豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

慣れと親しみ

2014-04-27 11:23:31 | 日記
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こんにちは!

奇跡に満ちた世界を堪能する、みなさん!


昨日は連休初日、久しぶりに友達と遊んできました。

普段は自分で車の運転をするのですが、隣に乗せてもらったら、超怖かった(爆笑)


昨日、神様が、生活の細々したところまで、面倒見るはずないやん!

と書いたら、このメッセージが、すぐにやってきたw


お前、俺なしで、生きてると思ってんの??


「アホやなあ」と言ってきたのです(爆笑)

もちろん、無言ですよ。


さあ、やっぱり神には全て、バレバレなのです。

未熟なところを突いてくる、最強の師は、人生であり、神が生命を与えているのでしょう。


そういえば何年か前、大阪の路上占い師が「あなたは、人を信頼するようにすれば好転する」と告げました。

僕は占いは、信用しない方だと思いますが、これは、本当かもしれないね・・・・・・。


この現れ、生きる現実世界は、メッセージなのだ。

あんた、まだまだじゃのー、と神様が鍛えているのだ(爆笑)

毎日、毎日、教えているのであった・・・・・・。


と、いうことは、なんと、僕の細々とした状態を把握した神が、体験させているのだ。

未熟な部分を、僕に教えてくれているということなのだ!

ありがとうございます。


まあ、それはいいとして、今日は『信頼』です。

博士曰く、神は最強の殺し屋であり、また寝取り屋である。

まあ拝むのはアホ、とまで言っている(爆笑)

で、花岡修平さんは、この現れを信頼することで恐怖心を克服すると書いている。

まあ、どちらにしても手放すこと、解放を必要とするのだが、


ここで、問題発生!

新たなる敵が現れた!

『恐怖心』という問題ですが、これはどうしたものだろうか。


完全に信頼しきると言っても、本能的恐怖を無視することはできない。

これは、難敵!

高所恐怖症でジェットコースター大嫌いな僕が、まあ、ここで『恐怖心』を消すというのは、不可能。

たとえ、神を信頼していても、恐怖心は和らぐにしても、消えやしないだろう笑

ガーン!


だけど実際に『死』の恐怖が襲ってきたら、それどころじゃないだろうしねえ・・・・・・。

どうやって克服したんだろうね。


恐怖心が消えない限り、放心状態には突入しないよね。


過去の人の教えを読むと、

仏陀が「慣れと親しみから恐怖が生まれる」と書いている。

??

なぜ『慣れと親しみ』なんだろう。

ピンとこないなあ。

わかっていないからピンと来ないんだろうな・・・・・・。


まあでも、慣れと親しみから離れると恐怖心がなくなるということなのでしょう。

なにせ釈迦が言ってるんだから!


こういう言葉は、分かっていないときは、チンプンカンプンだけど理解すると、

そう!

そう! そう! そう!

その通りなんですよねーと言いたくなるくらいピンとくるようになる。


疑問が残るところは、自分が未熟な部分なのだ。

そんなはずはない!

と、思ってしまうのだ。


慣れと親しみね、、、


うん!

ハッキリ言って分かりません(爆笑)


逆に、慣れと親しみには恐怖がない気がするんだけどなあ。


誰か教えて-




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第ゼロの道

2014-04-26 07:11:25 | 日記
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おはようございます。

世界という水晶玉に顔を突っ込んで楽しんでいる、皆さん!


正真正銘のダメ人間、豊田真大です。

昨日は仕事終わって、連休に入るのでビール買って飲んでました。

我が、尊敬する、今は亡き『宇宙一いい加減な博士』の名文を読みながら、気が付いたら寝ていた。


COMOさんの『カルキのディクシャ WHO IS THAT』というページにリンク全集があります。


まあ検索すればすぐに出てきますね。


COMOさん、ありがとうございます。

もう充分に楽しませていただきました。


神は『絶対』です。

全宇宙の更に上にある、絶対者のことなのですが、この神は、全宇宙を創造している根本なのです。

まあ、優しい白い光です。

しかしながら、この神の『自然』はカオス、混沌として調和しているのです。

『自然森』のような状態なのです。

自然森が神なのですが、まあ、この神は、森に住む生き物にとって、なくてはならない存在なのです。

例えですよ!

