青い花

読書感想とか日々思う事、飼っている柴犬と猫について。

鳥類学者 無謀にも恐竜を語る

2017-07-11 07:19:32 | 日記
川上和人著『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』

本書のテーマは、恐竜と鳥類の関係性を背景とした鳥類進化の再解釈と恐竜の生態の復元だ。著者の川上和人氏は、森林総合研究所主任研究員。普段は小笠原諸島に暮らす鳥類を中心に研究をしている鳥類学者である。

“鳥は恐竜から進化してきているので、その間は連続的であり、鳥と恐竜の違いをバッサリと分かつことはできない。鳥になる直前の恐竜は、すでに鳥っぽい特徴をもっていたであろうし、鳥になった直後の鳥は、まだ恐竜っぽい特徴を残していたと考えられる。しかし、いわゆる鳥と、いわゆる恐竜の間には、多くの相違点と共通点がある。(P84)

元恐竜大好き少女であり、これまで鳥類には然程興味がなかった私であるが、本書を読み終わった後には、恐竜と鳥類との意外なほどの共通点の多さと、似ていないところはまったく似ていない点に関心を持つようになっていた。


序章  恐竜が世界に産声をあげる
第1章 恐竜はやがて鳥になった
第2章 鳥は大空の覇者となった
第3章 無謀にも鳥から恐竜を考える
第4章 恐竜は無邪気に生態系を構築する

第1章は、生物学における種の認識と、恐竜と鳥類の具体的な関係についての概説。
種という概念と、生物の分類に対する考え方を確認してから、恐竜学では種はどのように語られているのか、また恐竜の子孫である鳥類の場合との差異はあるのかについての認識を深めていく。

言うまでもないが、恐竜は現生生物ではない。
恐竜学における種とは、形態から判断される種なのである。恐竜の種を定義するための情報は化石しかないのだが、化石からDNAを取り出すことにはまだ成功していない。化石から得られる判断材料は形態の情報だけだ。しかも丸々一体の骨格が綺麗に発見されることなど稀で、一部の骨の形態しかわからないという場合の方が多い。このため恐竜の種は、時代や各研究者の判断に大きく左右される。恐竜学の世界では別種と思われていたものが、のちに同種だとされることは珍しくないのだ。逆に同種とされている個体には本当は別種の可能性があるものも含まれている。

同じ種に対して、二つの名前が付けられてしまうことだってある。
私が子供時代にブロントサウルスという名で親しんでいた恐竜は、今はアパトサウルスという名がついている。別種だと考えられていたブロントサウルスとアパトサウルスが、実は同じ種だと考えられるようになったため、ブロントサウルスの名はなくなってしまったのだ。
このように恐竜学の世界においては、判断材料の乏しさゆえに、別種と考えられていたものが同種とされることは珍しい事ではないのだ。
例えば、トリケラトプスは頭のフリルなどの形がちがうことを根拠に、過去に十種以上のトリケラトプス属の恐竜が記載されていたが、最近では一種または二種にまとめられることが多い。別種とされていたトロサウルスもトリケラトプスのシノニムとする研究が発表されている。
また、ナノティラヌスは、ティラノサウルス・レックスの幼体である可能性が指摘されている。
鳥類にもツメバケイのように子供の時と大人になってからで大きく違った形態を示すものがある。また、オオタカやサイチョウ類の様に雄雌で異なる形態をもつ鳥もいる。我々が成鳥と幼鳥、雄と雌とを別種と見誤ることが無いのは鳥類が現生生物であるからで、これが化石からの判断では別種と考えてしまう可能性も低くはない。

化石の骨から種を判断することを難しくしている原因は何なのか。
それは、同種であっても生物には個体差があるからだ。性差、年齢差もある。種内の個体差が、種間の形態差よりも大きくなることは然程珍しくない。ある恐竜が骨の形態の似た別の恐竜と同種だったのか、あるいは別種だったのか。誰も生きている恐竜を見たことがないので、明確な基準に基づいた結論を出すことは困難だ。
恐竜学において認識される種とはあくまでも骨の形態が似ているものの集まりでしかないのだが、骨の形態も化石化する過程で変形することもある。恐竜学で使っている種とは現生生物を対象とした形態学的種概念とは別のものだと考えるべきなのだ。

