豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

個人的悟りの順序

2014-09-03 18:00:01 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



こんばんは!

楽しげな顔をして世を照らす神の分光であられる皆様!


本日は16時ごろに起きてきて座禅1時間を無事に終えました。

『バガヴァットギーター』を1章だけ読んでから、嫁様に頼まれた洗濯物をもってコインランドリーへ。

帰ってから着信があったYくんに返信電話します。


松阪の読み方が「まつざか」ではなく「まっさか」であると主張する我が嫁の動画を撮ってユーチューブにアップしたい。

また、僕の瞑想講座を2回に分けて30分と15分で解説&フォローして欲しいという内容の話でした。

まあ、大丈夫だと思うけど、中々、斬新なアイデアですな(笑い)



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さて座禅は感覚の麻痺が相変わらず酷いですが、顔の緊張が特に気になりますね。

終わってからもしばらくは顔の強張りが気になってしまう。

グルジェフさんも最初は、顔の筋肉をリラックスさせるのは重要だと言っていたらしいので、何かあるのだろう。

天からの意識光(クリアライト)が、顔から入ってくるようなイメージがある。

そういえば「赤肉団上の一無位の真人、汝の面門より出入りす」というのは、魂が顔から出たり入ったりしているという意味ではないのだろうか。

宇宙と人間の間を、5感が作り出しているので、この内の目、耳、口、鼻があるのは顔だもんね。

だから、ここをリラックスさせて生命エネルギー、精気を流すのは非常に重要であるような気がしてきます。


心にある真我と、神の宇宙は同じ質から展開していて、意識に従って形成されているものだと思いますが、この光と生命の力を思考・感情・動作・本能の中に流していくと、歓喜によく似た良質の気持ちが、溢れてきます。

体中いっぱいに元気をめぐらせる。

この『元気』は、生命と光の力で、単純な言葉ですが、非常に神秘的なエネルギーを表していると、ここ最近は思っています。

アントニオ猪木も「元気があれば、何でもできる」と言っていますが、これぞ真理の言葉かもしれませんよw


第四の道は、まず、自己観察によって、動作を知り、同時に観察者としての超自我を認識するところから始まります。

これが第一の悟りです。

今まで知らなかった意識が『観照者』として上空の眼として認識される。


次に、この観照者が宇宙大に広がって、一致するという体験をします。

自分の体の感覚が宇宙を作っていることを体験するわけですが、まあ、頭では当たり前だと思っていることも、大空に広がって、目の前の現実が、ほんとうに自分が作っていると知ることで、びっくりします。

これが第ニの悟りです。


このあたりで他者の問題に目が行きます。

「わたしはあなたであなたがわたし」という言葉の理解が必要になってくるので、自ずから、そちらの研究になります。

感情が緊張の限界まで追い込まれて、崩壊すると、つまり絶望すると、感情の奥にある真我が認識されて、自他共通の命という自分に気がつきます。

これが第三の悟りです。


更に、ここで、今度は自己意識が問題になります。

つまり自他を包む宇宙の中に自分は広がっているのだが、これが、単に自我の肥大であることに気がつくのです。

魔境の認識ですね。

で、これは目の前の現実に禅定することで、忘我することで突破します。

自己がいないのだから、完全清浄にして、無にして自由、無でもあり、有でもあり、そのどちらでもなく、という自己認識の実際的崩壊が起こります。

これが第四の悟りです。


更に、このあとは、生きるという問題がでてきます。

世界は臨機応変に対応しなければならず、そこには悲喜がこもごもにあり、他者は悪想念に苦しんでいるのです。

ここで遂に魂の覚醒が必要になります。

これまで認識の変化ばかりが、行われていたわけですが、今回は、この今までやっていたことがすべて眠りの中であったことを知る。

そして、この眠りの意識の中に、夢見る魂が、肉体の胸の位置にいるのを知るのである。

この胸の自分が、目覚めて、そこから独特の力が溢れてきたら、終了です。


もう終わりなのですが、ここで、探し回るので見失います。

ただ、この、あふれでる存在が本来の自己であり、無始不生の神と同根の、その慈悲の心、そのものなのである。


この魂と現在自己意識が同居して生きることが第五の悟りです。


そして更に、この社会で単なる普通の人間として、生きる。

つまり、ただ自分の望むままに、悟りなんかまったく関係なく、普通に、興味のある活動を楽しみながら一期一会を生きることが、魂の望みであり、究極の目的であることを知るのが、第六の悟りです。


で、結局、何を学んだのかと聞かれれば、元気があれば、それだけで大丈夫。

誰も何も悪くないし、すべては救われているということであると言えるでしょう。

しかし、このことの理解は非常に微妙なので概念化されたり、線引きをしてしまうと、つまり、分析的に捉えられると、間違われます。


まあ今日も元気に、一日、生きますかwwww