まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

日本の臓器移植法

2020-05-07 05:02:37 | 看護学校「哲学」
日本の臓器移植法の骨子

①改正前臓器移植法 (1997年) の骨子
 イ.医師は死体(脳死した人の身体を含む)から移植のために臓器を摘出できる。
 ロ.脳死した者の身体とは、移植のために臓器が摘出される予定で、
   全脳の機能が不可逆的に停止したと判断された人の身体をいう。
 ハ.脳死で臓器を摘出する場合の脳死判定は、
   本人が生前に書面で脳死と判定されたら死者として扱われることに同意しており、
   家族が判定を拒まない場合に限って行える。
 ニ.脳死の判定はこれを的確に行うために必要な知識、経験を有する
   2人以上の医師の行う判断の一致による。
   (摘出医、移植医は除く。竹内基準による。)
 ホ.脳死で臓器摘出ができるのは、
   死者が生前に書面で臓器を提供する意思を表示しており、
   遺族が摘出を拒まない場合に限る。
 ヘ.心臓停止後に腎臓又は角膜を摘出する場合は従来どおり、
   本人の提供意思が不明でも、遺族の同意で摘出できる。     
 ト.脳死した者の身体への処置の費用は当分の間、保険給付の対象とする。
 チ.臓器提供は15歳以上の者のみ可能とする。

②改正後臓器移植法 (2010年) の骨子
 イ.脳死は一律に人の死。
 ロ.本人の書面による意思表示がない場合、家族の同意のみで脳死者から臓器提供できる。
    (15歳未満の者からも、家族の同意があれば臓器提供できる。)
 ハ.本人の書面による意思表示があれば、近親者への選択的臓器提供ができる。

脳死とは何か?

2020-05-07 04:40:37 | 看護学校「哲学」
脳死と植物状態の違いについては理解してもらえたと思います。
脳死については「少なくとも脳幹が機能していない」、
「自発呼吸がなく、人工呼吸器が必要」と書いたわけですが、
残念ながらあれは脳死の定義ではありません。
あくまでも植物状態との違いは何かという説明でしかありませんでした。
もうお気づきの人もいると思いますが、
「少なくとも」というビミョーな言い回しを用いていました。
あの言葉には重要な意味が込められていたのです。
それはどういうことかというと、
現在までのところ世界で「脳死」に関して統一的な見解はなく、
いくつかの争点をめぐって意見が割れていて、
それにしたがって複数の定義が存在しているのです。

まずは、脳死をめぐる争点ですが、これには2つあります。

1.脳幹死 (脳幹さえ死ねば脳死)か、全脳死 (脳幹も大脳も含めて全脳の死が脳死)か?

2.機能死 (脳の機能の不可逆的停止)か、器質死 (脳の細胞レベルでの死)か?

1は脳の部位に関する争点です。
植物状態との違いを重視して、脳幹さえ死ねば脳死だと考えるのが「脳幹死」の立場であり、
「脳死」と言う以上は脳幹だけでなくすべての脳を含めるべきだというのが「全脳死」の立場です。
2は脳死判定基準にも関わって、何をもって「死」と呼ぶべきかという争点です。
脳の機能(=働き)が止まることを「死」と呼ぶというのが「機能死」の立場であり、
脳という臓器が細胞レベルで死んでしまうことを「死」とするというのが「器質死」の立場です。
前者(=機能死)の場合、ただたんに脳の機能が止まっただけでは、
一時的(=可逆的)停止にすぎないかもしれないので、
(病気や麻酔等により脳の機能が一時停止することはいくらでもある)
例の「不可逆的」という形容詞を付して「脳の機能の不可逆的停止」を脳の死としています。
後者(=器質死)に関しては、脳死になった患者さんの頭をあとで解剖してみると、
脳がサラサラに溶けてしまっているケースが見られるので、
それが機能死(=脳の機能の不可逆的停止)の原因にもなっているはずで、
そちらの根本原因のほうこそが「死」という名にふさわしいと考えています。

このように2つの争点をめぐってそれぞれ2つの立場があるので、
組み合わせると4つの定義が出てくる可能性があるわけですが、
現在、世界中に存在する定義はそのうち以下の3つとなります。

A.脳幹の機能死   ex.イギリス

B.全脳の機能死   ex.日本やアメリカをはじめとして多くの国々

C.全脳の器質死   ex.ロシア、スウェーデン等

このように脳死の定義は世界でひとつに定まっておらず、
国によってバラバラなのです。
定義が違うことによって脳死の判定基準(=判定方法)も変わってきます。
つまり、脳死の判定方法も世界で統一されていないのです。
3つのうち上のほうが判定が簡便にでき、
下になるにつれて検査項目が増えてきます。
同じ状態の患者さんが国によって「脳死」と判定されたり、
まだ「脳死」ではないと判定されたりするということが起こりうるわけです。
今回はどの定義が「脳死」としてふさわしいかも考えてもらいますが、
国家試験に向けては、世界にいろいろな定義や判定方法がある、
なんていうことは覚えなくてもいいので、
日本の定義と判定基準だけ覚えておけばOKです。