しかし、例えば狼が、子羊を食べようと狙っていて、襲いかかったら、森は何もしてくれません(爆笑)

子羊自身が一生懸命、逃げなくてはいけないのです。

しかし、この森が無くては『生命』が展開する、混沌、全体がなくなるのです。

だから、この創造後の世界において、受動的に思われる神に近づくのは我々の方なのです。

ほんとうは能動的なのは神の方なのですが、人間の世界では受動的に感じられるのです。


で、神が、無言で帰ってきたことを承認すると、わかる。

なぜ人類だけが、神の、まあ、この例えで言えば、自然森の生命力に帰ることが出来るのか。

人類は、神と出会うために、神の意志を、理性として受け取っているからなのです。


ですから、僕が、僕自身に都合の良いようにはいきません。

困ったことがあったから、神様、助けて下さいと言ったら、助けてくれることもある。

これは、心理的に助けてくれるのです。

出来事は変化しない。

まあ、博士曰く、神は、神の意志を働かせて、運命を変えることもあるようなこと書いていますが、、、

基本、この人間の世界では、人類の意志のほうが、神の意志よりも能動的なのです。

しかし、この世界では、神が一時的に、人間に憑依するということが希に起こるのです。

意識を失った瞬間などに、助けてくれるか、どうかは、神が決めているのです。

まあ、言えば、運命が、そう定めているのです。

天界から地獄への波動の振動率によって、様々な法則が流れているわけで、これを自我の意識がどうこうできないのです。


で、ここからが本題ですが、

僕が、ここ最近、超興奮して、書きまくっている『至福』というのは、

これは全宇宙が、この、神の世界で、展開している生命の根源、つまり全員がさいしょっから、いる場所である。

これが、自分自身の心なのだと書いているのです。

で、この『心』というのは、まあ言ったら、機能のようなものです。

心の中でペチャクチャ喋っている自我のことや、喜怒哀楽の感情を指してはいないのです。

こういった心が虚しくなることなのです。

これらの自我や歓喜は、心を覆う、『想念』と『罪悪感』という悪魔の代弁者なのです。

全員に共通しているのです!


だから、僕個人とは無関係なことはないのですが、例えば、僕が個人的な願望で、この神をどうこうはできないのです。


極端に表現すると、

神は、僕のことなど、どうでもいいのです(爆笑)

与える者は与えてくれて、あとは放っておいてくれているのです。

ほっとけ!

なのです(爆笑)


僕にとっては神は救いになるのですが、神にとっては、僕がどうなるかは法則の内に定めてあるのです。

この法則の内で、自分で、どう生きるかは、自由なのですが、、、

この自分というのは、魂の自分がどうあるかと言うことです。


わかりやすく、例えてみると、普段の我々の生活、現実世界は、映画のエキストラ達の生活です。

主人公ではありません。

しかし映画にはしっかりとしたストーリーがあって、このストーリーから変更されることはないのです。

『タイタニック』号は必ず沈没することに決まっているのです。

そして主人公達が愛を遂げることも決まっているのですが、また起こることも決まっているのですが、

スクリーンに映さなくてもいいような、細々したことまでは、決まっていないのです。

そして、この、細々したところで、人間は、自己を高めて、神に近づくことが可能性として許されているのです。

魂がどうあるか、なのです。


まあ、もしかしたら、主人公として生まれてきている人もいるでしょうから、この人の運命は、ほとんど自由がありません。

こういった人たちは、神の化身です。

まあ、仏陀とか、キリストとか、まあ運命が、定められていることがほとんどなのではないでしょうか。

しかし、彼らは最早、個人ではないので、演技しているとも考えられます。


さて、何が言いたいか。

自我と歓喜を、取り去らないと、神には近づいていけないということなのです。

あるがままに、という言葉は、やりたいようにではないのです。


まあ、知っている人の方が多いでしょう笑


やりたいように自由にやるのは、あるがままにの正反対です。

僕が楽しい、嬉しい、大好きの世界は、確かに充足感があるでしょう。

僕の神様を心の中に感じるのも、まあ、自由です。

なんでも許されているのです。

しかし、言葉の意味を考えてみてください。

『永遠の至福』なのですよ!


