【はじめに】
9月に入っていますが、連日暑い日が続いています。 それでも、1週間ほど前に、赤トンボが2匹飛んでいました。
先日、窓を開けて上半身だけ外に出して、タバコを吸いながら稲妻の走るのを見ていました。 何故か?ふと、大昔に『芹尽くし料理』を頂いた事を思い出しました。
【芹(せり)尽くし料理の思い出】
仙台の大学に合格して、下宿を探す為に3月の末に仙台に行きました。駅前でタクシーの運転手に、「貧乏なので、安い宿に連れていって下さい」とお願いしたら→→榴岡公園の近くの料理旅館に連れていって→→女将を説得して→→素泊まりを条件に、格安の料金で泊めてくれる事になりました。
当時、仙台にはワンルームマンションは勿論、共同の炊事場の付いた安アパートが無く、学生寮に入るか、下宿に入るかでした。学生寮は何カ所かに有ったので見に行きましたが、ボロボロで、学生運動の拠点になっていたので、論外でした。下宿は沢山有りましたが、私の予算内のは見当たらず、探し回りました。
翌日の夕方・クタクタになって→→料理旅館に帰ると→→仲居さんが、「お客さんと食事をしてくれませんか?」と言うのです。願っても無い事だったので了解しました。電気炬燵を置いた六畳程の和室に通されました。炬燵に高価そう和服を着た老人と女将が座っていて、私が入室すると女将は出て行きました。 そして、老人は身の上話を始めました。
老人は癌の末期で、余命が幾許(いくばく)も無く、病院に最後の外出を許可してもらって→→馴染みの料理旅館に、大好物の芹(せり)料理を食べに来ていたのです。 「悔いの無い素晴らしい人生だった!」と言う様な話をされました。
暫くすると、芹の入った炊き込みご飯、芹の和え物、澄まし汁・・・などなどが運ばれて来ました。肉料理も魚料理も無かった様に記憶しています。私は若かったので、「イワシかアジを焼いてくれたら!」と思いましたが、タダですから贅沢は言えませんでした。
(質問 :最後に何を食べたいですか?) 私は、そろそろ鬼籍に入ってもおかしくない歳になりましたが、「最後に何を食べたいですか?」と問われても、今のところ思いつく料理は有りません。 その時になったら、多分、妻の得意な料理を選ぶと思います。
私の故郷・紀州では毎年・どの家でも『秋刀魚の押し寿司』を作ります。 母は、病院で103歳で亡くなったのですが、亡くなる3か月ほど前に『秋刀魚の押し寿司』買って、病院に行き→→二人で食べました。 母は食欲が無くなり、味も分からなくなっていたのか?、少し食べましたが「美味しい」とは言いませんでした。
(質問 :最後の晩餐は誰と食べたいですか?) イエス・キリストには妻と子供が(一人か?二人)いたようですが、最後の晩餐に12人の使徒達を招いた様です。然し、最後の食事は妻と子供達と食べたのでは?と私は勝手に思っています。
芹尽くし料理を御馳走してくれた老人は、裕福で幸せな家庭の主人の様に見えました。 最後の晩餐を、家族や親しい人では無く、何故?私と食べたのでしょうか?
