家の猫達は、朝起きると布団の上にごろごろ寝ています。
私達は木の床の上に直接布団を敷いて、家族3人川の字で寝ています。床が杉の無垢材なので、柔らかいんですよね。表面にニスなどを塗っていない木がこんなに柔らかい感じがするとは、実際に寝てみないと分からないものでした。
昼ねする時は直接寝転がっても体痛くなりませんからね。不思議なものです。
毛長の猫は、なぜか仰向けに寝ていますね。私の拾った日本猫のほうはなぜか首を起こして寝たりします。
それぞれ個性的な寝かたするので面白いものです。子供が寝返りうって蹴らないかが心配ですが。
さて、今日のヘミシンク。
愛の光、創造の源についての考察でもしてみようかと。
ちょこっと”SO”コード聞きながらイメージした事を紐解きながら書いていきますね。以前から言っている話の焼き直し的な感じでもありますが。
「愛の光」「神の光」「創造の源」表現はなんでもいいですが、どうしてそれに近づくと人は癒され、安心し、涙が出るほどの感動すらも得てしまうのか。
「そりゃあ、愛のエネルギーが出ているからだよ。」
それで納得する人もいるでしょう。しかし、私はベースがひねくれ者です。なので、「じゃあ、その愛のエネルギーの本質とはなに?」と思うわけです。
今までスピリチュアル系の話でもよく言われる、「愛とつながりなさい」とはどういう事なのか?
まあ、『愛』という言葉を紐解こうという事自体が無粋なのですが、少しでもその本質に近づくには、その意味合いを思考することも重要なわけでして。
もちろん、私も純粋に愛は素晴らしいなあ、と思っています。しかし、一方で「この愛というものは何なのだ?」という事もちらっと思ってしまうわけでして。
今までの歴史を見ると、何でも『愛』の名の元に勝手にいろいろやられちゃいますからね。
いろんな宗教見るとわかりますが、愛の元に戦争して人殺してますから。天草四郎だって、見方を変えれば無垢な民衆を愛の元に扇動して全滅させたという事ですからね。
そういうふうに、見方によっては結果的に悲惨なものになる場合もあったりするわけでして。
ならば、『愛』というものは、そもそも万能ではないのではないのか?
ついそう考えてしまいますよね。
『愛』を今この世にあるもので、分かりやすく置き換えてみられないだろうか。
そこで、思い至ったのが
『愛は膨大な情報の塊である』
というもの。
人がなぜ不安になるのか、なぜ恐怖になるのか、なぜ無関心になれるのか。
それは「情報」が不足しているからだと思います。幽霊が怖いのは、幽霊の本質が分からないから、なにを考えているのか分からないから。
ヤンキーが怖いのは、まじめな人からみるとなにを考えているのか分からないから。今の若いモンは、という中年が恐れているのは、新しい文化を知らないから。
でも、実際に幽霊と接触すると、大半は物分りのいい、話の通じる方々です。ヤンキーだって、そうですよ。話してみると普通です。ちょっと切れやすいとかありますけど。いまどきの若いモンも、話してみると案外分かり合えるものです。
つまり、その相手を知ること、相手の情報を得ることがその恐怖や不安から開放されることなのだと思います。
じゃあ、なんで、愛の光はあんなに安心するのか?
それは、私達の無意識が、愛の光から膨大な情報を一瞬にして受け取っているからだと思います。それにより、『自分の存在を認めることができる』という感覚になるのではないかと。自分を認めることができないというのは、自分に対する情報が不足しているからですよね。自分が何のためにここに存在しているのか、何のために生きるのか、そもそも自分とは何なのか?