永遠なのです!

わかりますか?


永遠の至福というのは、虚しくしているときにしか個人には現れません!

永遠に至福なのですが、この永遠は、一時的にしか現れないのです。

これを永遠を永遠として、理解するのは、人間の側の努力によって成されるのです。

一時的なものを永遠だとわかるから、永遠に至福であるように努めるのです。

これが『全き注意、全き努力』なのです。


至福という言葉は、楽しい、嬉しい、大好きでは、ないのです!!!!

たしかに『嬉しさ』は感じますが、それは、個人が戻ってきたときに記憶の中にある至福に感じているのです。

だから放心したときには、ただただ愛=至福に安心しているのです。

とても静かな、静粛な、状態で、心は虚しいのですが、至福の中に安心しているのです。


博士が悟ったら、なんでもOKやで、酒も煙草もエッチもみんなOKやで、と書いているのは、

もう自分が肉体ではなくなった、凄まじく高度な人たちの話です。

この人達は、まあ言ったら、肉体が歓喜しても、至福を失わないほどに自己を遠ざけたのです。


なぜ、ここまでしつこく書くのかというと、僕が、これで超勘違いのどつぼに嵌って、

散々、苦しんだからなのです。

もう、ほんとに長く、長く、勘違いしていたのです。

僕自身が!


あるがままに、は、とてつもなく厳しい言葉なのです。

例えば、自分の家族が亡くなったとしても、あるがままにという意味なのです。

至福が失われないのです。

ここで嬉しい、楽しい、大好きと思う人はいません!!!!


また、自分の執着しているものが取り去られても、あるがままにという意味なのです。

大好きな人がいなくなっても、あるがままに、至福なのです。

だから、こういう状態にある人は、自分自身の幸福のために神を利用などしないのです!!!!

わかりますか?


神は、『自然森』の『生命力』のことなのですよ。

あなたが今日、どのように過ごしているかなどに、いちいち援助しません。

あなたの自我や感情には興味ないのです。

自由を許しているのです。

しかし、この自我や感情の方が苦しんでいるから、神に近寄るようになる。

自分が生命力、そのものだ、と感じ取るとき、自我や歓喜と共存していないのです。


この心は全宇宙で、この全宇宙である心は、神の生命力によって支えられているのです。

全宇宙ですよ!

ひとつの宇宙のことではないのです。

絶対-全宇宙-宇宙-太陽-惑星-地球-月-絶対

の、この全てが、心にあって、自分自身だという意味の『自分』なのです。

ここに、豊田君個人の、あしたの飯の問題が入ってこないのは当たり前です。

また、自分の感情が、喜怒哀楽、または、人生でのあれこれ、が問題になっているのは個人の方なのです。


いわゆる『個人的』感情の解放ということは、確かに、気持ちがいい。

『個人的』自己承認という状態も、確かに、気持ちがいい。

最高です。

でも、この状態は、喜怒哀楽、どの状態にあっても、我々はOKだという単純な理解の上にあってはいけない。

なぜなら、これでは絶対に根本苦は取り除かれません。


ずーっと言い続けるつもりですか、

わたしはOKだ、わたしはOKだ、わたしはOKだ、

いつになったら苦がなくなるのか、が問題なのであって、わたしがOKかどうかは、どうでもいいのです。


私が消えない限り、神は現れないのです。

だから、私の神などはいないのです。

神と共にあるという状態は、神に自分自身のすべてをトータルに明け渡しています。

ということなのです。

とてつもなく難しいことなのですが、うーん、そうでもないか。

簡単なことなのですが、欲望という悪魔が、それを遮っているだけなのです。


この悪魔は、自分、自分、自分なのです。

自分はOKだ、なのです(爆笑)


しかし、弱っちいやつらなのです。

奴らの武器と言ったら、パターン(習慣)と、想念と、罪悪感の3つだけなのですから。

ここでグルジェフさんが、このパターン(習慣)と戦うことを推奨しているのですが、

はっきり言って無理w

習慣と戦うには、師匠がいるのです!

