創元推理文庫版の夢野久作傑作集『少女地獄』には、「死後の恋」、「瓶詰の地獄」の二編の短編と、中編「氷の涯」、オムニバス「少女地獄」が収録されている。
「少女地獄」は、「何でも無い」、「殺人リレー」、「火星の女」の三部で構成されている。三部とも手紙や新聞の見出しを多用した夢野久作らしい作風で、主人公の少女は物語の中で自ら命を絶つ。なかでも、命がけで嘘に噓を重ね続けた「何でも無い」の姫草ユリ子の壮絶な生涯には圧倒される。
「何でも無い」は、横浜で耳鼻科医院を開業する臼杵利平医師から、K大耳鼻科の白鷹秀麿助教授に宛てた手紙という形式をとっている。
手紙の冒頭から両氏が親しい間柄でないことはわかる。ほんの束の間言葉を交わしたことがあるだけの彼らを結ぶ唯一の存在が姫草ユリ子だ。
その姫草ユリ子が自殺したのだ。それも臼杵・白鷹両氏への恨みつらみを綴った遺書を残して。両氏と姫草ユリ子の間に何があったのか?
臼杵医師の手紙になかには、姫草ユリ子の遺書が丸々写されている。
その遺書の主張では、臼杵・白鷹両氏は無力で世間知らずな少女を弄んだ挙句、無情にも放り捨て、社会的地位の高さを笠に着て知らん顔を決め込んでいる外道ということになる。
しかし、姫草ユリ子の主張にはひとかけらの真実もないのだ。
自分たちの後にも新たな被害者が出ていることを知った臼杵医師は、特高の田宮課長に連絡を入れた。その上で、白鷹助教時にも手紙を書いたのである。
彼女の嘘に翻弄され、散々迷惑をかけられたことを自覚しているはずの臼杵医師に、“可憐な、清浄無垢な”と述懐させる姫草ユリ子とは、いったい何者なのか?
渺たる一少女に過ぎない彼女が、かくも長期間に渡って何人もの人々を騙し続け、その挙句、彼女自身の運命まで葬らねばならないほどの窮地に陥れて行くべく余儀なくされた、そのそもそもの動機は何なのか?
臼杵医師と姫草ユリ子との出会いは突然だった。
臼杵耳鼻科医院開業の前日、姫草ユリ子は紹介状もなしにバスケット一つで突然訪れ、看護婦に雇ってくれと懇願してきたのである。
年は十九歳。青森の県立女学校を出てから上京し、K大耳鼻科で看護婦をしていた。兄も上京していて、丸ビルで働いている。身元保証人の叔母は、下谷で髪結いをしている。問われるままに自らのプロフィールを語る姫草ユリ子を、臼杵医師はその場で採用することに決めてしまった。K大にも叔母にも身元の確認をせずに…。少し考えれば、彼女の弁にはいくつもの矛盾点や不安点が見つけられるのに、彼女のいじらしく健気な印象に幻惑されてしまったのだ。
姫草ユリ子の看護婦としての腕には確かなものがあった。
器用でよく気が付き可憐な印象の彼女は、たちまち臼杵耳鼻科のマスコットとして、患者たちから臼杵医師以上の信頼と親しみを寄せられるようになった。それに加えて、彼女の実家が時々送ってくる贈答品によって、臼杵医師は彼女が裕福な出自の人であると信じ込んでしまった。早くも給料アップを検討するほどに、姫草ユリ子を手放しがたい存在と考えるようになってしまったのである。
すべては、姫草ユリ子の創作であった。
人当たりの良さと巧みな話術に加えて、実家からと偽って身銭を切って贈り物をしたり、電話でアリバイ作りをしたりと念の入った工作に臼杵医師はすっかり騙されてしまった。
この辺で止めておけば、彼女の正体も暴露されず、臼杵医院もマスコットを失わず、万事上手くいっていたであろう。
ところが、あっさりと手に入った厚遇に退屈を感じ始めたのか、更なるスリルを求めたのか、姫草ユリ子は異常な活躍を始めた。その彼女の選択が、K大耳鼻科の白鷹助教授と臼杵医師の家庭、更には彼女自身をも悪夢の中に陥れ始めるのである。
診察の合間の雑談で、臼杵医師は姫草ユリ子から、度々「臼杵先生は白鷹先生にソックリよ」と言われるようになった。姫草ユリ子はK大耳鼻科で働いていたころ、白鷹医師から可愛がられていたらしい。