それでは、鳥類と恐竜の類縁関係はいかにして明らかになったのか。
今でこそ、鳥類が恐竜起源だということは多くの研究者の共通認識になっているが、ここに至る道は平坦ではなかった。

恐竜と鳥類との関係を語るとき、一番に想起するのはシソチョウである。
シソチョウの化石は、1861年にドイツで発見された。シソチョウは、鳥類同様に羽毛を持つ一方で、爬虫類同様に骨のある尾と歯のある口を持つ。これが恐竜起源説の発端となる。
1868年、トーマス・ハクスリーは論文で、シソチョウと小型獣脚類コンプソグナトゥスの骨格が非常によく似ていることを指摘し、鳥と爬虫類が近縁であることを示唆した。直前の1858年に、ダーウィンが『種の起源』を発行している。『種の起源』では、系統的に近縁なグループの間には、中間の特徴をもった種がいるはずだと主張されている。
1870年には、ハクスリーは別の論文で、シソチョウと鳥脚類ヒプフォドンなどの骨との比較を行って、特に後肢の形態から、恐竜が鳥の祖先だろうと主張している。
しかし、鳥類に特徴的な叉骨が恐竜からは見つかっていなかったことから、その後100年ほど議論は停滞する。

1969年にジョン・オストロムが獣脚類ディノニクスを発表。
鳥と獣脚類では、手首の形態の共通する特徴があることを示し、獣脚類の恐竜が鳥の祖先だろうという主張を開始した。

叉骨問題は、恐竜から叉骨が見つかったことで解決した。
恐竜の叉骨は小さくて目立たなかったのだ。獣脚類ティラノサウルスでも、Ⅴ字型の叉骨が見つかり、この形状の叉骨が鳥になる前に進化したことも明らかになった。

シソチョウが見つかったのは約一億五千万年前の地層だが、最近では、シソチョウより古いジュラ紀後期の地層から発見されたアンキオルニスから羽毛が発見された。また、鳥類には近縁でない系統の種でも羽毛が見つかり始めており、様々な恐竜が原始的な羽毛を持っていたと考えられるようになってきている。

現生生物では、鳥だけが持つ気嚢システムを恐竜も持っていたと考えられる証拠も得るようになってきた。
白亜紀に生息していた獣脚類マジュンガサウルスにも、脊椎骨の形態から気嚢が存在していたと考えられているのだ。三畳紀に生息していた原始的な獣脚類タワ・ハラエも顎に気嚢を持っていたと考えられている。このため、気嚢は鳥類が進化するよりも古くから恐竜で進化してきたものと考えられるのだ。

恐竜からDNAを採取し、鳥と比較することにはまだ成功していないが、DNA以外の分子を用いた研究は行われている。ティラノサウルスの骨から抽出したコラーゲンを分析したものである。
コラーゲンはタンパク質の一種で、多数のアミノ酸を含んでいる。2007年に、このアミノ酸の配列を分析した結果、ティラノサウルスはワニやトカゲよりもニワトリやダチョウとの近縁であることが明らかになったのだ。

恐竜起源説の唯一の弱点となっていた、恐竜と鳥類の間の前肢の指を巡る大きな相違点についても、2011年に東北大学の田村宏治教授らの研究により解決された。
原始的な獣脚類ヘレラサウルスでは前肢の指が5本あったが、そのうちの第4,5指(薬指と小指)は退化し小型になっていた。より進化した獣脚類では、指が3本で、これらは退化せずに残った第1、2、3指と考えられていた。
一方、鳥の翼には退化した指の骨が3本ある。ニワトリの胚の発生を追跡した結果、これらは第2、3、4指(人差し指から薬指)であると考えられた。鳥が獣脚類から生まれたとすると、一度退化した第4指が再び現れて、第1指が退化するという複雑なイベントが生じなくてはならない。序章でも述べられているが、進化は「節約的」に考えることがルールとなっている。
田村教授らがニワトリの指の発生を追跡したところ、最初に第2、3、4指の場所で生まれた指の原型となる細胞が、途中でずれて第1、2、3指の位置に移動して指になることが分かったのだ。つまり鳥類の三本指も恐竜と同じ第1、2、3指なのである。
ここに、恐竜起源説に不利な最大の矛盾が解決された。恐竜起源説の浸透には、シソチョウ発見から実に150年もの時間がかかったのである。