つまり自分を情け容赦なく虐め倒してくれる、グルジェフさんのような師匠と一緒に生活しないと無理なのです。

嘘をつくからです。

嘘は、毎日つかれています。

嘘をついていない人はいないくらい毎日やっています。

もちろん僕もやってます(ごめんw)

あの、嘘というのは、自己欺瞞というものですが、これは『無知』と仏陀が言ったことと同じなのです。

自分を知らないことを誤魔化しているのです。

ここで幸運か不運かはわかりませんが、師匠と出会うことができた人は弱点を容赦なく叩きのめされるのです。

泣くほどやられる・・・・・・。

嘘がつけなくなるまで、容赦なく、弱点を突かれ続けるのです。

そうすると『放心』する(爆笑)


しかし僕は『第4の道』ではなく『第0の道』を提唱したい。

第1の道 ファキール 肉体の制御

第2の道 修道僧   祈り

第3の道 ヨーギ   知性

第4の道 ずるい人間 理解

第0の道 ダメ人間(爆笑) 放心


この第0の道は、道ではありません笑

道は4つしかないのです。

しかし、この第0の道は、ダメ人間の道なのです!!!!

つまり僕のような、世間的にダメな人間でも至れるのであります。

絶対に!

神は、すべてに浸透する、心である全宇宙の上位に存在しているのです。

この神の至福は、もちろん、ダメ人間にも浸透しています。


グルジェフさんは第4の道は最短だと言いました。

つまり、最初に『理解』を掴むことで、その他の3つの道を追い越してしまうのです。


身体は聖なる段階に高めるには、長時間かかります。

感情は、まあ、早いですが、理解に欠けるので、役に立ちません。

知性は、更に早いですが、達成したあとに、長く修業しなくてはいけません。

理解は、最短です。

しかし放心は、自己と引き替えに、すべてを即座に達成するのです!

だから道ではありません。

道はないのです。

やることもないのです。


ダメ人間募集中、ただし絶望している人に限る!

なのです(爆笑)


真我探求も明け渡しも、必要ないのです。

実はデスよ!

これは、個人意見ですが、僕のようにダメな人間のほうが、この『放心』の意味が理解できるのです(爆笑)

優れた人は理解できません。

何言ってるんだこのアホはと思うに違いないのです。


しかし、このダメ人間の持っている特質は、非常に優れているのですw

その優れている点は、

『純粋である』という点なのです!!!!

この純粋さは社会で優秀に活躍されている人にもありますが、我々は、それに勝る『純粋性』なのです。

まあ言葉を悪くすれば『世間知らずのアホ』となるのです。

この、世間知らずのアホは、なんと、優れているのです(爆笑)


自分なんてものを、明け渡すことは、なんと自動的に人生が与えてくれるという極めて幸運な状況にあるのです。

ですから、道もなく、教えもなく、師もなく、第0の道、

つまり無い道、


絶望しているダメ人間の道なのです!!!!


さあ、この秘訣を、書いてみましょう(ごめんねw)

第0の道、つまり、何もない道において、唯一、あるのが、

神です。

自然森です。

生命力です。

心=宇宙です。

福音です。

愛です。

至福です。

放心です。

優しい白い光です。

絶望です。

虚しさです。

全体性です。

いま・ここです。

最愛の人です。

ゆらめく無です。

解放です。

お前はもう死んでいるです。

純粋さです。

仏性です。

自我と歓喜以外の全てです!


この、たったひとつのある。

つまり第0の道なのに『ある』のは、ほんとうはゼロなのです。

だから、ゼロの道にある、これらの『ある』たったひとつ『在る』ものは無であり有だ。


ダメ人間、ただし絶望している人だけが、この、無い道に、道なき道に入る権利がある。


絶賛、大募集中!!




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幸せであること

2014-04-25 07:10:37 | 日記
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おはようございます!

祝福、そのものである、皆さん、


今日も眠りすぎて時間がありません笑


ニサルガダッタ・マハラジが、

幸せであること、幸せになること、これが愛のリズムだ!

と言ったそうです。


私はー在ると一緒のパターンですね。


うーん、こう言われると一生懸命、目指してしまいますよね。

誰が??


俺が!


私は在る? じゃあ、探しに行こう。

幸せであること? よし目指そう。


そうこうしているうちに、こうなるために苦しんでいる記憶が徐々に潜在意識に蓄積され、

エゴに変身(爆笑)


『いま・ここ』にある俺が幸せなんだ!

