まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

法の精神

2009-01-20 15:11:56 | ドライブ人生論
高校の頃、世界史だか倫理社会(今で言う倫理)だかの授業で、
モンテスキューの「法の精神」という概念を初めて耳にしたとき、
とっても納得がいった覚えがあります。
実際の法律(=実定法)にはさまざまな「法の文字」が書かれていて、
あれしちゃいけないこれしちゃいけないなどと規定されているわけですが、
その「法の文字」は人間が作文したものだから、どこかに穴がある可能性もあって、
すべての現実に対応できるわけではないかもしれない。
しかしその「法の文字」の背後には「法の精神」というものがあって、
その「法の精神」に基づいて法は書かれているわけですから、
法の字面に関して疑義が生じた場合は、
「法の精神」にさかのぼって、何が正しくて何が不正であるかを判断すればいいのです、
と、世界史だか倫理社会だかの先生に習ったような記憶があります。
実際にモンテスキューの『法の精神』を読んでみると、
「法の精神」という言い方はほんの2箇所くらいにしか出てこないし、
「法の文字」と「法の精神」を対比的に使っているわけでもないし、
本当に上記のような意味で使われているのかは不明なのですが、
とにかく当時はそう教えられて、なるほどなと思ったわけです。

さて、自動車教習所で道路交通法を学んだとき、
この「法の精神」の話を思い出しました。
いろいろと筆記試験に向けて覚えなきゃいけない中で、
自分なりに「道路交通法の精神」を発見していったのです。
それはけっきょく2つに要約できて、
1.交通弱者を守る
2.交通事故が起きないようにする
この2つがすべてだ、と大学1年生の私は理解しました。
しかもこのうち2番のほうは、1に比べると取るに足らない些末な精神であって、
「道路交通法の精神」の最も重要な部分は、
「交通弱者を守る」に尽きるのではないでしょうか。

交通弱者というのは相対的な概念です。
次のような食物連鎖が考えられるでしょう。
〈交通強者〉←         →〈交通弱者〉
自動車 > オートバイ > 自転車 > 歩行者
より右のものはより左のものに対して交通弱者として捉えられます。
したがって道路交通法においては、
より左のものには、より右のものを保護し危害を加えないように注意する、
という義務が課せられるのです。
そして究極的には交通弱者の最右派である歩行者が、
何よりも守られねばならないということになるでしょう。

信号というのもまさにこの法の精神を実現するためのシステムです。
ですから、深夜、人っ子1人いない、車も1台もいないような通りであっても、
自動車は赤信号でじっと止まってなきゃいけませんし、
逆に、真っ昼間に車通りの多い交差点で、
赤信号で渡っている愚かな歩行者がいたとしても、
他の交通強者たちはその歩行者のために止まってあげなければなりません。
このあいだ13号線(片側2車線の幹線道路)のヤマダ電器前で、
赤なのにみかん袋を提げて堂々とのんびり渡っていくおばあさんがいて、
すべての自動車は法の精神を実行していました。
こういうときに法律にはそんなことは書いてないじゃないかといって、
青だから突っ走るぜ、なんて選択肢は許されません。
道路交通法に限らず、時には法というものを
法の精神にさかのぼって考えてみる必要があるのではないでしょうか。