『村史』に寛政期の事として東川地蔵堂内で非人風の変死者発見の記事があったが・・・・ 。荒川神社脇の本郷川の堤防上とか今津沖の浜(火の見櫓脇の小さな辻堂:多分地蔵堂自体)には浮浪者が一時滞在できるような小屋(今は町内会集会所)・辻堂風の建物(現在はその場所に町内会の集会所、お堂は規模が縮小され、末広大橋の西詰に移動)があった。
こちらは
いわゆる通称「末広町(内小代の上)」のことだろう。元禄水帖(1700年)では五郎三郎の受地(石橋脇にあった屋舗+農地の面積はΣ5反3畝28歩)。ここは変死者云々という笑い話(要するに変死者が発見された村は経費面でも結構難儀を強いられることが多かったことから、その負担(責任)を近隣の村々が転嫁しあったことに尾鰭がついた形の笑い話)のような話ではなく、西町における簡易水道の取水口(古絵図中の「新井戸」)、千間悪水及び水道(荒川井)との関係で松永分になっていると考えるべきだ。
五郎三郎屋舗にあった場所の現住者(精米業→風呂屋+中学教師)は明治維新後、備中方面から来住。
松永村古図の字「内小代の上」を明治期今津村柳町・三藤町一帯の地籍図に力技ではめ込むとこんな感じになる。
こちらは
いわゆる通称「末広町(内小代の上)」のことだろう。元禄水帖(1700年)では五郎三郎の受地(石橋脇にあった屋舗+農地の面積はΣ5反3畝28歩)。ここは変死者云々という笑い話(要するに変死者が発見された村は経費面でも結構難儀を強いられることが多かったことから、その負担(責任)を近隣の村々が転嫁しあったことに尾鰭がついた形の笑い話)のような話ではなく、西町における簡易水道の取水口(古絵図中の「新井戸」)、千間悪水及び水道(荒川井)との関係で松永分になっていると考えるべきだ。
五郎三郎屋舗にあった場所の現住者(精米業→風呂屋+中学教師)は明治維新後、備中方面から来住。
松永村古図の字「内小代の上」を明治期今津村柳町・三藤町一帯の地籍図に力技ではめ込むとこんな感じになる。