ふーん・・・・・・。

で?

なんか、勝手に幸せになってるんだねと、なる笑


で、この場合、簡単に対象に自己同一化する。

執着する。


なぜなら、在ること=意識=俺

幸せであること=感情=歓喜

だから、です。


こうなってくると超幼稚園児状態か、お前はと馬鹿にされるでしょう(爆笑)


だって、この僕自身が、それを経験してきたのだから、間違いありませんよ。

こうなると人生で馬鹿にされます。

みんなから!

お前はアホ! と面と向かっては言われませんよ。

まあ、言わないけど、それ、相応の対応をされるのです。


俺と歓喜を大切にしたら、どうなるかわかります?

『我が儘』になるんです(爆笑)


いまここ、という有名な阿部敏郎さんの言葉。

これは『状態』を指し現しているのです。

自己想起も同様です。

状態なのです。


いまここが、自分なのです。

至福なのです。


しかし、勘違いした僕は、あっと言う間に、対象が、僕を歓喜に連れて行くと暴走したのです(爆笑)

これが17年前に起こったこと。

『変容』という大切なことを言わないから、こうなるのです。

というか、言っているんですが、僕は理解しないのです。

真実を理解するほどには、成長していないのです(爆笑)

でも、意味はありましたよ。


だから俺の立場からしたら、『放心』なんです。

放心するから『いまここ』であり、『自己想起』であるのです。


俺はなくなり、歓喜もなくなる。

幸せないまここである、宇宙意識が、常に自分であるのです。

対象に愛を求めていると、地獄巡りを味わえますがね(爆笑)


苦しんだあげくに、神のご褒美は用意されています。


自分を『変容』させるために表現されたことを、自分を保ったまま読んでも勘違いします。


しつこい?(爆笑)


『幸せである』ことは究極の状態を指し示す言葉です。

あなた自信が、自然に、幸せであることなのです。

さいしょっから、そこ、それ、そのものなのです。

全員が、全員、そうなのです。

目指すべきものではないのです。

落とすべきものを落とせばいいのです。

絶望したらいいんです。


何もしないことなのです。

無為自然なのです。


これらのキャッチフレーズの中で、一番天才的な言葉が、

『平常心、これ、道なり』という言葉なんですよ。


これは凄い!

この言葉を発した人は、たぶん地球上で一番凄い。

過去の偉人の『キャッチフレーズ』の全てを上回る、最強の名言!

平常心、これ、道なり。

です。


しかし、この平常心を、またエゴのことだと勘違いするわけですがね(爆笑)

遍く溢れる幸せが、自分なのです。

宇宙全体が、分離なく、自分なのです。


『お前はもう死んでいる』BYケンシロウ

これのほうが、いいんじゃないかな・・・・・・(爆笑)


というわけで、今日も一日、愛の温泉の中で、過ごしましょう。

あ、間違えた!

愛の温泉、そのものでいましょう。


愛の大海の中にいるという表現は、ずれている。

愛の大海である、無為自然であるということだね。

中にいる人はいません(爆笑)


だからグルジェフは天才だったのです。

逆から行った方が、早いな・・・・・・こいつらアホだし、と見抜かれていたのです(爆笑)




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人類の存在意義(推測ですよ)

2014-04-24 20:58:41 | 日記
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虚無宇宙の外側から、神の世界に光をもたらす皆さん、

こんばんは!


近頃の記事は、中二病全開すぎると読者の方から批判をいただきました(嘘

でもって、本日は更に加速した中二病の世界を堪能いただきたく存じ、申し上げます(爆笑)

まあ、ちょっと今日のはやばいので『いかれたアホの空想』と捉えて下さいw


今日は、仕事帰ってから、ネット徘徊してました。

そのあとで『生は私が存在して初めて真実となる』を読んでいたのですが、いつの間にか眠っていた。

疲れてたんだろうなあ・・・・・・。


で、起きたら、なんと、神が、無言で教えてきた(爆笑)

この世界はちっちゃいぞと!