白鷹先生は、臼杵医師の大学の先輩であるが親交はない。しかし、毎日のようにソックリと好意的な口調で言われ続ければ、自然と親しみが湧いてくるというもの。大学の先輩後輩だし、姫草ユリ子という共通の知人がいるのだ。会ってみたい。社交的な質の臼杵医師は、姫草ユリ子に白鷹先生に連絡を取ってくれるように頼んだ。
やがて臼杵医師の元に白鷹助教授から電話が来るようになる。しかし、会う約束をしても、直前になるとキャンセルの電話を入れられてしまうのだ。
白鷹助教授の態度に憤慨する姫草ユリ子を、臼杵医師は「会おうと思えばいつでも会えるさ」と慰めた。この言葉が、彼女を恐ろしい強迫観念の無間地獄に陥れる。
姫草ユリ子は、自分の看護婦としての信用がいかに高いものかを、白鷹助教授の名によって立証すべく苦心していた。この時すでに、世間を騒がせている「謎の女」の新聞記事によって、社会的破滅の脅威に晒されている彼女の自己意識を満足させると同時に、彼女自身しか知らない彼女の過去を完全に偽装しようと試みていた彼女の努力は、本物の白鷹助教授と臼杵医師が対面すれば跡形もなく粉砕されてしまうのだ。
“どうしても会えない人間”―――最初に姫草ユリ子に疑惑の目を向けたのは臼杵医師の細君であった。臼杵医師は、細君は探偵小説趣味だからと述べているが、そうでなくても女性は同性のことをよく観察しているものだ。相手が魅力的な女性なら猶のこと。細君は、姫草ユリ子が気の緩んだ時に見せる十九歳にしては老け過ぎた横顔とひどく貧乏くさい惨めな風付きについて夫に語る。聞いているうちに、臼杵医師は、姫草ユリ子の正体がだんだん消え失せて行くように感じた。
細君の観察眼には一目置いている臼杵医師である。ぜひとも白鷹助教授に会おうと起こした行動が、姫草ユリ子の命運に鉄槌を下してしまうのだった……。
名前も年齢も出自も何一つ本当のものが無い、嘘に嘘を塗り固めた張り子の様な娘。
手紙の中で臼杵医師は、姫草ユリ子のことを何度も“嘘の天才”と呼んでいるが、所詮は世間知らずな若い娘の空想。一度綻びが生じれば、社会的地位のある医師や、国家権力の走狗である特高、世間擦れしたジャーナリストらが寄って集って彼女の虚構を暴くのは簡単だった。
アカの嫌疑をかけられ拘留された上に、色魔とまで言われた。それ以上に耐えがたかったのは、彼女の構築した虚構とかけ離れた彼女の実情を暴かれてしまったことだろう。
虚構の天国の夢を叩き破られて、再び冷たく空虚な現実の上に放逐されてしまうことは、死刑宣告以上に恐ろしい。そうした幻滅を回避するための死に物狂いの苦闘が、彼女自身を更なる窮地に陥れてしまう悪循環。それが彼女の落ちた地獄だ。
何でも無い事に苦しんで、何でも無い事に死んでいった。他人から見れば、それだけの人生だけど。
十九歳で故郷を飛び出してからもう六年。名前や経歴は偽り続けることが出来ても、年齢はいつまでも偽れない。彼女のこだわりが、優秀な看護婦であり続けることよりも、少女であり続けることにより重点を置いていたのなら、臼杵医師に出会わなくても遅かれ早かれ破滅していただろう。
カサカサに干からびた現実世界に背を向け、自分の空想が生んだ虚構を唯一無上の天国と信じ、命がけで抱きしめ、虚構の崩壊とともに命を絶った姫草ユリ子は、言ってみれば己の少女性に殉じたのだ。二十五歳であるらしい彼女の実年齢は、少女性を取り繕えるギリギリの年齢であったのかもしれない。
「少女地獄」は、「何でも無い」、「殺人リレー」、「火星の女」の三部で構成されている。三部とも手紙や新聞の見出しを多用した夢野久作らしい作風で、主人公の少女は物語の中で自ら命を絶つ。なかでも、命がけで嘘に噓を重ね続けた「何でも無い」の姫草ユリ子の壮絶な生涯には圧倒される。
「何でも無い」は、横浜で耳鼻科医院を開業する臼杵利平医師から、K大耳鼻科の白鷹秀麿助教授に宛てた手紙という形式をとっている。
手紙の冒頭から両氏が親しい間柄でないことはわかる。ほんの束の間言葉を交わしたことがあるだけの彼らを結ぶ唯一の存在が姫草ユリ子だ。
その姫草ユリ子が自殺したのだ。それも臼杵・白鷹両氏への恨みつらみを綴った遺書を残して。両氏と姫草ユリ子の間に何があったのか?
