大治町馬島に明眼院(みょうげんいん)という寺があります。
南北朝時代の眼科医・馬嶋清眼が荒廃状態であった寺を再興して、本尊である薬師如来にちなんで「医王山薬師寺」と改名しました。
13代目住持円慶の時、後水尾天皇の皇女の眼病の治療にあたり、天皇の賞賛を受けて「明眼院」の寺号を授けられて勅願寺の格式が与えられました。また、後に住持円海が桜町天皇の皇女の治療にあたったことから、明眼院の住持を権大僧正に任じました。
こうして、同院の名声が広まって全国各地から診療を求める患者が来訪し、眼科治療院として隆盛をきわめました。大名の小堀政一(遠州)、画家の円山応挙、国学者の本居春庭(宣長の嫡男)なども同院の治療を受けたととされています。
春庭が治療を受けた頃の様子は「尾張国名所図絵」に載っていますが、本堂に向かって右手に「男眼疾寮」として「松部屋」など5棟、「女人眼疾寮」として「新桃部屋」など8棟、また別に「療治場」や茶店まであり、規模が大きかったことがうかがえます。
しかし、明治維新後に神仏分離令や医事法の制定などによって、寺の規模は縮小し衰徴しましたが、馬嶋流眼科の伝統は受け継がれ、子孫の「馬島氏」は眼科医として高名であります。また、「馬嶋」姓を名乗る眼科医が多いとも言われています。
現在の明眼院は、その歴史的価値が見直されて戦後に再興されたもので、江戸時代に患者から礼物として寄贈されたものなどを中心に多数の文化財を有しています。