系統関係が明らかになってくるにつれ、「鳥は恐竜である」という表現が使われるようになってきた。川上氏は、行動や生活を考えていく上では、むしろ「恐竜は鳥である」と指摘している。恐竜のことはわからないことだらけなのだから、鳥から類推するしかない。このことこそが、この本のテーマであり、ここから先への大前提なのだ。


川上氏の著作を読むのは初めてなので、これが氏のいつものスタイルなのかはわからないが、本書は序盤から脱線が多い。例えば、第2章Section1の記述。

“さて、鳥の体は、飛ぶためにできている。まずなによりも、翼がある。鳥の翼は前肢、すなわち人間でいえば腕に相当する部分だ。”

ここまでは普通である。しかし、この後妙な方向に話が展開する。

“天使の翼は、腕とは別に背中から生じているので、天使の翼と鳥の翼は別に起源を持つ器官だ。おそらく肩胛骨あたりが翼に進化した他人のそら似だろう。このように、似た機能をもつものが似た形態になることを「収斂」と呼ぶ。サモトラケ島で見つかった勝利の女神ニケの像には、腕がなく翼があるので、鳥の翼と同じかと思いこんでいた。しかし、あれは腕の部分が折れているだけらしい。調べてみると、人型有翼文化的生物、腕のかわりに翼をもつものかほとんどいない。天狗も迦陵頻伽もデビルマンも、腕と翼が両方ある。翼だけなのはせいぜいギリシャ神話の怪物ハルピュイアくらいだ。両方を欲する人間は実に貪欲である。”

天使だの天狗だのの翼の構造に興味を持ったことなんてなかった。挙句の果てにはデビルマンって…。しかし、言われてみれば腕と翼が同じ体に備わっている状態は、構造上ちょっと奇怪である。指摘されないと興味を持たないあたりが、凡人の凡人たる所以だが。
腕も翼もと、何でも欲しがるのは退行的進化とは正反対の欲求であり、この貪欲さが結局は種の進化の妨げとなるのだろう。

また、ヤブサメ(体長約10センチ、体重7~8グラム)は、チロルチョコと同じくらいの重さなんて指摘も楽しい(第2章Section4)。
ヤブサメは暖かい季節は名前通り藪の中を生息地としているのだが、冬季には海を越えて一千キロ以上移動する渡り鳥である。長距離飛行に適しているのは尖って長い翼だが、ヤブサメの翼は丸くて短い。死体だけを見たら、川上氏はこの鳥は長距離飛行をせず一生を藪の中で過ごす鳥と判断してしまうだろう、とのこと。
このようにちょくちょく脱線しつつも、その脱線をきちんと本筋に回収する話術はさすがである。

本書は2013年出版。
川上氏も述べているように恐竜学は日進月歩なので、2017年現在にはもはや古くなっている学説もあるだろう。また、川上氏独特の脱線癖が肌に合わない人もいるかもしれない。それらの点を考慮しても本書は読む価値のある一冊だと思う。恐竜目当てに本書を読み始めた私も、本書から鳥類学に興味を持ったくらいなのだから。

退化とは退行的進化という進化の側面の一つである。
鳥類はこの退行的進化に長けていた。翼竜の体は地上性爬虫類時代の痕跡を引きずっていたが、鳥類は過去を捨て去ることで飛翔に特化した体を得ることに成功し、大空の覇者となることが出来たのだ。

“ここで、敬意をこめて今までの認識を改めたい。鳥は「歯を失った」「腕を失った」「尾を失った」のではない。空を飛ぶために、むしろ「歯や腕、尾を捨てた」と表現されるべきである。鳥の体には、進化の歴史がぎゅうぎゅうにつまっている(P128)。”

この記述には胸が熱くなった。鳥類、カッコいい!
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猫の尿路結石