日本における脳死の定義は「B.全脳の機能死」を採用していて、
正確には、「脳幹を含む全脳の不可逆的な機能停止」と定義されています。
これをどうやって判定するかという判定基準としては、
1985年に策定された「厚生省基準(竹内基準)」が現在でも使われています。

 イ.深昏睡
 ロ.自発呼吸の停止
 ハ.瞳孔散大
 ニ.脳幹反射の消失 (対光反射、角膜反射、毛様脊髄反射、眼球頭反射、前庭反射、咽頭反射、咳反射)
 ホ.平坦脳波
 ヘ.イ~ホの確認後6時間以上経過後に再検査

イは「従来の人の死」で言う「動かない、話さない」が徹底した状態で、
叩こうが階段から突き落とそうがまったく反応しない状態です。
(それで痛がったりしたら完全に生きているわけですが…)
ロとハは心臓死の三徴候のうちの2つですね。
ロの代わりに人工呼吸器につながれていて、
そのために心拍は維持されているわけです。
ニによって脳幹の機能が消失していることを確認しています。
「A.脳幹の機能死」の定義であれば、ここまでの検査でいいのですが、
日本は「B.全脳の機能の不可逆的停止」の定義を採用しているので、
脳幹だけではなく大脳の機能の停止も確認しなければならないので、
ホの検査を行います。
こうして全脳の機能の停止を確認したわけですが、
これで脳死判定は終わりではありません。
なぜならイからホまですべて満たしたとしても、
それはまだ「可逆的」(=一時的)停止にすぎないかもしれないからです。
実際にイからホまですべて満たしたとしてもそこから回復してくる患者さんはいます。
回復するのであれば「死」ではないので、
これが「不可逆的停止」であることを確認するにはどうすればいいのでしょうか。
時間をおいて再検査します。
イ~ホで終わりでなく、ヘがあるのはそのためです。
何時間後に再検査するかはこれも国によってまちまちですが、
日本では6時間以上経過後に再検査となっています。
(これは世界最短。だいたい12時間後や24時間後が一般的)

時間をおいての再検査によって「不可逆的」な機能停止であることを証明できるのか、
これが先に書いた争点2の重要なポイントにもなっています。
国によっておく時間が違っていることからもわかるように、
6時間後に再検査して機能が戻っていなかったとしても、
ひょっとすると8時間後には戻ってきているかもしれません。
24時間後に戻っていなくても24時間30分後に戻ってくるかもしれません。
どれだけ長い時間を設定したとしても、
その後に戻ってくるという可能性を排除しきれないので、
「機能死」の立場を採る限り「不可逆性」を証明することはできないのではないか、
それゆえ、不可逆的機能停止を判断するためにも、
その原因である脳の細胞レベルでの死を確認すべきだというのが「器質死」の立場です。
これを判定するために脳血流の停止や脳代謝の停止を判定基準に加え、
PETなどの機材を用いて脳細胞が活動しているかどうかを検査しています。

さて、このあと脳死は人の死かどうかを考えてもらうわけですが、
その前に脳死とは何かという定義のところで、
脳死には3種類の定義があるということになってしまいました。
A~Cどの定義を選ぶのかということも含めて、
脳死は人の死なのかどうか考えてみてください。
ヒントとしては、自分だったらと考えずに、
自分の家族の死の判定だったらどれを選ぶかという観点に立つといいと思います。
それから、やはり脳死は人の死ではなく、心臓死のみしか認められない、
という考え方も当然ありだと思いますが、
その場合には脳死臓器移植は完全にできなくなる、
(生きている人から臓器を摘出して死なせたら殺人罪に問われる)
ということも念頭に置いた上で考えてみてください。

脳死と植物状態の違い

2020-05-07 01:12:54 | 看護学校「哲学」
植物状態と脳死の違いを簡単にまとめると以下のようになります。

 植物状態‥‥脳幹は機能している
       ∴自発呼吸がある

 脳  死‥‥少なくとも脳幹が機能していない
       ∴自発呼吸がなく、人工呼吸器が必要

ざっくり言うと、脳のなかの脳幹と呼ばれる部分が機能しているかいないか、
というのが大きなちがいです。
脳幹は、人間が無意識的にできることを司っている部位です。
呼吸とか、心拍とか、消化とか、ホルモン分泌とか、新陳代謝とか…。
つまり、人間が寝ているときにもできることをコントロールしているのが脳幹です。
植物状態の場合、動いたり話したりができず意識活動がないとはいえ、
脳幹がまだ機能していますので、上記のようなことはできるわけです。
植物状態というのは、要するに寝たきりの状態であり、
植物が動かないし話さないけれど呼吸はして生きているのと同様、
自分で呼吸をしているし心拍もあり、ちゃんと生きているわけです。
これに対して脳死は、この脳幹部分も働いていません。
したがって呼吸その他ができないわけで、だから人工呼吸器に繋がれているわけです。