その回答を、愛の光、から一気に『光』という形で情報をもらっているからだと思っています。だから、意識が反応するのではなく、体の細胞が反応し、無意識にすべてを理解しているのではないかと。だから自分の中から感動が湧き上がり、自分を受け入れる事ができて、自分の周囲にある世界を受け入れる事ができるようになる。
そうなると安心しますよね。自分は一人ではない。自分の存在は無意味ではない。
受容、これは愛の基本だと思います。相手を受け入れる事、相手に受け入れられる事。
愛の光、創造の源、これをすべての情報がつまった中央にあるスーパーコンピューターだとすると、私達個人は、各家庭にある端末に相当するのだと思います。
端末の形はそれぞれ。携帯電話のようなものから、PC、ゲーム機のようなものまで。しかも相互に通信などもできます。
インターネットをイメージしてみると分かりやすいですが、情報が山ほどあります。
そこから自分に必要なものを引き出すのには、結構なテクニックが必要になってきますね。
漠然と接触していても、何らかの情報はたまにヒットしますが、なかなかたどり着けません。
この状態が、普通の日常生活している常態かと。
そして、情報を得るにはいろんな検索エンジン、ヤフーとかグーグルとかを駆使して探し出します。
スピリチュアル的な行動、瞑想とかヘミシンクとか、山に入って修行するのもそうでしょうけど、それらはこの「検索エンジン」みたいなものだと思います。
愛の光から、必要な情報を探し出すものとして。
しかし、それだけでは情報は完全ではありませんよね。端末の性能が左右してきます。マックOSの初期のもので、ウインドウズのソフトは開けませんし。動画も見えません。
そもそも接続時間が長くて、情報に行き着く前にだれてしまいます。
で、私達はなにをするかというと、今ある端末の性能を生かして、工夫して、最大限の情報を得ていくことだと思います。
ウインドウズ95の人は動画も写真もまともに見えません。でも、文字情報は得られます。
その情報を読み解くことで、次第に自分PCのアップグレード方法が理解できるようになって、しかも、激安PCなんかを見つけたり、接続回線のいいものを見つけられたりするかもしれません。
そうやって、自分の接続できる範囲内の情報をしっかりと読み解いていく事。これが一番確実に愛の光に近づく方法だと思います。
というか、実際はすでに情報を得ている時点で愛の光とつながっているのですがね。
自分のPCに溜まった、不要なソフトを整理して、直でネットにつながるような環境を作ることもいいですが、それだけだとただ情報を拾ってきているだけです。
やはり多様なソフトも充実させないと、意味も無いわけでして。
私達は、現実世界で自分の接続端末をそれに見合った方法でグレードアップしていく必要があるのだと思います。
人の端末を見てうらやましがる前に、まず自分の端末をしっかりと見て、その性能を把握して、どうすれば効率がよくなるのか。そこを調べてみる事から始めると、愛の光を効率よく使えるようになると思います。
と、簡単に置き換えて説明してみましたが、もちろん一例としてのたとえですから。
愛の光はここまで安っぽくはないですからね。人の想像をこえた存在ですので、こうやって置き換える事自体に抵抗を覚えるかたもいるかと思いますが、何事も理解しようとおもえば一度単純化してみることも必要ですので。
こういう説もあるもんだなあ、と思っていただければ。
“SO“コードを聞きながら、概念として流れ込んできた情報をちょっとまとめてみました。
まあ、なんとなく感覚でつかんでいただければ幸いです。
私達は木の床の上に直接布団を敷いて、家族3人川の字で寝ています。床が杉の無垢材なので、柔らかいんですよね。表面にニスなどを塗っていない木がこんなに柔らかい感じがするとは、実際に寝てみないと分からないものでした。
昼ねする時は直接寝転がっても体痛くなりませんからね。不思議なものです。
毛長の猫は、なぜか仰向けに寝ていますね。私の拾った日本猫のほうはなぜか首を起こして寝たりします。
それぞれ個性的な寝かたするので面白いものです。子供が寝返りうって蹴らないかが心配ですが。
さて、今日のヘミシンク。
愛の光、創造の源についての考察でもしてみようかと。
ちょこっと”SO”コード聞きながらイメージした事を紐解きながら書いていきますね。以前から言っている話の焼き直し的な感じでもありますが。
「愛の光」「神の光」「創造の源」表現はなんでもいいですが、どうしてそれに近づくと人は癒され、安心し、涙が出るほどの感動すらも得てしまうのか。
「そりゃあ、愛のエネルギーが出ているからだよ。」
それで納得する人もいるでしょう。しかし、私はベースがひねくれ者です。なので、「じゃあ、その愛のエネルギーの本質とはなに?」と思うわけです。
今までスピリチュアル系の話でもよく言われる、「愛とつながりなさい」とはどういう事なのか?