2017-07-09 08:14:58 | 日記
先週の水曜日に桜が血尿を出しました。
経血よりも薄い色の血痕が数滴。桜はすでに避妊手術を済ませているので子宮はありません。何処から出た血なのか、何の病気か、とパニックになって動物病院に連れて行きました。獣医さんの見立てでは、膀胱炎か尿路結石ではないかとのこと。消炎剤などの注射を二本打ってもらい、次回持ってくるようにと検尿用の道具を渡されました。
この日はちょうど、娘・コメガネも熱を出していたので、病院の梯子になり、バタバタでしたよ。

猫は環境の変化がストレスとなって、血尿を出すことがあるそうです。
我が家では五月末に仔猫ちゃんを二匹(蓬&柏)引き取ったのですが、それが原因かもしれないと思いまして、この日から桜を蓬&柏と別室で過ごさせることにしました。その方が、トイレを共用されずに済みますし。




桜は、一番荷物の少ない私の寝室を使うことになりました。
私の部屋は二年前にエアコンが壊れたのですが、夏場だけ娘・コメガネの部屋で一緒に寝ればよいと放置していたのですよね。ところが、今年になってからコメガネが、プライバシーがどうのこうのと小癪なことを言って一緒に寝させてくれなくなったので(私の部屋には勝手に入るくせに)、しぶしぶエアコンを買い替えたのです。その時は、もったいないと思いましたが、桜が私の部屋を使うのなら丁度良かったです。

猫の採尿は思った以上に難しかったです。
普通に猫トイレで排尿すると猫砂が尿を吸収してしまうので、容器に一握りだけ猫砂を入れて(まったく入れないとしてくれない)、何とか一回分だけ採尿できました。

それで、木曜日に容器に入れた尿をもって、再び動物病院に行ったのですが、何と尿に猫砂が混じっているため、検査が不可能ということ。再チャレンジとなってしまいました。この日は、尿を薄めるための液体を注射してもらって終了。採尿、難しい…。

検尿対策に、紙で出来た猫砂を使用することにしたのですが、砂の種類が変わったためか桜がトイレに座ってくれません。何とか一回分採尿できましたが、桜に余計なストレスを与えてしまいました。採尿した直後にいつもの猫砂に換えてあげたら、さっそく排便排尿をしたので、随分我慢させてしまったのだと思います。


それで、金曜日に三度通院しましたら、漸く検査の結果を出してもらえました。
尿路結石です。顕微鏡を見せてもらったのですが、ミョウバンみたいな結晶がいっぱいありました。


〈ロイヤルカナン 猫 PHコントロール1〉というキャットフードを渡されて、経過を見ることになりました。当然、次回の通院時にも尿を持参です。採尿は疲れるのですが、仕方ないですね。
〈ロイヤルカナン 猫 PHコントロール1〉は、下部尿路疾患(ストルバイト結石症およびシュウ酸カルシウム結石症)の猫のための療法食です。動物病院で買ったら、2㎏で4,450円もしてビックリしました。普段、どんだけ安物の餌を与えているのかというツッコミはご容赦ください。でも、Amazonなどではもう少し安く購入できますし、一日当たりの食事量で割れば、それほど高価ではないような気もします。

そんなことより、桜ももう若くはないんだなぁということの方がショックですね。
牡丹さんが死んでから今年で三年目ですが、飼っている生き物の死というものは、自覚よりも深く心に爪跡を残しているらしくて、今回の桜の血尿には肝を冷やしましたよ。死にかけの状態で拾って来て、その後もずっと体が弱かった牡丹さんと違って、桜はこれまで病気知らずだったので、覚悟が足りていなかったんですね。どんなに大切に飼っても、犬猫の方が我々よりも早く死にます。桜だけでなく、凜も、蓬&柏も。いつか来るお別れの時に少しでも悔いが残らないように、気を配って生活を共にしたいと思います。


最近の蓬はバケツに嵌るのが好きです。時々、バケツごと転がります。


蓬&柏は桜が大好きでいつも遊んで欲しがるのですが、桜の体調を考えて、これまでみたいに24時間一緒にはしないことにしました。獣医さんは、食事以外は今まで通りにしていてかまわないと仰っていましたけど、蓬&柏の遊んで攻撃は、人間でも疲れてしまうくらいしつこいので、桜の様子を見ながら少しずつ共に過ごす時間を作ります。
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歪み真珠

