・初めての方は、こちらもどうぞ!→『ようきてな』
・豊田真大の自伝『超個人的疑問』はこちらです。
・嫁の『ダラックマのブログ』も良ければ一緒にお読みください。
こんにちは!
世界創造と世界維持に関する哲学をもっている皆様!
本日は7時半ごろに起きて、座禅1時間を無事に終えました。
そのあとで『グルジェフ弟子たちに語る』の読書を何章か楽しみ、千鶴さんの焼いた、バタートーストをいただきました。
悠聖は、庭で、介護施設の迎えを待つ父と戯れていた。
ブログを書こうとしたら、珍しく、コメントをいただけたので、じっくりと読んで返信をしていました。
非常に興味深い内容!
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というわけで、僕の考えていることを、もう一度、整理したいと思います。
まず、我々は連想(悪想念)の中で生きています。
この連想というのは知性中枢が、感情中枢から湧き上がってきたデータを回転させることで、空想世界を楽しむことです。
主に、今日明日の問題や、過去の痛みなどを思い出しては、再演していますね。
ここに世界や他者というものが、登場して、刺激を、あなたに与えます。
すると、その瞬間、あなたは対応をするのですが、このとき、知性・感情は分離しており、外側と内側が別々である我々は、教え込まれてきた人格によって、反応するか、生まれ持った本質をもって反応するかになります。
その『苦しみから形成された』人格のパターンが、だれこれ用に形成されています。
父親にはこれ、会社ではこれ、彼女にはこれ、ブログではこれ、レストランではこれ、などなど、数え切れないくらいに分裂した演技する人格を生きているのです。
そうなると内部では矛盾した自己がいくつも生まれます。
昨日は、ああいったけど、こっちではこうと嘘を付かざるを得なくなります。
このようにして複数の自分(人格)に対応している間に、ひとつの本質(生まれ持った自分)は様々に考察しますが、もはや、見ることは苦しみでしかないので、見て見ぬ振りをはじめます。
最初は意識的に無視(スルー)していたのですが、そのうちに、スルーしていることすら忘れてしまいました。
そして、なんと、最後には、見ていることすら、感じていることすら忘れてしまったのです!!!!
これが現代文明に生きる最先端のスタイリッシュな、人類様ですね。
もちろん、僕も、このような状態ですので、ここから逃れようと、座禅してみたり、考察してみたり、読書してみたりしているわけです。
また働いているときも、沈黙を保とうとしたり、瞑想的であろうとしたり、禅定を維持しようとしてみたり、その他、様々に、この機械性から逃れようとするわけです。
しかし、できません!
そこで、様々に考えてみた結果、これは感情中枢の問題であると思っているのです。
知性中枢が理解していることを、感情、肉体の各中枢は興味が無くて、理解できないようなのです。
そして本質(如来)は、この感情中枢を通して働くために、いくら知性が管理しようとしても無理なのです。
ここが落ちたときに、出現する本質の側が成長しなければならないのです!
しかし、この低次感情中枢は、生きてこなかったために、社会生活に参加していなかったために、凄まじく未熟です。
まるで5歳児レベルの対応しかできませんので、社会の中で、この本質が開花した状態を生きるのは不可能だと思われます。
そうなると、人格の助けを借りて、本質が成長していくしかないとなります。
本質は理解しようという欲求を持たないといけませんが、この理解しようという欲求が、すぐには起こりません。
赤ん坊のように未熟な本質が、成長するのを、知性の側が面倒を見て、励ましてあげなくてはならないのですが、これが、本当に難しい。
感情は一時的に知性で抑制することはできますが、そんなものは、全く、役に立ちませんので、解放した状態で、成長していかないといけない。
この成長のことを、常に無欲が貪欲を制するように働きかけることとアシアタシーマッシュが語ってしますが、これは、直接、感情中枢で起こらなければ意味が無いのです。
そうしないと生きてはいるが、何も、成長していないまま、いつかは、苦しみの中で朽ち果ててしまわないといけなくなります。
無我の境地に達するには、欲望を捨てよと、釈迦が言ったのではありますが、この無所有の境地に立つのは、知識ではなく、実際の心であり、これを理解するのが智慧である。
実質的な縁起の理解が智慧なのであって、これは、生の体験からしか出てきません。
生の体験をするには、ここで、感情が直接、変化していく環境を作らなくてはならないのです。
実は、沈黙というか、瞑想的であるときに、全部見えています。
思考も感情も動作も、すべて、高次思考中枢には見えているのですが、それを見なかったことにしているのです。
今、現在も、すべての働きが把握されているのですが、感情の不調和が原因で、その本来の力を発揮できずにいるのです。
そうして現実の指令。
つまりは、肉体に対する刺激に、反応するだけのロボットと化してしまったのです。
他の人は、はっきりと知りませんが、僕は、こうなっています。
ここを突破することが、可能であることは、間違いないのですが、ただ、その明確な方法が未だに分からないのですね。
瞬時の覚醒はだれにも起こりえますが、この、本来の本質の生を生きていくことは、それよりも、格段に難しいことなのであります。
眼が覚めてからでないと死ぬことはできないが、暫時の目覚めでは、嘘と恐怖に打ち勝つには弱すぎるのだ。
この『存在すること』を維持すること、ただ、在ることに到着するように、不快感に耐えながらも、じわじわと少しずつでも、向かっていかないといけない。
もしかして、どこかに理解が、凄い人がいたりするのかもしれないなあ?
