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選抜高校野球の応援

2024-03-16 04:35:29 | 紀伊田辺
【はじめに】
 妻と私の母校が、選抜高校野球の21世紀枠で甲子園に出場する事になりました。

 私は昔から阪神ファンで、野球が好きです。私の影響を受けて妻も野球好きになっています。 それで、甲子園に二人で応援に行きます。

【私の母校】
 私の母校は和歌山県立田辺高等学校です。地元では『田高(でんこう)』と呼ばれています。

 田高は1896年設立の県立田辺中学校と、1906年設立の県立田辺高等女学校などが、1948年に統合されて出来た学校です。1970年に高台(現在の場所)に移転しました。 そして、2006年に中学校を併設して、中高一貫校になっています。

(余談 :合気道の植芝盛平氏) 田高は1970年に移転するまでは、海の近くに有りました。道路の南側が『扇ヶ浜』で、見事な松並木が有りました。

 大学の同期生で同じ会社に就職した友人(W氏)は、合気道の有段者でした。合気道の創設者は田辺市出身の『植芝盛平氏』です。 「田辺市は合気道の聖地なので行って見たい!」と言っていたので、1974年に私が田辺市で挙げた結婚式にW氏を招待しました。

 1988年に植芝盛平氏の銅像が『扇ヶ浜』に建立されました。私は何回も、その銅像の前を歩きました。 もしかしたら、W氏は銅像を見に行ったかも知れません。

【甲子園での応援】
 田高は、開幕式の有る18日の第二試合で、優勝候補の一つ『星陵』と対戦します。 私はローソン・チケットの会員になって、妻の分も含めて2枚チケットを購入しました。 妻と友人達は「星稜には勝てない」と言いますが、私は奇跡が起こると思っています。

 1995年に田高が、夏の全国高等学校野球選手権大会に出場した時も、妻と二人で内野席で応援しました。 その時は、一方的に負けました。

【友人のS君】
 先日、久しぶりに高校時代のS君に電話しました。S君は宝塚市に住んでいます。実家は、田辺市で一、二を争う蒲鉾屋です。

 西宮市(?)に住む高校時代の友人のY君から「18日の指定席を数枚買った、その内の1枚はS君の分だ」とS君に電話が有ったそうです。 S君はアルプスの応援団席で応援したかったので、田辺市に住む友人にチッケットを依頼していました。 「応援団席が取れたら、そっちに行く。その時もY君にお金を払う」と言っておいたそうです。 (応援団席は700円するそうです。)

 S君は、田辺市から応援に来る同級生の数人の名前を言っていましたが、私が知っているのは一人だけでした。

 S君の話しでは、応援団用にバスが50台出る。 それらの費用として、1,500万円募金を募っている。 実家は数十万円寄付した。一口が3万円なので、S君は出せないと言っていました。 私も同じです。

【生徒会の会計】
 私は、高校2年生の秋から1年間生徒会の会計でした。 大店の娘さんで/美人で男子に人気の有った同級生(Bさん)を、私の補助役にしてくれたのですが、Bさんは私が嫌いだった様で、会計の仕事をいっさい手助けしてくれませんでした。

 毎年・夏休み前になると、野球の県大会に応援団用のバスを二、三台出すのですが、お金は生徒会の会計が市内の商店や裕福な家を回って集める事になっていました。先生が、子供が在校している家やOBがいる商店等のリストを作ってくれました。 Bさんの家(商家)に最初に行きました。 お金は出してくれましたが、「募金活動は嫌だ!」と断られました。

 野球部の部員は確か『10人』しかいませんでした。県大会が始まる直前に、他の運動部から助っ人を何人か集めました。その中の一人は、私の同姓の友人でした。彼は陸上部で槍投げをやっていました。 (彼は、奇跡が起こってインターハイの槍投げで優勝しました。)

 毎年、1回戦敗退が続いていたのですが、この年は勝ってしまったのです。 それで、私は募金活動を再開しました。 2回目はなかなか金が集まりませんでした。

(余談 :映画鑑賞会) 会計の仕事の一つに、年に二回開催した洋画の鑑賞会のお膳立てが有りました。 先生達が、推奨する洋画のリストを作ってくれて→→映画館のオーナーと話し合って→→作品、料金、日時を決めて→→ポスターを校内に貼りました。『怒りの葡萄』と『恐怖の報酬』に決めたと記憶しています。 

 私が会計をやったのは1964年頃で、当時・田辺市には映画館が五、六軒有りました。娯楽が少なかったので、映画鑑賞会は何時も満席になりました。 (ツタヤが出来たのは1983年です。)

【我が家と田高と若草寮】
 私は、1965年に田高を卒業しました。クラスメイトの妹と結婚し、妻も田高の卒業生です。 義理の兄の嫁さんは、私の田高の同級生です。 四人とも田高の卒業生ですから、集まると高校時代の話をします。

 私の母は、1904年生まれでした。 1917年頃、田高の前身の一つである『田辺高等女学校』に入学し、「3年間寮生活をした」と言っていました。母が住んでいた女学校付設の寮は『若草寮』と呼び、現在も田高付属で存在していますが、別の場所に移転しています。

 私が入学した時、若草寮は創建時のままだったと思います。中庭を挟んで、平屋の2棟が並行して建っており、食堂/厨房兼管理人の住居部が有り、全て廊下で繋がっていました。 生徒の居室は、20畳程✕3部屋✕2(男子用と女子用)で、女子用はまだ十分住める状態でしたが、男性用は各部屋の中央部の床が腐って、大きな穴が開いて床下の土が見えていました。 男子部屋では、勉強机を部屋の隅に置いて、押し入れに布団を敷いて寝ていました。

 南国の田辺市でも真冬は寒いです。 電気炬燵(こたつ)が使えない部屋で勉強する自信が無かったので、民家に間借りして→→夕食だけ若草寮に食べに行きました。

 母が「懐かしい若草寮を見て見たい」と言うので、案内しました。中庭に高さ2m程に仕立てた、格好の良い松が数本植わっていました。 その松の1本が、女性用部屋の窓の近くに有り、「女学生が、この木で首吊り自殺したので、『首吊りの松』と呼んでいた」と母が言いました。  この話しは、女性達が怖がると思ったので、今まで誰にも話していません。

 私が卒業して直ぐに若草寮は立て替えられ→→その後、田高と若草寮は移設され→→現在は、鉄筋コンクリート造の3階建てになっています。


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