goo blog サービス終了のお知らせ 

どうでもいい四百字 第二中間貯蔵施設

あってもなくてもいいもの。

どうでもいい四百字 2697

2020-05-26 20:49:57 | 時間の無駄
日本モデルなあ。そう自慢したくなる気持ちは分かるが、雑多な現象から特徴となる要素を取り上げてつなぎ合わる抽象化を経て、他で模倣出来るレベルに落とし込めていないのであれば、迂闊に「モデル」と云う言葉は使わない方が良いと思う。日本ミラクル辺りを妥当な候補として推しておきたい。新幹線の輸出にしてもそうだが、偉い人は下の人間の出来の良さに頼り過ぎではないか。下々が良きに計らってくれるのなら楽だし効率的には違いないが、熟練者が抜けると途端に仕事が回らなくなると云うのはよくある話である。また仕事の仕組みが激変した場合、意思決定権を持たない下々は手も足も出なくなる事も珍しくあるまい。匠の技とマニュアル文化が激突したら何となく前者を応援してしまいがちであるが、モデル化が出来ずその結果として文書化も横展開も出来ないと云う習慣は余り宜しくない。対策手順書を英訳するのが、日本モデルを謳う第一歩だと思うのである。

どうでもいい四百字 2696

2020-05-25 20:00:28 | 時間の無駄
自由主義を標榜し実践するのは難しい。この時期に「マスクをしないで新宿歌舞伎町を歩く自由」を強行したら、すぐ正義マンに捕まって罵声を浴びせられるであろう。ただそれは「札束を見せびらかして歌舞伎町を歩いている」様なものであり、速攻でぼったくりバーに引きずり込まれても文句は言えまい。それはただの蛮勇に過ぎない。日本であれば正義マンの不当な迫害から逃れる為に、自分の意志を押し殺しマスクを着用する方を選ぶだろうし、それも処世術だと冷笑するのが普通に思える。米国なら自由を押し通す為に銃で武装するのが常識なのだろうし、事実正義マンの方も襲撃する際には銃を用いている。物騒ではあるが、自由主義の実践と云うのは他の自由主義との力比べの側面も有るので、物理的攻撃が有効なのも否めない。そこら辺はもう少し洗練の余地が有るには違いないが、マスクをして身を屈めながら自由を訴えていても、あまり生産的には思えないのである。

どうでもいい四百字 2695

2020-05-24 20:05:49 | 時間の無駄
物言えば唇寒し初夏の風、である。余計な事に口を挟まずにはいられない性分なので、分かっていてもつい言ってしまう。往々にして「お前が言うな」案件になってしまうのだが、多分生涯治らないと諦めているので、その旨ご理解の上お付き合い下さい。昔々、4人の僧が無言の行を行っていたそうな。夜に1本の蝋燭を囲んでじーっと黙っていると、不意に風が入り蝋燭の火を吹き消した。思わず一人が「あっ消えた」と口に出してしまった。別の一人が「今は無言の行の最中だろ」とたしなめると、もう一人が「そう云うお前も喋っているじゃないか」とせせら笑ったのを見て「行に成功したのは俺だけだな」と最後の一人が自慢しましたとさ、めでたしめでたし。そう云う失敗談を指差して笑っている時点で私達もこのループに嵌り込んでしまうのであるが、物言う以上それは避けられない。他人の非を論う時、私も他人に論われるのだと云う覚悟だけは決めておきたいのである。

どうでもいい四百字 2694

2020-05-23 19:43:25 | 時間の無駄
私はオンライン授業には肯定的である。ただその受けさせ方には工夫が必要に思える。自動車免許更新のビデオ教習等で実感されていると思うが、漫然と見ていても知識は定着しない。ノートに書き留める等、自分なりの理解の落し込みをしなくてはならない。特に漢字とかは「手に覚えさせる」とも云われる様に、繰り返しの書き取りが大切である。そう云う受ける側の能動性をどうやって動機付けするのかは難しいし、無理矢理オンラインで解決するものでもなさそうに思える。強いて言えば素振りの様なものであり、コツコツ練習を積み重ねるものだからである。またその用途であればタブレットが紙と鉛筆に勝るとは言えないのであり、将来的に破って丸めてゴミ箱に放り込める程度にまでタブレットが廉価にならなければ、その優位性は揺らがないと思う。ゴチャっとしたメモ書きと後から自分が読み返す為のノート、その使い分けは多分オンラインでは伝えられないのである。

どうでもいい四百字 2693

2020-05-22 20:03:02 | 時間の無駄
色々な事情が複雑に絡まっているのは理解する。急に盛り上がり始めた小学校の9月入学への移行であるが、同時に卒業の時期を動かす心算は無いらしい。国際標準に合わせると云う建前をいきなり取っ払ってどうするのかと思う。9月入学世代の繰り上がりに合わせて変更する方針なのかも知れないが、毎年オペレーションが変わる現場の混乱を軽視し過ぎであろう。それに夏休みに対する国民の総意が定まっているとも思えない。9月入学を採用している国では、卒業は大抵5月か6月である。それに合わせれば夏休みも当然長くなるし、教育課程も見直さざるを得ないであろう。日付をずらせば済む問題ではないのであり、文科省が3月卒業に拘る気持ちも良く分かる。ただこの機会に見直すべきは入学・卒業と云った形式ではなく、子供達の共同生活の在り方だと思う。ネットでは決して学べない生身の人間の関係構築を教えるのが、イマドキの学校の存在意義に思えるのである。