2017-07-05 07:04:03 | 日記
山尾悠子著『歪み真珠』は、「ゴルゴンゾーラ大王あるいは草の冠」「美神の通過」「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」「美しい背中のアタランテ」「マスクとベルガマスク」「聖アントワーヌの憂鬱」「水源地まで」「向日性について」「ドロテアの首と銀の皿」「影盗みの話」「火の発見」「アンヌンツィアツィオーネ」「夜の宮殿の観光、女王との謁見つき」「夜の宮殿と輝く真昼の塔」「紫禁城の後宮で、ひとりの女が」の15編が収められた掌編集。
ただし、「ドロテアの首と銀の皿」のみは短編の長さである。この「ドロテアの首と銀の皿」は『ラピスラズリ』の番外編だが、『ラピスラズリ』を未読でも問題ないほど独立した作品である(読んでおいた方がより楽しめる)。

山尾悠子らしい人肌の温もりを感じさせない無機質で清潔な物語の詰め合わせ。バロック真珠を繋いだ首飾りのような掌編集だ。
伝染病との戦いに敗れた蛙の王、大理石の台座に乗って荒れ野を通過する美神、鏡を使って人魚に合図を送る娼婦たち、どちらが男でどちらが女だかわからない美しい双子、鏡を見ることが出来ない〈影盗み〉…どの物語からも宝石のようにキラキラしたイメージが乱反射する。
幻想物語だが、言葉を入念に選んで精密に物語を構築しているため偽物臭さが無い。世界観に一本筋が通っているのだ。静謐なパーフェクトワールド。そして、その完璧に美しい世界を惜しみなく崩壊させることによって得られるカタルシス。この愉しさを一度知ったら中毒になってしまう。


「美しい背中のアタランテ」は、ギリシャ神話に登場する女狩人アタランテの物語。
アタランテの父は男子を欲していたため、女児のアタランテが生まれるとすぐに山に捨てた。雌熊に育てられたアタランテは、やがて怪力と俊足で知られるようになる。また、アルテミスに倣い処女を守り、狩りを生業とするアタランテは、アルテミスの様に美しく清らかで無慈悲だった。

アタランテの名声に惹かれ、求婚者たちが押し寄せた。
アタランテは、求婚者たちに彼女との徒競走に応じることを要求する。求婚者が勝てば結婚するが、負ければその場で射殺するというのが条件だ。
アタランテは人間のうちで最も俊足だったので、求婚者たちは次々に惨殺されていく。

“なるほど私の見てくれは悪くないようだ。強いて冷静を保ちながらアタランテは考えた。だがそのことが何の役に立ったか?また怪力俊足とは、女の身に与えられるにしては何と風変わりな特質であることよ。男も女ももはや私には煩わしい。母を泣かせ、運命に絶望したこの身に出来ることがまだ何か残っているだろうか。”

アタランテは自分が負けるなどとは微塵も考えていない。走る前から射殺する気満々である。
最初は復讐のつもりだったかもしれない。
父に捨てられたこと。アルゴナウタイに参加できなかったこと。脂下がった男から足元に金の林檎を転がされること。そんな男の身勝手な理屈で蒙った様々な不如意とか、己の特技特質が女としての幸福に何一つ寄与してくれないこととか、それらに対する憤怒を噂に浮かれてヌルッと求婚してくる軽薄な男たちにぶつけてみたかったのかもしれない。
求婚者は雨霰のように現れる。アタランテは狩人としての仕事も捨てて、ひたすら走り続けた。最早誰も彼女の顔を見ることが出来ない。

“アタランテの顔は忘れられた。それはあまりの速さに着衣がはだけた背中、音は壁となり疾走の速度がすべてを混沌に巻き込む場所でだけ見ることのできる背中。走ることに特化して鍛え抜かれたしなやかで強靭な筋肉のうねり。背後で惨殺される求婚者たちの悲鳴と血飛沫には見向きもしない。男たちはただ後を追ってふらふらと駆け出すしかなかった。俊足のアタランテは美しい背中、それは鋭く風を切り混沌とした世界の中心に飛び込んでいく。”