脳死というのは人工呼吸器というものが開発されたことによって初めて生じました。
人工呼吸器が普及したのが1950年代ですから、
それ以前には人類20万年の歴史において脳死なんてまったく存在しなかったわけです。
それまでは自発呼吸の停止に至った人はいずれ間もなく心臓も停止して、
死亡(=心臓死)してしまうのが当たり前でした。
マウス・トゥ・マウスによる人工呼吸という方法が開発されて、
しばらくの間、酸素を供給してあげられるようになりましたし、
その間に治療を施すことによって回復するという人も増えてきましたが、
そんなにいつまでもマウス・トゥ・マウスは続けられず限界があります。
人工呼吸器はその問題を解消する素晴らしい発明だったのです。
これが開発され普及したことによって、
それまで救えなかった多くの患者さんを救うことができるようになりました。
その点は医学と医療技術の大勝利だったと言うことができるでしょう。

しかしながら人工呼吸器も万能ではないので、
すべての患者さんを助けられるわけではありません。
人工呼吸器を用いた治療を施してもあいかわらず助けることはできず、
失われていた命はありました。
それは仕方のないことです。
ただ、それとは別に新しい問題も生まれてきました。
回復するわけでもなく、といってすぐに死亡(=心停止)してしまうわけでもない、
中間状態の患者さんが新たに生み出されることになったのです。

最初に書いたとおり、脳幹は心拍も司っているので、
ふだんは、運動したり緊張したときに心拍を上げたり、
リラックスしているときに心拍を下げたりというコントロールも脳幹が行っています。
脳幹が機能しなくなれば、自発呼吸が失われると同時に、
そうした心拍のコントロールもできなくなってしまいます。
なので脳幹が機能しなくなれば心臓も停止してしまってもおかしくないはずなのですが、
しかしながら心臓には、いざというときのためにバックアップ機能が備わっており、
万一の場合に脳幹から指令が来なくなっても、自動で拍動できるようになっています。
この自動拍動は酸素をエネルギーとして動いているので、
呼吸が止まればいずれこの心拍も止まってしまうのですが、
酸素が供給されれば心拍は維持されます。
そのために、脳幹が機能しなくなって自発呼吸が失われ、
人工呼吸器につながれて、その間に様々な治療を試みたが回復させることはできず、
自発呼吸は戻ってこないまま、しかし心停止に至ってしまうわけでもなく、
人工呼吸器によって酸素が供給され続けているために、
心臓の自動機構によって心拍が維持されるという、
人類がこれまで経験したことがないような新しい中間状態が生み出されました。

こうした状態の患者さんのことを当初は、
「超過昏睡」、「不可逆的昏睡」などと呼んでいました。
「不可逆的」というのは「可逆的」の反対語で、
「可逆的」は逆戻りあり、つまり回復することがありうる一時的な、
という意味の言葉なので、
「不可逆的」は一時的ではなくもうけっして回復することがありえない、
という意味の形容詞になります。
この言葉は脳死のことを考える上でひじょうに重要になってきますので、
これもいっしょにぜひ覚えておいてください。
いずれにしても昏睡状態のなかのすごいやつみたいに命名されていたわけですが、
こういう患者さんの心臓を臓器移植に使いたいという必要性から、
1968年になって「脳死」という概念が生み出されることになりました。
「昏睡」だったら眠っているだけで生きているわけですが、
「脳死」と言い換えれば死者として扱うことが可能になるわけです。
「脳死」という言葉自体が価値判断を含んだ概念だったということがわかるでしょう。

話を戻しましょう。
植物状態と脳死の違いとして、
回復する可能性があるかないかということを挙げる人がよくいますが、
これは不正解です。
脳死の場合はもちろん 「死」 なんですから、
回復の可能性があっては絶対にいけないわけですが、
植物状態のほうも、定義上は 「回復の見込みがないこと」 という文言が含まれています。
ただし、そう書きたくなってしまう気持ちはわからなくもなくて、
よく植物状態の患者さんを取り上げたドキュメンタリー番組などで、
家族や看護師があきらめることなく、
普通の患者と同じように声がけしたりタッチングしたりし続けたことによって、
奇跡的に意識を取り戻したとか、意思の疎通が可能になったとか、
場合によっては歩けるくらいに回復したというような話が取り上げられますので、
植物状態は回復可能なものだと思い込んでしまったのでしょう。
しかし、それは稀なケースですので、植物状態がすべて回復可能だというわけではありませんし、
むしろ厳密な言い方をするならば、回復した人たちは回復してしまったわけですから、
定義上、植物状態ではなかったと言うべきなのだろうと思います。
(植物状態の定義については次回扱います。)
しかしながら、植物状態に関しては回復するかしないかは何とも言えませんので、
定義のなかに 「回復の見込みがない」 ということを含める必要もなければ、
「回復の可能性がある」 と言い切ることもできず、
したがって、脳死とのちがいとして回復可能性を挙げることはできないのです。

なので、脳死と植物状態の違いは脳幹が機能しているか否か、
自発呼吸があるか否かなのだということをよく覚えておいてください。
ただし、これはまだ脳死の定義ではありません。
脳死の定義についてはさらに難しい問題が含まれていて、
実はまだ脳死の定義は世界中でひとつに確定されていません。
これが次のお話になります。