まあ、『愛』という言葉を紐解こうという事自体が無粋なのですが、少しでもその本質に近づくには、その意味合いを思考することも重要なわけでして。
もちろん、私も純粋に愛は素晴らしいなあ、と思っています。しかし、一方で「この愛というものは何なのだ?」という事もちらっと思ってしまうわけでして。
今までの歴史を見ると、何でも『愛』の名の元に勝手にいろいろやられちゃいますからね。
いろんな宗教見るとわかりますが、愛の元に戦争して人殺してますから。天草四郎だって、見方を変えれば無垢な民衆を愛の元に扇動して全滅させたという事ですからね。
そういうふうに、見方によっては結果的に悲惨なものになる場合もあったりするわけでして。
ならば、『愛』というものは、そもそも万能ではないのではないのか?
ついそう考えてしまいますよね。
『愛』を今この世にあるもので、分かりやすく置き換えてみられないだろうか。
そこで、思い至ったのが
『愛は膨大な情報の塊である』
というもの。
人がなぜ不安になるのか、なぜ恐怖になるのか、なぜ無関心になれるのか。
それは「情報」が不足しているからだと思います。幽霊が怖いのは、幽霊の本質が分からないから、なにを考えているのか分からないから。
ヤンキーが怖いのは、まじめな人からみるとなにを考えているのか分からないから。今の若いモンは、という中年が恐れているのは、新しい文化を知らないから。
でも、実際に幽霊と接触すると、大半は物分りのいい、話の通じる方々です。ヤンキーだって、そうですよ。話してみると普通です。ちょっと切れやすいとかありますけど。いまどきの若いモンも、話してみると案外分かり合えるものです。
つまり、その相手を知ること、相手の情報を得ることがその恐怖や不安から開放されることなのだと思います。
じゃあ、なんで、愛の光はあんなに安心するのか?
それは、私達の無意識が、愛の光から膨大な情報を一瞬にして受け取っているからだと思います。それにより、『自分の存在を認めることができる』という感覚になるのではないかと。自分を認めることができないというのは、自分に対する情報が不足しているからですよね。自分が何のためにここに存在しているのか、何のために生きるのか、そもそも自分とは何なのか?
その回答を、愛の光、から一気に『光』という形で情報をもらっているからだと思っています。だから、意識が反応するのではなく、体の細胞が反応し、無意識にすべてを理解しているのではないかと。だから自分の中から感動が湧き上がり、自分を受け入れる事ができて、自分の周囲にある世界を受け入れる事ができるようになる。
そうなると安心しますよね。自分は一人ではない。自分の存在は無意味ではない。
受容、これは愛の基本だと思います。相手を受け入れる事、相手に受け入れられる事。
愛の光、創造の源、これをすべての情報がつまった中央にあるスーパーコンピューターだとすると、私達個人は、各家庭にある端末に相当するのだと思います。
端末の形はそれぞれ。携帯電話のようなものから、PC、ゲーム機のようなものまで。しかも相互に通信などもできます。
インターネットをイメージしてみると分かりやすいですが、情報が山ほどあります。
そこから自分に必要なものを引き出すのには、結構なテクニックが必要になってきますね。
漠然と接触していても、何らかの情報はたまにヒットしますが、なかなかたどり着けません。
この状態が、普通の日常生活している常態かと。
そして、情報を得るにはいろんな検索エンジン、ヤフーとかグーグルとかを駆使して探し出します。
スピリチュアル的な行動、瞑想とかヘミシンクとか、山に入って修行するのもそうでしょうけど、それらはこの「検索エンジン」みたいなものだと思います。
愛の光から、必要な情報を探し出すものとして。
