豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

頭の裂け落ちること

2014-09-17 14:48:35 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



こんちには。

柔らかで優しい精気を体いっぱいに満たしている皆様!


本日は12時半ごろに起床して座禅1時間は無事に終了したよ。

ずーっと悪想念さんが、がんばっています、苦笑

どうにかしようという思考のがんばり、ジタバタが、落ちたときに、リアルな体と心が見えてきます。

透き通った感覚です。

チャンネルが違うヴァイヴレーションに切り替わったからですね。



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このヴァイヴレーションの中にいることを忘れてしまうので、様々な、ゴミが、心に満載になってしまうようです。


解放と言う言葉は、手放すことです。

何を手放すかというとエゴ君です。

エゴ君とは何かと言うと、コントロール思考です。

欲望と理性が対立して、この理性の側が、肉体を統制しているわけですが、これは、感情の抑圧にも繋がっているのです。

そうして、あれがいい、あれが悪い。

判断が働いてきますが、思考は、常に『正義』の位置にいるのです(笑い)


この生きている世界に、リアルに委ねていくときに、溶け出すのだ。

心の葛藤は必要ない。

3つの中枢のバランスが、欠けているのは、魂、思考、感情、肉体の、各能力が、分断されているからである。

この分断を、魂→思考→感情→肉体という間にある物質を生み出すことで、解消して、魂の意志を生きようとするのが、グルジェフワークである。

そして、魂→思考間の物質とは理性であり、思考→感情間の物資は精気であり、感情→肉体間の物質は注意力・集中力である。

これらのエネルギーは頭部・肉体・感情体を統一的に調和させて、魂の、意志を現実世界に繁栄させるのであるが、その際に、抵抗が生まれる。

この抵抗に、感情中枢が乱れて、これを乗り越えるために、理性と精気と、注意・集中力の全てが要求されるというわけだ。


しかしながら、このひとつ、ひとつの物質を獲得、理解して、ワークの方法で、修繕するのは不可能であるか、もしくは、1生涯でも足りなくなるくらいに時間がひつようであると考える。


なにしろ人間は『忘れてしまう』生き物だから・・・・・・。

毎日、師と共に、生活をしていた人なら、可能であったのかもしれないが、このワークは外的形態を必ずや、必要とするのである。

現代日本で、これが、実現する環境は、僅かしかないだろうし、この、真の、偉大なる、知識の断片は、打ち捨てられる方法として機能するしか、ないだろう。

一時期、役に立つのだが、これは、捨てられなければならない。

ワークは、その人にとって必要な目的のために、ある一定期間だけ存在するのである。



解放は手放すことである。

エゴのコントロールを手放して、ここにあることなのである。

そうして作為を捨てて、何かの目的も捨てて、ただ、ここに生きることである。

これ以上の至福があるだろうか。

求めることによって、我々は、ここを地獄に変えてしまったのだ。

地獄とは地球の獄舎のことではないか?

天の王国とは、意識の飛躍のことではないか?


体があって、心がある。

これを見失ってしまった、わたしたちが、そこに帰る。

これらを超えた、超越者は、いつもわたしを見ていて、滅ぶことは無い。

この超越者は、わたしではないが、わたしを見守っている。

魂である私は、そこへ帰っていく。


もはや、何も、問題ではない!

正しいものも、間違ったものも、この世界にはないのである。

何が起ころうとも、ここは、夢の国なのだ。

それ以外に、世界はないのである。

頭が、心と体を忘れて、この世界の神秘も忘れて、自分が、どこからやってきて、どこへ帰っていくのかも忘れてしまったのだ。


なぜなら、お父さんも、お母さんも知らなかったからだ。

見つけたものがあったなら、そこに、開いていかなくてはならない。

これは、疑いなく、飛翔なのだ。


ヴァイブレーションの違いを生むのは、思考の状態である。

この思考中枢が、変容することによって、落ちることによって、無為になることによって、すべてが見える状態へと移行するのだ。

それは判断を超えた世界である。

私たちは、ただ見て、感じているのだ。

この世界、あの世界、の、どこにもいないのだ。

ただ考えること、求めること、努力することを捨てて、いま、この場で目覚める!


思考の「すること」ではないのだ!!!!

これは神の身元へと還ることであって、それは、エゴには達成不可能なのだ。

なにをしても、やれることは、ここに、ある、柔らかな存在に、戻ることである。

戻ることとは、やめることである。

探していている、到達しようとしている、その、あなた自身が消えることなのだ。


どこかへ行くのではなく、ここで、即座に、手放すことだけ、融合するだけ。

問題があるのは、頭の中、だけなのだ!

我々は、完全に、救われているのに、居場所を間違えているのである。

居場所はハートであり、このハートは、神のハートのことである。


繋がることが全てだ。

繋がるためには、何もしてはならない。

何もしていないと心と体が、復活してくるのである。

美しい景観に、心奪われるように、わたしを思い出すのである。

わたしを思い出すのだ。

懐かしい、温かい、存在としての、至福の我は、永遠の至福と共に在るのだが、この我は、頭の中の想念ではないのである!!!!

わたしを勘違いしてしまっているのだ。

その勘違いしてしまっている私は、永遠ではなく、必ず、滅び去る。

わたしは、わたしではないのだ。


どのような言葉をもってしても、この、思考を超えた次元にはたどり着けない。

落ちなければならないのである。

常に、心と体を見失わない核心が、到達した証拠である。

目が見えるようになり、感じられるようになり、心が癒されるようになる。


これは、努力なしで『居る』ことなのだ。