(コメント :榴岡公園) 榴岡(つつじがおか)公園は、楽天イーグルスの本拠地になっている宮城球場の近くの岡の上に有ります。 私が学生時代には、勿論、楽天イーグルスは有りませんでしたが、(田舎の球場と言う感じの)宮城球場は有りました。友人の家が球場の近くに有ったので、何回か行った事が有ります。 私が泊まった料理旅館は、木造の和風建築でした。現在は無くなっています。
料理旅館の近くで、家庭教師の口を見付けて、食堂の一人っ子の娘さんを教えました。家庭教師をすると夕食が出る事になっていました。有り合わせの食材で、チョコチョコっと、賄い料理を作ってくれたのですが、何時も素晴らしく美味しかったです。
【子供の頃の思い出】
私は紀州の山村で育ちました。水田の用水路に芹が沢山自生していて、青野菜の無い頃は芹を澄まし汁や味噌汁にタップリ入れていました。
私が小学校に入る前から、芹を採って来るのは私の役目でした。 用水路の畦道(あぜみち)に時々蛇がいました。姉達は皆、蛇が怖かったのです。 芹を採る頃、蛇はまだ冬眠していましたが、姉達は畦道には近づきませんでした。
紀州では朝食に『茶粥(ちゃがゆ)』を食べるためだったのか?、我が家では『七草粥』は作りませんでした。 なお、我が家では茶粥を『おかいさん』と呼んでいました。
我が家の茶粥には、たいていサツマイモが入っていました。茶粥は直ぐにお腹が空いてしまうので→→腹持ちを良くするために、サツマイモを入れていたのだと思います。
【妻と芹】
妻も紀州の生まれですが、茶粥は作りません。その代わり、毎年必ず、芹がチョッピリ入った七草粥は作ります。 然し、他には芹の入った料理は作りません。
【楽しい学生時代が始まりました!】
月一万円の下宿を見付けました。日当たりの良い、南向きの部屋で、小母さんの料理が美味しかったので四年間過ごしました。
下宿は大学からは遠かったのですが、北回り/南回りの有る循環バスの起点の近くでした。 循環経路には大学だけで無く、仙台駅と仙台市の繁華街(一番町)が含まれていたので、通学だけで無く、家庭教師等のアルバイト、古本を買ったりするのに便利でした。定期券を買うと、循環路線内の全ての停留所で昇降出来ました。 (榴岡公園の近くも通りました。)
家から送って貰ったお金は『12,000円/月』でしたが、奇跡の様な事が幾つも起こったので、貧乏学生でしたが、色々工面してスキーを楽しむなど、楽しい学生時代を送る事は出来ました。 学生時代に起こった奇跡は、次のプログに書きました。
『私の貧乏学生時代』 投稿日=2020年7月11日
9月に入っていますが、連日暑い日が続いています。 それでも、1週間ほど前に、赤トンボが2匹飛んでいました。
先日、窓を開けて上半身だけ外に出して、タバコを吸いながら稲妻の走るのを見ていました。 何故か?ふと、大昔に『芹尽くし料理』を頂いた事を思い出しました。
【芹(せり)尽くし料理の思い出】
仙台の大学に合格して、下宿を探す為に3月の末に仙台に行きました。駅前でタクシーの運転手に、「貧乏なので、安い宿に連れていって下さい」とお願いしたら→→榴岡公園の近くの料理旅館に連れていって→→女将を説得して→→素泊まりを条件に、格安の料金で泊めてくれる事になりました。
当時、仙台にはワンルームマンションは勿論、共同の炊事場の付いた安アパートが無く、学生寮に入るか、下宿に入るかでした。学生寮は何カ所かに有ったので見に行きましたが、ボロボロで、学生運動の拠点になっていたので、論外でした。下宿は沢山有りましたが、私の予算内のは見当たらず、探し回りました。
翌日の夕方・クタクタになって→→料理旅館に帰ると→→仲居さんが、「お客さんと食事をしてくれませんか?」と言うのです。願っても無い事だったので了解しました。電気炬燵を置いた六畳程の和室に通されました。炬燵に高価そう和服を着た老人と女将が座っていて、私が入室すると女将は出て行きました。 そして、老人は身の上話を始めました。