と、今日は珍しく考えた。
世界は広いしねw
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世界創造と世界維持に関する哲学をもっている皆様!
本日は7時半ごろに起きて、座禅1時間を無事に終えました。
そのあとで『グルジェフ弟子たちに語る』の読書を何章か楽しみ、千鶴さんの焼いた、バタートーストをいただきました。
悠聖は、庭で、介護施設の迎えを待つ父と戯れていた。
ブログを書こうとしたら、珍しく、コメントをいただけたので、じっくりと読んで返信をしていました。
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というわけで、僕の考えていることを、もう一度、整理したいと思います。
まず、我々は連想(悪想念)の中で生きています。
この連想というのは知性中枢が、感情中枢から湧き上がってきたデータを回転させることで、空想世界を楽しむことです。
主に、今日明日の問題や、過去の痛みなどを思い出しては、再演していますね。
ここに世界や他者というものが、登場して、刺激を、あなたに与えます。
すると、その瞬間、あなたは対応をするのですが、このとき、知性・感情は分離しており、外側と内側が別々である我々は、教え込まれてきた人格によって、反応するか、生まれ持った本質をもって反応するかになります。
その『苦しみから形成された』人格のパターンが、だれこれ用に形成されています。
父親にはこれ、会社ではこれ、彼女にはこれ、ブログではこれ、レストランではこれ、などなど、数え切れないくらいに分裂した演技する人格を生きているのです。
そうなると内部では矛盾した自己がいくつも生まれます。
昨日は、ああいったけど、こっちではこうと嘘を付かざるを得なくなります。
このようにして複数の自分(人格)に対応している間に、ひとつの本質(生まれ持った自分)は様々に考察しますが、もはや、見ることは苦しみでしかないので、見て見ぬ振りをはじめます。
最初は意識的に無視(スルー)していたのですが、そのうちに、スルーしていることすら忘れてしまいました。
そして、なんと、最後には、見ていることすら、感じていることすら忘れてしまったのです!!!!
これが現代文明に生きる最先端のスタイリッシュな、人類様ですね。
もちろん、僕も、このような状態ですので、ここから逃れようと、座禅してみたり、考察してみたり、読書してみたりしているわけです。
また働いているときも、沈黙を保とうとしたり、瞑想的であろうとしたり、禅定を維持しようとしてみたり、その他、様々に、この機械性から逃れようとするわけです。
しかし、できません!
そこで、様々に考えてみた結果、これは感情中枢の問題であると思っているのです。
知性中枢が理解していることを、感情、肉体の各中枢は興味が無くて、理解できないようなのです。
そして本質(如来)は、この感情中枢を通して働くために、いくら知性が管理しようとしても無理なのです。
ここが落ちたときに、出現する本質の側が成長しなければならないのです!
しかし、この低次感情中枢は、生きてこなかったために、社会生活に参加していなかったために、凄まじく未熟です。
まるで5歳児レベルの対応しかできませんので、社会の中で、この本質が開花した状態を生きるのは不可能だと思われます。
そうなると、人格の助けを借りて、本質が成長していくしかないとなります。
本質は理解しようという欲求を持たないといけませんが、この理解しようという欲求が、すぐには起こりません。
赤ん坊のように未熟な本質が、成長するのを、知性の側が面倒を見て、励ましてあげなくてはならないのですが、これが、本当に難しい。
感情は一時的に知性で抑制することはできますが、そんなものは、全く、役に立ちませんので、解放した状態で、成長していかないといけない。
この成長のことを、常に無欲が貪欲を制するように働きかけることとアシアタシーマッシュが語ってしますが、これは、直接、感情中枢で起こらなければ意味が無いのです。
そうしないと生きてはいるが、何も、成長していないまま、いつかは、苦しみの中で朽ち果ててしまわないといけなくなります。
無我の境地に達するには、欲望を捨てよと、釈迦が言ったのではありますが、この無所有の境地に立つのは、知識ではなく、実際の心であり、これを理解するのが智慧である。
実質的な縁起の理解が智慧なのであって、これは、生の体験からしか出てきません。
生の体験をするには、ここで、感情が直接、変化していく環境を作らなくてはならないのです。
実は、沈黙というか、瞑想的であるときに、全部見えています。
思考も感情も動作も、すべて、高次思考中枢には見えているのですが、それを見なかったことにしているのです。
今、現在も、すべての働きが把握されているのですが、感情の不調和が原因で、その本来の力を発揮できずにいるのです。
そうして現実の指令。
つまりは、肉体に対する刺激に、反応するだけのロボットと化してしまったのです。
他の人は、はっきりと知りませんが、僕は、こうなっています。
ここを突破することが、可能であることは、間違いないのですが、ただ、その明確な方法が未だに分からないのですね。
瞬時の覚醒はだれにも起こりえますが、この、本来の本質の生を生きていくことは、それよりも、格段に難しいことなのであります。
眼が覚めてからでないと死ぬことはできないが、暫時の目覚めでは、嘘と恐怖に打ち勝つには弱すぎるのだ。
この『存在すること』を維持すること、ただ、在ることに到着するように、不快感に耐えながらも、じわじわと少しずつでも、向かっていかないといけない。
もしかして、どこかに理解が、凄い人がいたりするのかもしれないなあ?
と、今日は珍しく考えた。
世界は広いしねw