二度と会わなかったという経験はいくらでもあった。
その瞬間は最高に楽しいし、その子たちのことが大好きになっているけど、別れがたいとかまた会いたいとかいう関係の継続を望む気持ちは生まれかった。むしろ、続いていたらだんだん新鮮味が薄れて詰まらなくなっていたような気もする、そういう意味での特別な関係。
“栗の幹の洞窟、石に生えた薄青色の地衣類、炭置き場の空き地、そんな単調で締まりのないドラマの脇役たちが、はるか遠い日々の記憶にふかくむすびついて、かれのなかで息づいていた。逃げた山羊、穴から追い出したテン、女の子のめくれた下着。そうした記憶に、古郷での戦闘やその後のかれの歴史といった新しい記憶がつけ加わって行った。遊びに、仕事に、そして狩りになってしまった戦争。ロレート橋の硝煙のにおい、斜面の茂みを下りながらの救出作戦、死体でいっぱいの地雷原。
「小道の恐怖」”
収録作の舞台は、第二次世界大戦中、もしくは終戦直後のイタリアの片田舎だ。
子供たちの遊ぶ草むらや山道のそこかしこに、地雷が埋まっていたり兵士が潜んでいたりする。本当の戦争のすぐ横で、子供たちは戦争ごっこを全力で楽しむ。一つの遊びが壊れたら、すぐにまた別の遊びを作り出す。瞬間を全力で生きている。空と海はひたすら明るい。
「蟹だらけの船」
―――悲しみ広場子供たちが、蟹の群れと少女と出会う。―――
港の沖合には、戦争中にドイツ軍が沈めて縦にしていた船が残っていた。
二隻が重なり合っていて、見えているは完全に沈み切っている船の上に載っているほうだった。船は、悲しみ広場の子供たちの本日の探検場となった。
悲しみ広場の子供たちは船に泳ぎ着くと、総舵輪やサイレン、ハッチ、ボート、そういった船が必ず装備している品々を探し始めた。
貧相な船だった。
遊ぶのなら、色んな機械に囲まれているか、船倉のなかの方がずっと面白いに決まっている。
“下敷きになっている船に降りられるかな?”
だとしたら最高だ。
完全に密閉されたあの下に行けるなんて、まるで潜水艦の中みたいだ。
下の船には機雷が山ほど仕掛けてあるかもしれない。階段を下りる子供たちの胸は期待と恐怖で膨らんでいたことだろう。
海水の溜まった船倉の壁は、海藻とカサガイで覆い尽くされていて、ありとあらゆる形や大きさの蟹が何千匹も蠢いていた。だけど、機雷なんて一つもなかった。
子供たちが上甲板に戻ると、見知らぬ少女の姿があった。
さっきは見かけなかったのに、ずっとそこにいたかのような気がした。どこから来たのだろう。アレネッラの連中の仲間かもしれない。
“その子を生け捕りにしろ!”
後ろを振り返ると、水遊びをしていたアレネッラの子供たちが潜水でやってきて、錨の鎖をよじ登り、甲板の手すりを乗り越えてくるところだった。
“戦闘開始だ!”
悲しみ広場とアレネッラとの間で戦闘が始まった。
アレネッラの方は水中が得意だということもあり、機を見るに敏だった。だが、悲しみ広場は強かった。なんせ、旧市街の狭い坂道で、サン・シーロやジャルディネッティの連中相手の取っ組み合いで鍛え上げられているのだ。
一時は後退させられたが、結果的には悲しみ広場が勝利をおさめた。
子供たちが舳に戻ってみると、少女は相変わらずそこにいた。
“おれたちといっしょに来るんだ”
しかし、少女は持っていたクラゲを投げつけると、笑い声を立てながら舳の先まで行き、綺麗な弧を描いて海に飛び込んだ。そして、振り向きもせずに泳ぎ去ってしまった。
まっさらな青空。陽気で若々しい陽光。ぎらぎらと照り返す紺碧の海。大空いっぱいに埋め尽くそうと飛び交うカモメ。海風をはらむ海水着。元気いっぱいの子供たち。
場面と場面の間に関連性はなく、子供たちの出会いに何の発展性もない。すべてが刹那的な、だけど焼き付くように強い光を放っている。
タイトルに含まれている割に、蟹の描写はそれほど多くない。それでいて、確実にこの作品の「陽」を際立たせる「陰」の効果を発揮している。
突然現れて消えた少女が何者なのかは、最後まで分からない。
悲しみ広場の子供たちは、手に入れようと夢中になった少女の消失に身じろぐが、次の瞬間にはもう別の遊びに夢中になっているのだった。
「魔法の庭」
―――ジョヴァンニーノとセレネッラは、素敵な屋敷で青白い少年を目撃する。―――
線路沿いからスタートしたジョヴァンニーノとセレネッラの探検は、トンネルをくぐり抜けると、初めて見る生垣の狭い通路に繋がっていた。
路を辿ると庭の一画に出た。
人影は全くない。ユーカリの撓んだ葉村と空に切れ端とが繰り出す、遥か頭上の細い円蓋。小鳥のさえずり以外、物音は何一つ聞こえない。見捨てられた庭なのだろうか?
