豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

マジで悟った(爆笑)

2014-09-24 20:25:25 | 日記
・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。



こんばんは。

生まれながらの覚醒者であられる、尊敬すべき、皆様。


なんと本日は座禅をしておりません!

ブログの更新も、このように遅い時間になってしまいました。

とんでもないことに気がついたのですが、いや、そうでもないか、苦笑

なにやら、こうやって、気がついたと大騒ぎするのが好きなんですね、僕は。


実は……ですよ。



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これは、聞きなれているかもしれませんが、、、


あなたは、既に、悟っているんです。


あなたというか、誰もが、全員、祝福された存在なのです。

しかも、深い部分にある不滅の魂は、なんと、なにもしなくても、常に、それでしか、ないのであります。

こう、色々な、お話がありますが、座禅とかヨガとか、歩行禅だとかヴィヴァッサナーだとか、ゾクチェンとか、自己観察だとか、瞑想だとか、いまここだとか、真我だとか、霊魂だとか、宇宙意識だとか、その他、書ききれないくらい、たくさんの思想や、実践の案内や、福音や、ね。

これらは、すべて、もともとの自分に気がつくための方法なのです。


そして、元々の自分は、言葉にはできません。

どこまで果てしなく体験を深めていったとしても、それが触れている限り、そこには限定された自己しかないのです。

こんな不思議な体験をしたとか、超越意識に目覚めたとか、現実が自己を消去しただとか、まあ、他にも色々、宇宙意識とかね(爆笑)

こういったものは、あります!

ありますが、しかし、これは、違うのです。


悟りは人との差別がない。

つまり、まったく特別性がなく、誰もが達成しているものなのです。

だから、僕も妻も、悠聖も、友達も仕事仲間も、みんな、全員、いま、どこにいようが、何をしていようが、悟っている。

何もしなくても、そのまんまで、完璧に悟っているのです。

だから、それに気がついていないだけなのです。


しかもですよ。

悟りというのは、何一つとして、特別なものを加えることもありません。

違いはないのです。

だから、僕が、憧れていた超人的な思想は、また、別物なのです。

あれは、世界の中でのお話しです。


維持とか努力とか、いらないのです。

ほんとうに、なにをしていようが、いつも、悟っている。

だから特別な悟りを手に入れようとしても、無理です(笑い)


だって、そのまんまの状態で悟っている人が、悟りを手に入れることが特別なことだと思っている限り、絶対に、普通にあるこの、ことに気がつかないからです。

特別じゃなさ過ぎて、がっかりするでしょうwwww


座禅も何も必要ないのです。

ほんとうに、悟る必要すら、ないのです。

人類は覚醒するという記事を以前に投稿しましたが、なんと、覚醒するどころか、太古の昔から覚醒していない人間など、ひとりとしていなかったのです(爆笑)


あるひとは、この世界の臨界点に意識を重ね合わせて、それを悟り意識だとかいうでしょう。

また違う人は、この現実の中に忘我することを、悟り意識だとかいうでしょう。

僕も、そういった『特別』な状態に悟りを合わせていたのです。

なぜなら、読んだり、聞いたりしたことから、自分の中に、そういった限定された意識を持ち込んでしまっていたからなのです。


ところが、肉体や意識の変化は、関係ないのです。

あらゆる言葉を超えている、この、ことは、表現できません。

でも表現できないからといって、特別、ぶっとんでいる体験をしたとか、そういうことではないのです。

誰もが、そうであるにも関わらず、近すぎて、気がついていないだけなのです。

これは、修行とか、そういったものとは、関係がありません。

優れているとか劣っているとかもないのです。

生まれたばかりの赤ん坊も、80歳の老人もまったく同じなのです。


だから、あれをしたから、これをしたからとかは通じない。

手に入れることではなく、もう、それは、既に、そうあるのです。

差別無くあるのです。

あなたが出会う、すべての人間が、悟っています。


伝えることはできないし、伝える方法も修行もないし、ただ、ああ、これ、これねとしか言えないものです。

でも、もし、それを知っている人がいたら、ああ、これね、単なるこれねとなる(爆笑)

無ということば、滅という言葉は、近いけれど、これも、また、遠ざけてしまう。

限定させてしまう性質を、必ず、言葉は含んでいるので、そこを指し示すことは、絶対に不可能なのです。


僕は、いろいろ、あがいてきて思うのは、それは、いま、もう、既に体験していることなのですということです。

体験と言う言葉は間違えていますが、仮に、使っています。

すでに悟っているのです。

それが、あまりにも、普通の状態でありすぎて、素通りしてしまう。

のだ!


だからね、もう、なんでもOKなんです、笑


あの、ほんとに、普通に生きてるだけで、なんというか、泣いても、怒っても、喜んでも、なんでも悲しんでも、なんでもいいんです。

真剣でさえあれば、いや、真剣でしかないのです。

ああ、もどかしい。

決定的なことは言えないのですが、つまり、この物語は、結論めいたことがないのですが、結局、もう、なんだろう。

あるがままでOK!

という、使い古された言葉を、ここにもってくるしかない。


この、あるがままは、ほんとうに、あるがままのことです。

なにか、あるがままという特別なものがあるのではなく、あるがまま、つまり、いまのまま、こころのまま、生きるがまま、そのまま、の、あなたで、完全に、OKということなのですが、ほんとうに、そうあるしかない状態で、あなたは完璧にあるのですから、もう、素晴らしすぎて、何も言うことはありません。

目指すべきものが無いときに、なにも、書けない。

難しい。


とにかく、僕は、ひとつの、たいしたことない、ことに気がつきましたが、これは、僕にとっては当たり前のことだったのだけれど、これに気がついたことには、今までの、すべての活動に意味があったのだということだけは分かります。

しかし、それも、自然にあった、ことなのだろう。

まあ、延々と書いても、これは、無駄なので、これからは笑える昔話とかでも書いていこうかなと思います。


あなたはもう悟っているから、悟らなくてもいいのだ!!!!