束縛、僕としての自覚、個人としての自由は無し、自分を喜ばせることもご法度です。と言うとなんだかカルトのようですね。しかし、贖いと言う業の恵みの意味を知れば、自分ほうからこう願っていくと思うのですが。主に喜んでいただきたい、と切に願うものです。その喜ばせ方は幼くっても、それを主は御自分の瞳を細めてよろこんでくださると思うのです。
つい最近素晴らしい祈りを見つけました。
「 我が主よ、私はどこに向かっているのか分かりません。私の前にある道が見えません。」またその道がどこで終わるのかも分かりません。それどころか、自分が誰であるのかも分からないのです。
自分ではあなたに従っているつもりでいますが、だからと言って、必ずしもそうなっているとは言えません。」しかし、私があなたを喜ばせたいと願っている事を、あなたは喜んでいてくださると、私は信じています。
そして、何をするにも、その願いを持ち続けたいと思います。それ以外の動機で行動する事が決してないようにと、願っています。
もし私がそれを実行するなら、たとえ私がどちらに進むべきかを知らなくても、あなたは私を正しい道に導いてくださると信じます。それゆえに、私はあなたに信頼します、行き先の見えない時も、死の陰を歩む時も、私は決して恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたは私を見捨てたり、試練の中に置き去りにしたりはなさいません。 」
トーマス・メルトンの祈り
PS
何時も堅く、また厳しい事ばかりをアップし。これをご覧になられた一人ひとりが気分を害する事がないように聖霊によって祈ります。そしてお許しください。