豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

願望実現と祈り

2014-09-05 18:28:34 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



こんばんは!

洗われるような心で地球を満たす、元気な皆様。


本日は16時半ごろに起床して座禅1時間をやり遂げました豊田です。

想念、幻想に奪われる自己意識の目撃。

感覚の麻痺、それを回復させようという努力さえ続けられない。

集中すること、沈黙することは訓練なしには不可能である。

できると思っているのは、やっていないからで、幻想の中から目覚めだしたら、自己の置かれた狂気に恐怖すら感じてくるだろう。

我々は、自分が思っているように生きてはいない。



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座禅を終えてから『奇蹟を求めて』の宗教とワークの章を読みました。

行為について、祈りについて、また儀式についての正確な理解がないまま、外面だけを模倣する嘘の教えが、真理への門であるのは、普通の人々は、真理を聞いても、それを理解できないからだとある。

宗教とは行為でしか現されない。

僕が存在して行為することが、理解の段階を表しているのだろう。

こりゃあ、まったくダメダメだなあ(爆笑)


嘆願と祈りの違いは、祈りは言葉ひとつひとつに対する吟味と共に、理解しようという衝動が伴っているということだろう。

-私は存在する-

この言葉を単に機械的に繰り返したり、存在したいからとお願いしても無意味だ。

私とは誰か?

存在するとは如何なることか?

このことに対する熟考、また実際に心理的に経験していくことが、祈りの効果を及ぼすのである。

私は誰かと問えば消えてしまう。

存在するとは、この私のことではないだろう。

私はどこにいるのか。

存在するためには私が見出されなくてはならない。

存在するとは意識が明確であることであろうか。

感覚が鋭敏であることであろうか。

感情が愛に満ちて深く感じていることを言うのだろうか。

存在するとは実際に、どのような状態を指すのであろうか。

様々な理解が必要とされていて、この言葉を繰り返すたびに、これらのひとつひとつの言葉が指し示す、形に対する思考が、明確になっていくのである。

また、このような状態を呼び起こそうという刺激、ショックの役割も果たすだろう。


例文では「私は真摯になりたい」「神よ私を憐れみ給え!」という祈りが紹介されていたが、ひとつひとつの言葉に対する理解がなければ、実際的な感覚と感情の参加が、なければ、これらは祈りの意味を成さないのである。


この祈りは非常に使える技ではないだろうか。

現在の疑問がある。

疑問を問いにして、これを祈りに纏める。

こころで祈るたびに、この祈りのひとつ、ひとつに対する理解が増すのである。

また自分にとっての重要事項に「気がつく」という効果もありますね。


よくある「世界、人類が平和でありますように」という祈りも、単なる言葉の羅列に終わることなく、世界とは何か、人類とは、平和とは、あるとは、等々に対する理解を深めるという意味で使われれば、人を成長させるだろう。

願望実現のアファーメーションの本物はこれである。


あなたの心の祈りが神様に届きますように!