臼杵医師の手紙になかには、姫草ユリ子の遺書が丸々写されている。
その遺書の主張では、臼杵・白鷹両氏は無力で世間知らずな少女を弄んだ挙句、無情にも放り捨て、社会的地位の高さを笠に着て知らん顔を決め込んでいる外道ということになる。
しかし、姫草ユリ子の主張にはひとかけらの真実もないのだ。
自分たちの後にも新たな被害者が出ていることを知った臼杵医師は、特高の田宮課長に連絡を入れた。その上で、白鷹助教時にも手紙を書いたのである。
彼女の嘘に翻弄され、散々迷惑をかけられたことを自覚しているはずの臼杵医師に、“可憐な、清浄無垢な”と述懐させる姫草ユリ子とは、いったい何者なのか?
渺たる一少女に過ぎない彼女が、かくも長期間に渡って何人もの人々を騙し続け、その挙句、彼女自身の運命まで葬らねばならないほどの窮地に陥れて行くべく余儀なくされた、そのそもそもの動機は何なのか?
臼杵医師と姫草ユリ子との出会いは突然だった。
臼杵耳鼻科医院開業の前日、姫草ユリ子は紹介状もなしにバスケット一つで突然訪れ、看護婦に雇ってくれと懇願してきたのである。
年は十九歳。青森の県立女学校を出てから上京し、K大耳鼻科で看護婦をしていた。兄も上京していて、丸ビルで働いている。身元保証人の叔母は、下谷で髪結いをしている。問われるままに自らのプロフィールを語る姫草ユリ子を、臼杵医師はその場で採用することに決めてしまった。K大にも叔母にも身元の確認をせずに…。少し考えれば、彼女の弁にはいくつもの矛盾点や不安点が見つけられるのに、彼女のいじらしく健気な印象に幻惑されてしまったのだ。
姫草ユリ子の看護婦としての腕には確かなものがあった。
器用でよく気が付き可憐な印象の彼女は、たちまち臼杵耳鼻科のマスコットとして、患者たちから臼杵医師以上の信頼と親しみを寄せられるようになった。それに加えて、彼女の実家が時々送ってくる贈答品によって、臼杵医師は彼女が裕福な出自の人であると信じ込んでしまった。早くも給料アップを検討するほどに、姫草ユリ子を手放しがたい存在と考えるようになってしまったのである。
すべては、姫草ユリ子の創作であった。
人当たりの良さと巧みな話術に加えて、実家からと偽って身銭を切って贈り物をしたり、電話でアリバイ作りをしたりと念の入った工作に臼杵医師はすっかり騙されてしまった。
この辺で止めておけば、彼女の正体も暴露されず、臼杵医院もマスコットを失わず、万事上手くいっていたであろう。
ところが、あっさりと手に入った厚遇に退屈を感じ始めたのか、更なるスリルを求めたのか、姫草ユリ子は異常な活躍を始めた。その彼女の選択が、K大耳鼻科の白鷹助教授と臼杵医師の家庭、更には彼女自身をも悪夢の中に陥れ始めるのである。
診察の合間の雑談で、臼杵医師は姫草ユリ子から、度々「臼杵先生は白鷹先生にソックリよ」と言われるようになった。姫草ユリ子はK大耳鼻科で働いていたころ、白鷹医師から可愛がられていたらしい。
白鷹先生は、臼杵医師の大学の先輩であるが親交はない。しかし、毎日のようにソックリと好意的な口調で言われ続ければ、自然と親しみが湧いてくるというもの。大学の先輩後輩だし、姫草ユリ子という共通の知人がいるのだ。会ってみたい。社交的な質の臼杵医師は、姫草ユリ子に白鷹先生に連絡を取ってくれるように頼んだ。