なんと皆さん、でかいのは自分の心の方だったのです。

まあ、水晶玉が、この世界だとしましょう。

ムクッと起きると、この水晶玉に、顔を突っ込んで、ぐるぐるしているのが僕たちだったのです(爆笑)

で、この水晶玉は神イコール至福がプレゼントしてくれている。

ここに僕たちは自分たちの物語を、展開させていて、まあ眠るのはセーブしているようなものです。

FFでゲームやめるときに、セーブする機能があるでしょう(爆笑)


心はめっちゃでかくて、まあ、この中は真っ暗闇なのです。

真っ暗闇の心に、なんと僕たち人類が光を与えているのでした!

そしてこの自分自身の心を旅しているのです。

この外側の宇宙はめっちゃめちゃでかい!!!!

たぶん無限です。

ここからしたら、我々の宇宙は塵のようなものなのですw


ここからは推測ですが、もしも、将来、超高速宇宙船ができて、宇宙の果てまで行けたとしましょう。

で、その外側ヘ行ったら、無だと思ったとしましょう。

しかし、そこには超巨大な、自分自身がいたのです!(爆笑)

ほんとにテニスボールと、なんだ、スカイツリーよりも違うのですよ!

水晶玉の世界とは、比べものにならないくらいでかいのです。


わかったのですが、どうも寝起きの時間帯というのは、いいようです。

閃きが、なんというか、世界とのリンクを確定させていないのかもしれません。

世界が、つまり水晶玉が、まだ僕を捉えきっていないのです。

そこで神=真我は、この、まだ水晶玉に顔を突っ込む前の閃きの僕に、いろいろ見せるのです(爆笑)


なんとちっこいんだ世界、でかいのは心の方だったんだと思わせるのですw


みなさん世界があるのは、自分の理解範囲のみですよ。

そしてこの水晶玉の反映は、ずっと移動しているように見せて、実は僕らは、自分の心を旅しているのです。

この心は真我=神=永遠です。

自分の自然な状態なのです。

しかし、我々人類は、なんと、なんと、なあああああんとですよ!


この神の世界に意味を与えている存在だったのです!!!!

ひえー(凄すぎる)

ちょっと、さすがにびびってきました。


聖書に神が光りあれ、と言ったら、光ができたとありますが、この光が僕たちなのです。

しかも、この光は、なんと、神を超えているのです。

超えているというか、この光があるから、神の世界に現実が展開していくのです。

つまり『神との出会い』があるのです。

あ、なんかの本のタイトルとは違いますからね。

神は語りかけませんw


あかん、怖すぎる(爆笑)


なんと、この神は、無言な上におしとやかに在られる。

で、我々が、この光である我々が、その愛に気が付くと喜ぶのです。

ニコッと祝福してくれるので、至福を感じる。

なぜ神が喜んでくれるかというと、たぶん、新しい存在が生まれたからなのです。

赤ちゃんが産まれると、親が喜んで、笑顔で祝福してくれるようなものです。

たぶん・・・・・・。


まあ、それはいいとして、みなさん、

目を瞑ると世界がないと思いますか? まあ瞼の暗さを感じますよね。

また寝ているときは世界がないと思いますか??

で、この暗さの、眠りの、範囲の、反対側の自分は、何処にいると思いますか??

身体の中はブーです(笑い)

ブラックホールは、僕が勘違いした場所です(笑い)


まあ目を開けたままでもいいのですが、なんと、宇宙の外側にいるのです。

で、人間の世界では、能動的なのは人類の方なのです。

ここでは神は受動的で、なんでも受け入れてくれるているのです。

愛の無限空間なのです。


僕が超美人で性格もタイプの女の子とハワイ旅行へ行ったとしましょう。

で、もう散々やりたいことやって、遊び回って、海岸で2人でぼーっと海を見るのです。

夕陽が燦々と海を輝かせている。

で、何か2人とも無言になって、お互いを感じるのです。

幸せな空間です。

あー幸せだなあ、とかすら思わないのです。

ただ、ただ、目の前の風景、一緒にいる女の子の存在が至福を与えてくれている。

と思っているのですが、なんと、単に自分自身が、自然な状態に帰っているのです。

放心=究極瞑想をしているのです。

心が全宇宙を満たしているのです。


欲望が己を意識してはいけませんよ(爆笑)