何者よりも速く疾走すること。
その一点に集中して特化することが、アタランテの救いとなった。もはや何のために求婚者たちに命がけの徒競走を要求しているのかも思い出せない。彼女の意中にあるのは疾走する自分の背中だけだ。完璧に純化された存在となって、アタランテは俗世から離脱していくのである。


「アンヌツィアツィオーネ」は、天使を見ることのできる少女の物語。アンヌツィアツィオーネとは、受胎告知という意味だ。
“人は暗い所では天使に会わない。”という出だしの一文から引き込まれる。『ラピスラズリ』の啓蟄の天使もだけど、この物語の天使も人間に慈愛や恩恵を与えてくれない。それなのに尊く慕わしく感じるのはなぜなのだろう。

少女は幼いころから折々に同じ天使を見た。それが天使であることは誰に教わらなくとも彼女には正しく理解できた。
天使を見るのにはコツのようなものがある。
天使は視界の中央には姿を見せない。気配に気づいても、そちらに目を向けると忽ち消えてしまうので、気づいていないような素振で視界の隅にその姿を捉えるしかない。

だけど、少女は一度だけ天使の姿をはっきりと見たことがあった。
七歳の誕生日のことだった。彼女はある目的をもって、日曝しの塔の縁石にしがみついていた。うっかりと手を離せば吹き飛ばされそうな強風の中、用ありげに飛行していく最中の天使の遠い姿を目撃したのだ。その時、彼女の胸に満ちた思いは、安堵としか言いようのないものだった。
この天使は何者なのか?彼女の守護天使なのだろうか?

天使を見た日の夜は、髪をほどくと必ず数片の白い羽毛がこぼれだした。床に舞い散ったそれは拾い上げる前に、跡形もなく消え失せるのだった。
天使との秘め事を守るため彼女は寡黙に育った。天使は彼女であり、彼女は天使であるように思われ、それ以外のすべてのことは些事となった。

“あのかたとわたしとのあいだには約束がある。”

“どのような結末を迎えることになるのか皆目見当がつかないにしても、人としてのわたしの人生はすでに神ではなく天使の領域に侵犯されている”

彼女は、いつかそのように思い定めるようになっていた。
天使の姿をはっきり見ることが出来なくても、その声を夢で聴くことは出来た。

“恵ミニ満チタル汝ニ幸イアレ。”

輝く羽と同じ物質で出来た祝福の言葉に、彼女は歓喜の涙をこぼした。

15歳の年越しの夜に見た夢はいつもと違っていた。
十日と十夜の大火事の果てに滅びた世界の中心で、彼女は象牙の冠を戴いた女王になっていた。円天井の塔からは王都の廃墟が地平まで続いていくのが眺められた。
そして、西でもなく東でもない方角に光が増し、凛々しい処女戦士のような甲冑姿の天使が入場してくるのを彼女は見た。見覚えの無い天使だった。性別不明の彼もしくは彼女は死の告知の徴である棕櫚の枝を手にしていた――。

許嫁の決まった16歳の春、ついに彼女は正式な天使の訪れを迎えた。そのとき陽光に満ちた世界には一点の曇りもなく、東屋には薔薇が咲き誇っていた。祝福そのものの世界だった。
マリアよ、と旧知の天使は初めて彼女の名を呼んだ。
その口調は晴れやかさを確信させはしたが、初めて正面から見たその顔は金色の光に満ちながらも妙に意味ありげな目つきと馴れ馴れしさすら感じさせる唇で。

“恵に満ちたる汝に幸いあれ。汝、精霊によりて身籠りたり。”

“生まれる御子は半陰陽。御子は世界を滅ぼすでしょう。……”

彼女に死を告知した甲冑姿の天使と受胎告知の天使は、それぞれ別の存在からの使者なのだろうか?腰に剣を下げた甲冑の天使は、頑なで潔癖な面持ちが神の御使いにふさわしい。ならば、やや禍々しさを感じさせる受胎告知の天使は、神の御使いではないということだろうか?そうなると、この天使が百合の花を捧げて受胎を告げた御子もまた神の子ではないことになるのだが。でも、そんなことは、“神ではなく天使の領域に侵犯されている”と考えている彼女にとってはどうでも良い事かもしれない。

