大正3年に出された雑誌「白樺」第五年4月号(岩波書店による復刻版)、総ページ576頁。巻末部には自社の出版物の宣伝を含む広告ページ。勇み足を含め未来を先取りするような前衛的というか先端的な雑誌だった。雑誌「白樺」紙上を舞台に文学・音楽・美術を網羅した一大芸術運動のうねりが感じられる。洛陽堂は赤字を出しながらも7,8年間も必死でその舞台を提供し続けた。
参考までに、正月号が352頁+第4巻総目次16頁+広告、2月号が174頁+広告、3月号は118頁+広告、5月号は192頁と広告、6月号は142頁と広告、7月号は126頁と広告、8月は108頁+広告、9月号190頁と広告、10月号が222頁と広告、11月号は274頁と広告、12月号が138頁+広告、100年後の現在わたしが驚異に感じるのは年間2612頁というやるきと意気込みに溢れたボリューム。
白樺5-11には洛陽堂刊予定の柳宗悦『ヰリアム・ブレーク』(大正3年12月)の広告があり、その宣伝文句に内容と外装において本邦唯一の出版物だと。このあたりの胸の張り方は河本亀之助のもので、この洛陽堂には書籍の装丁なども含めた「もの(書物)」としての出来栄えの良しあしに関心が大きかったことが判る。
雑誌「白樺」は1巻1号~9号、2巻1号~8巻10号まで洛陽堂刊、それ以後は白樺社刊。作家として駆け出しの白樺同人たちが世に出るおぜん立てをし、側面からかれらの面倒を見たのが河本亀之助・東京洛陽堂だった。
巻頭論文は長大な柳宗悦「ウイリアム・ブレーク」
大正3年頃と言えば洛陽堂の編集部で天野藤男が「都会及農村」が発行開始する時期だが、彼の著書『故郷』ではどさくさにまぎれた感じで暗に白樺同人の文学を不良なものとして批判している。赤木桁平「芸術上の理想主義」洛陽堂、大正5年では白樺派の文学を水準は低いと書いている。天野・赤木らは武者小路らの文学を異文化としてとらえ、その新しさにはついていけなかったようだ。それはそうと第一印象として白樺派の作家の中では志賀直哉は文章のうまさが光ってるかな~。
ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)の後時代的受容
奥田駒蔵が明治末期に開業した日本橋のメイゾン鴻乃巣。1910年に帰国後東京日本橋小網町の鎧橋の側に開店した「メイゾン鴻之巣」は日本におけるカフェ=レストランの草分けとして知られる。この店には早くから西洋志向を抱く文人たちが集い、飲食のみならず藝術談義を愉しんだ。パリやベルリンやブダペストなどで花開いたカフェ文化はささやかながら極東の首都にも伝播したようだ。
最後に雑誌『白樺』の紙上広告を見ておこう。
「メイゾン鴻之巣」の常客として、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、谷崎潤一郎、高村光太郎、伊上凡骨、志賀直哉、郡虎彦、芥川龍之介、菊池寛、和辻哲郎、内田魯庵、岩野泡鳴、島村抱月、小山内薫、平出修、大杉栄、荒畑寒村、片山潜の名を挙げている。
青鞜社の「新しい女」尾竹紅吉がこの店に何度か通い、名物の「五色の酒」(一種のカクテル)を嗜んだために世間の袋叩きに遭った事件は遍く知られていよう。1912(明治四十五)年のことである、と(前掲リンクよりの引用)。
岩波書店の「我等」
「伊庭孝氏の誤訳を嗤(わら)ふ」? 同志社中退の伊庭の語学力に疑問符をつけた東京帝大独文卒の三井光弥。
東雲堂書店の「番紅花(サフラン)」。大正3年3月創刊。