で、この風景が水晶玉で、女の子の『存在』が神様なのです。

身体では、あ、り、ま、せ、ん、よ(爆笑)


人類は『幸福という名の光』なのです。


この閃きは、みんな共通の機能でありながら、僕たちは個性という身体を通して、様々な体験をしている。


この体験は、悪魔によって支えられている。

悪魔は、神と正反対の性質を常に提供し続けることによって『良心の呵責』を人間に感じさせているのです。

永遠の至福を『感じる』人類は、神にとっては貴重な子供達なのです。

神は愛でしか在り続けないが、人間(人類)は、創造の光の中を、まさに創造しているのです。


神の期待を一身に背負った神代表、神イレブンなのです!(爆笑)


もしかしたら世界は、神と悪魔と人類が、共同で製作している実験地のようなものではないのでしょうか。

うーん、これは推測が入りすぎました・・・・・・orz


まあ、しかし、ここまで書いてきてあれですが、こんなことはどうでもいいことですね。

また変な幻影を見ていただけでしょう。


本来の自己は、このような展開の中にはいないのです。


この展開は、おそらく神が、新しい世界を『理解』させようと骨折っているんでしょうが、まあ、あれだ。

人間は『幸福』なのです。

これさえ、踏み外さなければ、別に体験が、どう変わろうと、我々は常に、不変なのです。

悪魔の罠かもしれないしね。

幻影は、幻影として退けなさいと仏陀も言っているし、博士も、形があるものは神ではないと言っている。


そういえば、禅とかでも、何が現れても切り捨てなさい、例え仏が現れても切り捨てなさいと言うじゃないか。

更に岡本太郎は自分が現れても切り捨てなさいだ(爆笑)


ふむ、危うく変な世界に連れて行かれるところだった。


悪魔くん、大人しくしておりなさい(爆笑)

そう言えば・・・・・・確か、博士が、悪魔の正体を見たら、あなた方は、

ションベンちびらないようにねと、書いていたような・・・・・・

気が・・・・・・

しないでも・・・・・・


あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!


めっちゃ、やばい記憶が蘇ってきた。

そういえば、あれは2008年のことだった。

僕は、たまたま、その頃は1時間の座禅を日課にしていた。

妹の子供が生まれるというので、新しいプレハブを建てたばかりで、そこで座禅していた。

ふと気が付くと、背後に何か、存在を感じる。

あ、何かいるなと、その影のような存在を感じようとした瞬間!

背筋が凍り付いた・・・・・・。

凄まじくでかいのだ。

僕が宇宙の果てと想像するくらいでかい空間に足すら入ってないのだ。

ぎぃえーと心中叫んで、すぐに座禅をやめて、冷や汗&心臓ドキドキだったけど、すぐに忘れていた。

まあ、どうせ夢見たみたいなもんだろうと思っていたが・・・・・・。

あれって、何だったんだ?


なんか今日の寝起きのタイミングで見た、世界がちっちゃく光る水晶玉で、でかい僕らが、それを見ているときのサイズと似てる!!!!

うーん・・・・・・。

いかん、これ以上深入りするのはやめておこう(汗

何か触れてはいけない領域だと直感的にわかる(滝汗

しかし、間違いなく神は僕の横にいたよなあ、さっき・・・・・・。


おーい、変な世界に連れてかないでしょうねー、頼みますよー。



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自己想起=仏と共にある

2014-04-24 07:07:51 | 日記
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おはようございます!

ブラックホールで囁く悪魔くんを、慈しみ、憐れむ皆さん!

今日も、仕事前で時間が無いですが、書いておきます。

もう、さいきん、これが生き甲斐になってしまっているのです笑


みなさん『自己想起』という言葉は知らないと思いますが、この『自分を思い起こす』という言葉は、我々にとって非常に有益な状態を指し示す言葉なのです。

これは、なんと『自分の身体を意識すること』ではないのですよ。

本来の自己を思い起こしておくことなのです。

仏と二人連れの人生という言葉があるではないですか。

このことなのです。


しかし本当は仏と悪魔と人間の3人連れの人生なのです(爆笑)


悪魔くんをペットにして、感覚的快楽を虚しくするには主人がいるじゃないですか。

悪魔くんが、悪魔くんを一生懸命ペットにしようとしても無理ですよね、普通に。

で、人間というのは、神と悪魔の中間にいるのですよ。

理解するのが、人間なのです。

この人間は、普段、動いている、生活しているので活動的だと思われるかも知れませんが、実は!