作中には明確な回答はない。
だけど、私はこの二人の天使は同じ天使だと思うのだ。処女の様に潔癖な死の天使と、淫蕩な匂いのする受胎告知の天使は、一つの存在の表裏なのではないか?
彼女の生んだ御子即ちイエス・キリストもまた、相反する要素を併せ持つ存在だ。彼は破壊者であり救済者でもあるのだ。
完璧に構築された世界が反転して、崩壊する。寄って立つ大地が突如無くなることの恐怖と快感。救済が破壊で、破壊が救済。世界が崩壊した後の廃墟からは、また新しい世界が生まれる。その死と再生の担い手が、マリアでありイエス・キリストなのだろう。そして、来るべき時期を告げるのが天使の役割だ。世界を一つの有機体とし、その死と再生のサイクルを殆ど作業的と言っても良いほどに無機的な態度で取り仕切る。そこには一人一人の人間への共感や慈しみはない。


鉱物的な無機質さと共感性の排除。山尾悠子の作品はいつもそうだ。感動の押し売りに食傷している人にとっては、一服の清涼剤となるであろう。
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林間学校と梅酒・ラッキョウ漬け作り

2017-07-02 09:17:16 | 日記
先月の29~30日に娘・コメガネが林間学校に行ってきました。場所は八ヶ岳です。梅雨時なのに山間部。案の定、雨に降られて、一番楽しみにしていたキャンプファイヤーが出来なかったそうです。こればっかりは、家庭でしてあげられないですからねぇ…残念。
もっと良い季節に家族でバンガローに泊まりに行くのも良いかな、と思いました。凜ちゃんも連れて。

たった一泊二日なのに指定された持ち物が多くて、リュックとショルダーバッグの大荷物でしたよ。私の時はリュック一つで十分でしたけどね。コメガネさんは荷物が重すぎて、出かける時に後姿がヨレヨレしていました。朝なのに夜逃げ風。
学校から渡された持ち物リストには、これは絶対使わないだろう、という物が随分と多くて、まるで旅に慣れていない人の荷造りみたいでした。何でこんなに汗拭きタオルがいるのかとか、何で雨合羽と傘の両方を持っていかないといけないのかとか、色々疑問に思いました。帰ってきてから荷物をほどいたら、やっぱり使わず仕舞いだった物がたくさんありましたね。


お弁当は使い捨てのプラ容器に入れるように学校から指導されました。
コメガネのリクエストで、ハンバーグ弁当です。
プラ容器に密封性がないので、おかずやデザートはなるべく汁気の少ないものにしました。ハンバーグの他は、アスパラのベーコン巻き、タコさんウインナー、鮭と枝豆のおにぎり、ミニトマト、ブロッコリー、ゴールドキウイです。

コメガネの不在なんて滅多にない事なので、29日の晩は主人と二人でお寿司を食べに行きました。バレたら滅茶苦茶怒りそうなので、コメガネには内緒です(笑)。
コメガネがいないと何となく物足りなくて、犬猫が走り回っていても家の中がいつもより森閑としている気がしました。
そんな訳で、30日の夕方にコメガネの元気な顔を見た時にはとても嬉しかったのですが、林間学校がよほど楽しかったらしくて、いつもに増してピーチクパーチクお喋り雀で10分も経たないうちに喧しくてかなわないと思ってしまいました。コメガネさんはお疲れだったようで、喋るだけ喋るとソファで寝てしまいましたよ。きっと現地で力一杯はしゃいだのでしょうね。


話が変わりますが、週末に梅酒を付けました。
今年はブランデーとリキュールです。
例年は6月の半ば頃に作業しているのですが、今年は近所のスーパーに良い梅が置いていなかったので、初めて通販で梅を買いました。青森産です。


なかなか良い色の梅です。


ラッキョウも漬けましたよ。
今年は大粒のラッキョウが手に入りました。
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