・・・ 、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。
Ⅰサムエル 17章 45節B
このダビデの言葉に、神の御国と人の国の対峙の本質があります。ダビデが表しているキリスト、とその御国は、御霊によるものです。
主の御名によるものです。祈りと御言葉の霊的訓練によるものです。信仰によるものです。
悪魔は、キリストの死とよみがえりによって、完全に敗北した者となっています。
ですから、私たちがキリストのうちに立つとき、私たちが主の御名によって祈るとき、
そのときにすでに悪魔は何も手を出すことができず、ただ退くことしかできません。
そこで悪魔は、私たちの焦点をずらす戦法を取ってきます。
あたかも問題が物理的な、肉的な問題であるかのように見せかけ、私たちを肉の領域に、物理的な領域に引き込もうとするのです。
例えば、教会の中で言い争いが起こったら、何とかして自分が仲裁に入って両者を取りまとめようとしますが、
かえって問題をこじらせてしまいます。けれども、ひざをついて祈りはじめるとき、
主に自分たちが抱える問題を持っていくとき、そのときに初めて私たちの高慢さやその他の罪を聖霊によって示されて、
私たちはへりくだることができ、それから悪魔や悪霊どもによって引き起こされた混乱や無秩序が終息に向かうのです。
いつ、霊の武器を取り出すかにかかっており、ゆえに私たちは絶えず祈ること、目をさまして、すべてのことに主を認めることが必要です。
主は私の牧者であって、主は私と共に歩んでくださり、私が病み悩むときも癒してくださる神です。
また、私が貧しく乏しいときにはあらゆる恵みょ持って備えてくださるから。私は声を大きく叫んで言います。
主は私の頭の上にある旗ですと宣言するとき、主の平安が私のうちに満たされるのです。何故なら、わたしを守ってくださるお方は。
万軍の主であり、全能の神だからです。そして神は主キリスト・イエスを私に贈られた。ただただ感謝に尽きない。
第二コリント12:9-10
「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。
だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、
キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」。