これが焼き廻しされた原版写真(はがきサイズ,個人蔵)、撮影された部屋(奥座敷)も現存するようだ。
明治―大正期のアルバム2冊のうち一冊を見たが、アルバム内の写真には説明がなく、現在のご当主には撮影年次はもとより直系家族以外は人名などまったく判らないとのことだった。
玄関右側の半ば洋館風白壁の建物は明治30年代の一時期、沼隈郡役所仮庁舎として利用されたもの、内部は8畳間ぐらいで結構狭い。応接間として利用されている。当時の郡役所の吏員数は20名程度だったので当時はかなりのスペースが確保されていたのだろう。話は変わるが、このお宅の場合、塩分で湿気るせいか室内に置かれた古い蔵書が必要以上に退色。
本郷屋山本家は丸山町の北側、駅前北側(壇上)などにかなりの借家をもっていたようだ。
本日の収穫
すこし手の込んだ写真修整(レタッチ)をしておいた。資料性が大きく向上した。
河本英太家の写真帖には「大正.12.清明.俊二」という注記があった。大正12年だとすれば椅子に座った洋装の田頭玉治(明治10年生まれ)は当時47歳、その隣に同じく椅子に座った洋装・ちょび髭の橘高銀三郎(医師、明治9年生まれ、当時48歳)、石井友三郎(1865-1938)は58歳、松永町長時代ってことになる。なお、丸山鶴吉の幼友達本郷屋山本国次郎は最後列、眼鏡の人物。田頭玉治の向って右2人目の老人は丸山茂助(丸山鶴吉の親父)ヵ(要確認)。清明は新暦1923年4月6日。俊二は身内の人名だろう。