やがて臼杵医師の元に白鷹助教授から電話が来るようになる。しかし、会う約束をしても、直前になるとキャンセルの電話を入れられてしまうのだ。
白鷹助教授の態度に憤慨する姫草ユリ子を、臼杵医師は「会おうと思えばいつでも会えるさ」と慰めた。この言葉が、彼女を恐ろしい強迫観念の無間地獄に陥れる。
姫草ユリ子は、自分の看護婦としての信用がいかに高いものかを、白鷹助教授の名によって立証すべく苦心していた。この時すでに、世間を騒がせている「謎の女」の新聞記事によって、社会的破滅の脅威に晒されている彼女の自己意識を満足させると同時に、彼女自身しか知らない彼女の過去を完全に偽装しようと試みていた彼女の努力は、本物の白鷹助教授と臼杵医師が対面すれば跡形もなく粉砕されてしまうのだ。
“どうしても会えない人間”―――最初に姫草ユリ子に疑惑の目を向けたのは臼杵医師の細君であった。臼杵医師は、細君は探偵小説趣味だからと述べているが、そうでなくても女性は同性のことをよく観察しているものだ。相手が魅力的な女性なら猶のこと。細君は、姫草ユリ子が気の緩んだ時に見せる十九歳にしては老け過ぎた横顔とひどく貧乏くさい惨めな風付きについて夫に語る。聞いているうちに、臼杵医師は、姫草ユリ子の正体がだんだん消え失せて行くように感じた。
細君の観察眼には一目置いている臼杵医師である。ぜひとも白鷹助教授に会おうと起こした行動が、姫草ユリ子の命運に鉄槌を下してしまうのだった……。
名前も年齢も出自も何一つ本当のものが無い、嘘に嘘を塗り固めた張り子の様な娘。
手紙の中で臼杵医師は、姫草ユリ子のことを何度も“嘘の天才”と呼んでいるが、所詮は世間知らずな若い娘の空想。一度綻びが生じれば、社会的地位のある医師や、国家権力の走狗である特高、世間擦れしたジャーナリストらが寄って集って彼女の虚構を暴くのは簡単だった。
アカの嫌疑をかけられ拘留された上に、色魔とまで言われた。それ以上に耐えがたかったのは、彼女の構築した虚構とかけ離れた彼女の実情を暴かれてしまったことだろう。
虚構の天国の夢を叩き破られて、再び冷たく空虚な現実の上に放逐されてしまうことは、死刑宣告以上に恐ろしい。そうした幻滅を回避するための死に物狂いの苦闘が、彼女自身を更なる窮地に陥れてしまう悪循環。それが彼女の落ちた地獄だ。
何でも無い事に苦しんで、何でも無い事に死んでいった。他人から見れば、それだけの人生だけど。
十九歳で故郷を飛び出してからもう六年。名前や経歴は偽り続けることが出来ても、年齢はいつまでも偽れない。彼女のこだわりが、優秀な看護婦であり続けることよりも、少女であり続けることにより重点を置いていたのなら、臼杵医師に出会わなくても遅かれ早かれ破滅していただろう。
カサカサに干からびた現実世界に背を向け、自分の空想が生んだ虚構を唯一無上の天国と信じ、命がけで抱きしめ、虚構の崩壊とともに命を絶った姫草ユリ子は、言ってみれば己の少女性に殉じたのだ。二十五歳であるらしい彼女の実年齢は、少女性を取り繕えるギリギリの年齢であったのかもしれない。