老人は癌の末期で、余命が幾許(いくばく)も無く、病院に最後の外出を許可してもらって→→馴染みの料理旅館に、大好物の芹(せり)料理を食べに来ていたのです。 「悔いの無い素晴らしい人生だった!」と言う様な話をされました。
暫くすると、芹の入った炊き込みご飯、芹の和え物、澄まし汁・・・などなどが運ばれて来ました。肉料理も魚料理も無かった様に記憶しています。私は若かったので、「イワシかアジを焼いてくれたら!」と思いましたが、タダですから贅沢は言えませんでした。
(質問 :最後に何を食べたいですか?) 私は、そろそろ鬼籍に入ってもおかしくない歳になりましたが、「最後に何を食べたいですか?」と問われても、今のところ思いつく料理は有りません。 その時になったら、多分、妻の得意な料理を選ぶと思います。
私の故郷・紀州では毎年・どの家でも『秋刀魚の押し寿司』を作ります。 母は、病院で103歳で亡くなったのですが、亡くなる3か月ほど前に『秋刀魚の押し寿司』買って、病院に行き→→二人で食べました。 母は食欲が無くなり、味も分からなくなっていたのか?、少し食べましたが「美味しい」とは言いませんでした。
(質問 :最後の晩餐は誰と食べたいですか?) イエス・キリストには妻と子供が(一人か?二人)いたようですが、最後の晩餐に12人の使徒達を招いた様です。然し、最後の食事は妻と子供達と食べたのでは?と私は勝手に思っています。
芹尽くし料理を御馳走してくれた老人は、裕福で幸せな家庭の主人の様に見えました。 最後の晩餐を、家族や親しい人では無く、何故?私と食べたのでしょうか?
(コメント :榴岡公園) 榴岡(つつじがおか)公園は、楽天イーグルスの本拠地になっている宮城球場の近くの岡の上に有ります。 私が学生時代には、勿論、楽天イーグルスは有りませんでしたが、(田舎の球場と言う感じの)宮城球場は有りました。友人の家が球場の近くに有ったので、何回か行った事が有ります。 私が泊まった料理旅館は、木造の和風建築でした。現在は無くなっています。
料理旅館の近くで、家庭教師の口を見付けて、食堂の一人っ子の娘さんを教えました。家庭教師をすると夕食が出る事になっていました。有り合わせの食材で、チョコチョコっと、賄い料理を作ってくれたのですが、何時も素晴らしく美味しかったです。
【子供の頃の思い出】
私は紀州の山村で育ちました。水田の用水路に芹が沢山自生していて、青野菜の無い頃は芹を澄まし汁や味噌汁にタップリ入れていました。
私が小学校に入る前から、芹を採って来るのは私の役目でした。 用水路の畦道(あぜみち)に時々蛇がいました。姉達は皆、蛇が怖かったのです。 芹を採る頃、蛇はまだ冬眠していましたが、姉達は畦道には近づきませんでした。
紀州では朝食に『茶粥(ちゃがゆ)』を食べるためだったのか?、我が家では『七草粥』は作りませんでした。 なお、我が家では茶粥を『おかいさん』と呼んでいました。
我が家の茶粥には、たいていサツマイモが入っていました。茶粥は直ぐにお腹が空いてしまうので→→腹持ちを良くするために、サツマイモを入れていたのだと思います。
【妻と芹】
妻も紀州の生まれですが、茶粥は作りません。その代わり、毎年必ず、芹がチョッピリ入った七草粥は作ります。 然し、他には芹の入った料理は作りません。
【楽しい学生時代が始まりました!】
月一万円の下宿を見付けました。日当たりの良い、南向きの部屋で、小母さんの料理が美味しかったので四年間過ごしました。
下宿は大学からは遠かったのですが、北回り/南回りの有る循環バスの起点の近くでした。 循環経路には大学だけで無く、仙台駅と仙台市の繁華街(一番町)が含まれていたので、通学だけで無く、家庭教師等のアルバイト、古本を買ったりするのに便利でした。定期券を買うと、循環路線内の全ての停留所で昇降出来ました。 (榴岡公園の近くも通りました。)
家から送って貰ったお金は『12,000円/月』でしたが、奇跡の様な事が幾つも起こったので、貧乏学生でしたが、色々工面してスキーを楽しむなど、楽しい学生時代を送る事は出来ました。 学生時代に起こった奇跡は、次のプログに書きました。
『私の貧乏学生時代』 投稿日=2020年7月11日