これは・・・・・大杉栄・加藤一夫・堺利彦。丸山鶴吉の『50年ところどころ』にも登場する大杉と境。転向組の加藤は洛陽堂からいろいろ本を出している。洛陽堂は雑誌「白樺」から手を引いた直後に加藤の雑誌「科学と文芸」の発行を一時期」(1918年1月号~6月号)引き受けている。科学(機械論)と文芸(生気論)といった対極にあるものを並列したまことに大風呂敷な名称の雑誌だが、当時河本亀之助は慢性腎炎を患い、その兄貴に代わって弟俊三・哲夫たちが経営の重要部分を担うようになっていた時期だと思われるが、私にはプロテスタントとしての河本兄弟の生き方から見てかれらの信仰告白の発露=「神から授かった使命」という意識が(最終的には共に西川光二郎同様、天皇信仰の唱道者へと変節した)民衆派詩人で評論家の加藤一夫(明治学院出の元牧師,無政府主義者)支援に向かわせたとしか思えない。
ちなみに雑誌「科学と文芸」4-2(1918)の科学集萃(再録)には福来友吉「観念不変の連続」、永井潜「主観的客観的痛覚」を、また「実用科学」(再録)には高島平三郎「児童教育の注意」を入れているので、もしかすると・・・・・。
河本の頭の中に損をしてでも良書を出版するという発想があったのかどうか判らないが、プロテスタント関係の出版物を多く手掛けた河本亀之助たちの気分としては自らの社会的使命を果たす方法として、高い志をもった無名の新人(例えば月刊 自刻木版画集「月映」の同人:恩地孝四郎・田中恭吉・藤森静雄)を出版面で支援をするところがあったのではなかろうか。
そんな無茶なと思えるほど超ハイカラというか前衛的な雑誌「白樺」5-4だった。水準の高さに驚かされる。こんな売れもしない高級雑誌の編輯・発行人を永くつとめた河本亀之助はまさに近代文芸史上における陰の功労者であった。
追記)1988年に岩波ブックセンターは雑誌「白樺」の復刻版を出したが、まさに大正期の「岩波書店」ともいえる存在だったのが、東京洛陽堂だったわけだ。洛陽堂は企業として生き残れなかった訳だが、弟の哲夫は大震災直後の大正13年にはそれまで洛陽堂に大きな影響力を及ぼしてきた高島平三郎らを切り捨てる形でキリスト教関係の書物を出版する新生堂を創業している。
参考までに、正月号が352頁+第4巻総目次16頁+広告、2月号が174頁+広告、3月号は118頁+広告、5月号は192頁と広告、6月号は142頁と広告、7月号は126頁と広告、8月は108頁+広告、9月号190頁と広告、10月号が222頁と広告、11月号は274頁と広告、12月号が138頁+広告、100年後の現在わたしが驚異に感じるのは年間2612頁というやるきと意気込みに溢れたボリューム。
白樺5-11には洛陽堂刊予定の柳宗悦『ヰリアム・ブレーク』(大正3年12月)の広告があり、その宣伝文句に内容と外装において本邦唯一の出版物だと。このあたりの胸の張り方は河本亀之助のもので、この洛陽堂には書籍の装丁なども含めた「もの(書物)」としての出来栄えの良しあしに関心が大きかったことが判る。
雑誌「白樺」は1巻1号~9号、2巻1号~8巻10号まで洛陽堂刊、それ以後は白樺社刊。作家として駆け出しの白樺同人たちが世に出るおぜん立てをし、側面からかれらの面倒を見たのが河本亀之助・東京洛陽堂だった。
巻頭論文は長大な柳宗悦「ウイリアム・ブレーク」
大正3年頃と言えば洛陽堂の編集部で天野藤男が「都会及農村」が発行開始する時期だが、彼の著書『故郷』ではどさくさにまぎれた感じで暗に白樺同人の文学を不良なものとして批判している。赤木桁平「芸術上の理想主義」洛陽堂、大正5年では白樺派の文学を水準は低いと書いている。天野・赤木らは武者小路らの文学を異文化としてとらえ、その新しさにはついていけなかったようだ。それはそうと第一印象として白樺派の作家の中では志賀直哉は文章のうまさが光ってるかな~。
ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)の後時代的受容
奥田駒蔵が明治末期に開業した日本橋のメイゾン鴻乃巣。1910年に帰国後東京日本橋小網町の鎧橋の側に開店した「メイゾン鴻之巣」は日本におけるカフェ=レストランの草分けとして知られる。この店には早くから西洋志向を抱く文人たちが集い、飲食のみならず藝術談義を愉しんだ。パリやベルリンやブダペストなどで花開いたカフェ文化はささやかながら極東の首都にも伝播したようだ。
最後に雑誌『白樺』の紙上広告を見ておこう。
「メイゾン鴻之巣」の常客として、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、谷崎潤一郎、高村光太郎、伊上凡骨、志賀直哉、郡虎彦、芥川龍之介、菊池寛、和辻哲郎、内田魯庵、岩野泡鳴、島村抱月、小山内薫、平出修、大杉栄、荒畑寒村、片山潜の名を挙げている。
青鞜社の「新しい女」尾竹紅吉がこの店に何度か通い、名物の「五色の酒」(一種のカクテル)を嗜んだために世間の袋叩きに遭った事件は遍く知られていよう。1912(明治四十五)年のことである、と(前掲リンクよりの引用)。
岩波書店の「我等」
「伊庭孝氏の誤訳を嗤(わら)ふ」? 同志社中退の伊庭の語学力に疑問符をつけた東京帝大独文卒の三井光弥。
東雲堂書店の「番紅花(サフラン)」。大正3年3月創刊。
これは・・・・・大杉栄・加藤一夫・堺利彦。丸山鶴吉の『50年ところどころ』にも登場する大杉と境。転向組の加藤は洛陽堂からいろいろ本を出している。洛陽堂は雑誌「白樺」から手を引いた直後に加藤の雑誌「科学と文芸」の発行を一時期」(1918年1月号~6月号)引き受けている。科学(機械論)と文芸(生気論)といった対極にあるものを並列したまことに大風呂敷な名称の雑誌だが、当時河本亀之助は慢性腎炎を患い、その兄貴に代わって弟俊三・哲夫たちが経営の重要部分を担うようになっていた時期だと思われるが、私にはプロテスタントとしての河本兄弟の生き方から見てかれらの信仰告白の発露=「神から授かった使命」という意識が(最終的には共に西川光二郎同様、天皇信仰の唱道者へと変節した)民衆派詩人で評論家の加藤一夫(明治学院出の元牧師,無政府主義者)支援に向かわせたとしか思えない。
ちなみに雑誌「科学と文芸」4-2(1918)の科学集萃(再録)には福来友吉「観念不変の連続」、永井潜「主観的客観的痛覚」を、また「実用科学」(再録)には高島平三郎「児童教育の注意」を入れているので、もしかすると・・・・・。
河本の頭の中に損をしてでも良書を出版するという発想があったのかどうか判らないが、プロテスタント関係の出版物を多く手掛けた河本亀之助たちの気分としては自らの社会的使命を果たす方法として、高い志をもった無名の新人(例えば月刊 自刻木版画集「月映」の同人:恩地孝四郎・田中恭吉・藤森静雄)を出版面で支援をするところがあったのではなかろうか。
そんな無茶なと思えるほど超ハイカラというか前衛的な雑誌「白樺」5-4だった。水準の高さに驚かされる。こんな売れもしない高級雑誌の編輯・発行人を永くつとめた河本亀之助はまさに近代文芸史上における陰の功労者であった。
追記)1988年に岩波ブックセンターは雑誌「白樺」の復刻版を出したが、まさに大正期の「岩波書店」ともいえる存在だったのが、東京洛陽堂だったわけだ。洛陽堂は企業として生き残れなかった訳だが、弟の哲夫は大震災直後の大正13年にはそれまで洛陽堂に大きな影響力を及ぼしてきた高島平三郎らを切り捨てる形でキリスト教関係の書物を出版する新生堂を創業している。