何もかもが素敵だけど、不安は立ち込めていた。
“この庭はぼくらのものじゃない、だからすぐに追い出されることになるかもしれない。”
手入れの行き届いた花壇の広がる庭を歩き進めると、高台の大きな屋敷に出た。
相変わらず、人影はない。
ジョヴァンニーノは手押し車を見つけると、セレネッラを乗せてやり、彼女の指さす花を摘んできてやるのだった。それはとても綺麗な花束になったけれど、生け垣を乗り越えて逃げるときには、きっと捨てていかなければならないのだ。
二人はプールを見つけると水に飛び込み、水泳に飽きるとプールサイドの卓球で遊んだ。
“でも思ったほど楽しくなかった。心の底に絶えずもやもやした不安のようなものが澱んでいて、みんな他人のものなのだから、いつ何時、出て行けと言われて追いはらわれたって仕方がないと思っていた。”
銅鑼が鳴り、籠った音が暫く響いた。
二人が花壇に隠れると、召使がパラソルの下の丸テーブルにミルクティーとスポンジケーキを置いて引き揚げていった。
二人はそれらを口にしてみたが、味がわからなかった。美味しいのに味わうことが出来ないのだ。
屋敷に近づき、鎧戸の格子の桟を透かして中を覗くと、そこは綺麗な部屋だった。
薄明りの中、壁いっぱいに蝶の標本が飾られている。青白い少年が、デッキ・チェアに腰掛け、華奢な白い手で挿画入りの分厚い本をめくっていた。
少年は覗いている二人よりももっと不安そうにそわそわしていた。
“まるで、その本も、そのデッキ・チェアも、あの額に入れて飾った蝶たちも、そして噴水におやつにプールに並木道つきの庭も、何か大きな手違いで自分に与えられているだけなのだと思っているようだった。だから彼には味わうことが出来なくて、ただその過ちの苦渋を自分の罪ででもあるかのように我が身に引き受けて咬みしめているだけなのだった。”
線路のレールは夏の日差しを受けて煌めき、焼けそうに熱い。その下には一面、うろこ模様の海。上には白い雲のたなびく空。
線路を歩くのは楽しいし、遊びだって色々できる。レールの上を釣り合いを取りながら歩いてみたり、枕木から枕木へと飛び移ったり。いつもより遠くまで足を延ばせば、もっと楽しいことが見つかるかもしれない。
しかし、どこで間違えたのか、いつもの遊びが、いつの間にか現実とも異界ともつかない奇妙な場所に繋がってしまった。
庭と屋敷を構成するすべてのものが、美しく心地良い。しかし、なぜかその美と心地良さを味わうことが出来ない。
あの青白い少年は、きっと屋敷と庭の主に違いないのに、まるで幽閉された罪人のようでもあった。彼は何を象徴しているのか。迷い込んだ二人と少年との間には、感情の奇妙な共有があったのに、両者の関係は最後まで一方的に覗き見る者と覗き見られる者でしかなかった。
ジョヴァンニーノとセレネッラはひたすら押し黙ってその場を離れた。もと来た道を急ぎ足で、しかし決して走らずに引き返すと、浜辺に続く道があった。
遊び方を間違えたのなら、新しい遊びを始めなければならない。
海に辿り着いた二人は、とびきり楽しい遊びを考え出した。二人は日が暮れるまで、海草を投げ合って戦争ごっこを続けた。
ジョヴァンニーノとセレネッラは、「楽しみはつづかない」でも、新しい遊びに興じている。葦が生い茂る川岸で二人が出会ったのは、悲しい目の兵士だった。
二人は絶えず新しい遊びを思いつく。
だけど楽しみは続かない。
現実が絶えず水を差してくる。うなだれて地面にへたり込む。それでも、新しい遊びをあきらめない。へこたれても、へこたれても、何かを思いついて走り出す。
現実と白昼夢がシームレスな奇妙な世界だ。
遊ぶ子供たちと殺される兵士たち。どちらも虚しくなるくらい明るくて軽い。彼らは本当にそこにいたのか?彼らが火をつけた導火線はどこに続いていたのか?こんな戦争の描き方もあるのだ。
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