けれども、私たちの国籍は天にあります。・・・・・・ 。 ピリピ人への手紙 3章 20節
私たちの目がこの世という地に向いているのか、希望に燃えた神の国に向いているのか。
それが聖い生活を歩むことができるかどうかの鍵であります。
「私たしの国籍」であると言うことは、神がいつも共にいて下さるということです。
私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれないが、
神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖って下さった方だからだ。
キリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも喜ぶことが出来る。
一日の業をすべて終え、床に就くとき。あなたの心境はいかがでしょう。
「 今日一日感謝でした。明日が楽しみです 」 と言うことのできる日々を送っておられますか。
勿論日々好ましくない事柄が否が応でも向こうからやってくるのが現実ですが、
しかし、このような心で平安な夜を迎えることができると言うことは、ただ神のあわれみと言えるでしょう。
一日。何とか過ぎた、いや、主のみ手の中で過ごさせていただいた、この感謝と共に。
カナンの地に一日近づいたと思うとき、明日への希望が湧きあがり、力が沸き上がってきます。
今日と言う日は主が下さり、その中の諸々のこと、即ち、喜ばしいこと、悲しいこと、嫌なこと。
等々に対して積極的に迎えることができるのです。この地上では旅人、カナンの地目指して喜び勇んで歩む日々なのです。
想像してください。あなたがカナンの地におられることを。
「 心は躍るよ 心は躍るよ カナンの地想うだに 我が胸 躍るよ 」 ヨルダンの彼方に。
聖歌 642番より
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