一歩も動いていないんです。

理解し続けているんですよ、閃きが知り続けているのです『人生の展開』を!


感覚的快楽は、悪魔が魂を乗っ取った、その瞬間に『罪悪感』に変わるのですよ。

みんな知っています。

悪魔に魂を乗っ取られた瞬間は『本来の自分』から遠ざかるのです。

もう、目の前の欲望のみになってしまうのです。

これがブッダが指摘した、苦の根本なのです。

だから『歓喜は束縛である』と知れと彼は言っているではないですか。


この魂の状態を人間は理解し続けているのであって、例えてみるなら、神と悪魔が壮絶な死闘をしているのです。


悪魔くんは、普段の自分にとって、正に自分自身だと思っている、その思考です。

自分が悪魔くんなのです。

「あー今日は疲れるなあ、今から仕事か」とか「あーあー、何かおもしろいことないかなあ」とか自分が考えていると思っているのですが、実はデスよ、

自分に悪魔が『想念』という形で話しかけているのです。

囁いているのです。

ここがブラックホールです。

自分、個人の世界なのです。

それを、あの天使の候補生である、偉大なる人間が、自分自身だと勘違いしているのです。


そこで肉体の③代欲求(食う、寝る、やる)を利用して、この悪魔は、人間がそこに集中した瞬間!

つまり自己を失った瞬間に、人間を乗っ取るのです!!!!

そしてたっぷりと、快楽を味わったあと、その結果を人間にお返しするのです。

人間は自己が戻った瞬間に『理解』している。

理解しているのです。

だから、神の悲しみが沸き上がって、『罪悪感』が芽生えるのです。

「もう、なんで悪魔になんか、付いてくのよん」と神が嫉妬しているのです(爆笑)

「ああ、悲しい、虚しい」と、


無言で感じるのです!


いいですか!

ポイントですよ!

神はいつでも無言なのです。

それに比べて悪魔は多弁です。

常にペチャクチャ、ブラックホールに囁いているのが、それが悪魔くんの正体なのです。


人間が神と共にある、つまり『理解』が『良心』と共に在るときは、悪魔は入れないのです。

乗っ取れないのです。

このとき憐れなる悪魔はペットになるのです。

絶対に、全員が全員、気づいていることなのですよ。

毎日、毎日、いま、この瞬間ですら、展開している状態のことなのです。

特別なことではないのです。


ですから、この『至福=神』を見いだして、つまり自分の本来の心を見つけ出して、それを見方にしないと無理なのです。

悪魔が、悪魔を従えることはできません。

これが、今まで、僕がやろうとしていたことなのです(爆笑)

「よーし、俺が、欲望を制してやるぞ-」としゃべっているのは悪魔君なのです!!!!


マウナ(沈黙)の偉大さがわかりますよね。


至福というのは全宇宙に拡散している愛のことで、これがすべて自分なのです。

言うなれば、まあ、これは阿部敏郎さんのパクリになりますが、

愛の大海の中に、あなたはいるのです!!!!


これを忘れてしまったから、悪魔は大喜びして、飛び跳ねているのです。

特に今の時代は、もうパーティしてるのですよ(笑い)


何をしているときにも『理解』を失わなければ、感覚的快楽は、あなたを支配できません。

夢中にならなければいいのです。

『理解』を保ちながら、③大欲求を満たしてあげるだけです。

こんな簡単なことなのです。

やってあげたらいいんです。

虚しさを与えてあげることになります。

悪魔くんは「怒り狂う」ことでしょうが、平然と無視して、神の至福に留まるのです。

神の至福がなければ、悪魔に勝つことはできないのです。


神の至福は、沈黙の恍惚感です。

対象のない、ただ自分に帰ったときの、本来の自分なのです。

あなたは『幸福』なのです。

常に、幸せな状態が、普通なのに『想念』と『罪悪感』に自分を差しだしているのです。

これが異常な状態なので、自己想起、つまり、自分本来の自分を思い出したら、いいのです。

これで完全勝利です!!!!




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