しかし、それだけでは情報は完全ではありませんよね。端末の性能が左右してきます。マックOSの初期のもので、ウインドウズのソフトは開けませんし。動画も見えません。
そもそも接続時間が長くて、情報に行き着く前にだれてしまいます。
で、私達はなにをするかというと、今ある端末の性能を生かして、工夫して、最大限の情報を得ていくことだと思います。
ウインドウズ95の人は動画も写真もまともに見えません。でも、文字情報は得られます。
その情報を読み解くことで、次第に自分PCのアップグレード方法が理解できるようになって、しかも、激安PCなんかを見つけたり、接続回線のいいものを見つけられたりするかもしれません。
そうやって、自分の接続できる範囲内の情報をしっかりと読み解いていく事。これが一番確実に愛の光に近づく方法だと思います。
というか、実際はすでに情報を得ている時点で愛の光とつながっているのですがね。
自分のPCに溜まった、不要なソフトを整理して、直でネットにつながるような環境を作ることもいいですが、それだけだとただ情報を拾ってきているだけです。
やはり多様なソフトも充実させないと、意味も無いわけでして。
私達は、現実世界で自分の接続端末をそれに見合った方法でグレードアップしていく必要があるのだと思います。
人の端末を見てうらやましがる前に、まず自分の端末をしっかりと見て、その性能を把握して、どうすれば効率がよくなるのか。そこを調べてみる事から始めると、愛の光を効率よく使えるようになると思います。
と、簡単に置き換えて説明してみましたが、もちろん一例としてのたとえですから。
愛の光はここまで安っぽくはないですからね。人の想像をこえた存在ですので、こうやって置き換える事自体に抵抗を覚えるかたもいるかと思いますが、何事も理解しようとおもえば一度単純化してみることも必要ですので。
こういう説もあるもんだなあ、と思っていただければ。
“SO“コードを聞きながら、概念として流れ込んできた情報をちょっとまとめてみました。
まあ、なんとなく感覚でつかんでいただければ幸いです。
ただ、『愛は膨大な情報の塊である』というのは、最初は「え~っ」と思いましたが、最後は「なるほどねぇ」となりました。
参りました。
認めあうという事が安心につながるのはその通りですし、情報交換ないしエネルギー(ル?シュ)交換で認め合って互いに嬉しくなる流れは細胞レベルでも染色体を交換しあって子供が生まれるしくみから、生命の絶対的なルールですので。そういえば、愛がル?シュという説もありませんでしたっけ?。あのときもそれなりに納得しました。情報とル?シュが含まれる染色体の交換の様なイメージで納得しちゃってよろしいでしょうか?「情報+ル?シュ=情報=ル?シュ」という思い込みはまずいですか?
『愛』はあまりにも大きすぎて、一言で言い表すのは難しいと思います。
大きいゆえに解釈の仕方もたくさんあると考えます。
―『愛は膨大な情報の塊である』―
いつもながらまるの日さんの斬新(!?)な表現に、「ウ~ン、なるほど!」と、ナットクです(^_^)/
今回の説明も前回同様分かりやすいですね。
高額な分厚い本を読むより、まるの日さんの1日分のブログ読むほうがずっと愛への理解が深まる気がします。
実際に、地球も生態系も、絶妙なネットワークで構成されているリアル立体コンピュータみたいなものですから。
こういうネタ、案外SFでは既に見る概念かもしれませんね。
参考になれば嬉しいです。
私の感覚では 愛=情報(ルーシュも含む)みたいなイメージでしょうか?
たぶん概念として理解するしかないのでしょう。
まあ、でもそれを何とか理解しようと努力するのも人間ですから。
いろんな解釈が存在するのが自然ですよね。