ぐうたら里山記

兵庫の西の端でただのほんと田舎暮らしをしています。ぐうたらです。のん兵衛です。

鶏飼いの心鶏知らず

2018年01月02日 18時23分16秒 | 鶏の話
鶏飼いの心鶏知らず。

鶏が一羽、鶏小屋から逃げ出した。
戸を半分開けて「こらぁ~待て~~~!」と鶏を追いかけると、
鶏は小屋をぐるぐる回って逃げていく。
すっかりくたくたになり、そのうち半分開けた戸から他の鶏も出ようとしている。
うむ、いかん!
戸を閉めて、もうあんたなんか知らんもんね!
とほったらかしにすると、鶏も不安になって、「いや、捨てないで!」とばかり戸のそばに寄ってくる。
そこでまた戸を半分開けて、今度は別にあんたなんかどうでもいいんだけどね、なんて風に今度はゆっくり歩きながら、戸の中に追い込んでいく。

たいていの鶏はこれで鶏小屋の中に入るのだけど、今日の鶏はとってもしぶとい。
入りそうで入らない、まるで性悪女。
純白の若い可愛いアイドル系の鶏だけど、入ると見せかけて入らない。
そこでまたしても鬼ごっこ。
でもすばしっこい鶏をつかめるわけもなく、とうとう我慢も限度!
もう、あんたなんか知らんもんね!!

鶏の数に比べてあまりに少ない卵の数。
1~2羽減ったからと言って、こちらは少しも困らないもんね。
そうそう、もうあんたなんか知らんもんね!

これから寒い厳しい夜を迎える。
小屋の外には恐ろしい狸やイタチやテンが来るかもしれない。
でももうそれはあんたが選んだこと。
たとえ襲われたからと言って、それはあんたが選んだこと。
寿命だと思ってあきらめることにしよう。

鶏小屋の中の安楽な暮らしか、ほんのわずかの自由か、
そしてほんのわずかな自由を選んだのならそいれはそれであきらめよう。

鶏飼いの心鶏知らず。
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河内神社

2018年01月02日 04時37分13秒 | 田舎暮らし
この集落にも小さな宮が(我が家のすぐ裏側に)あり、4つの集落の氏神になっている。
小さくて大した由緒もないけれども、それでも苔むした社殿と境内はいかにも村の鎮守の神様という趣がある。
でも参拝する人はわずかで、賽銭もたまに何十円、たまに何百円。
何年か前に千円札が入っていた!と言ってすっかり集落の話題になった。
いったい誰が?!
どうやら我が家に来た客が入れてくれたらしい。

ところで賽銭どうなるかというと宮司のものではない。
ここには宮司はいない。祭りの時はよそから来る。
それで賽銭は宮の口座の中に入って祭りや社殿の維持費などに使われる。
高々何十円何百円の金だけど・・・
このように今では村の鎮守の神様は、今ではどこも細々と暮らしている。
でもいつまで暮らせるか・・・
氏子は毎年減っている。
(氏子になるには何の手続きもいらない。住んだだけで知らぬ間に勝手に氏子になっている)
4年に一回当屋が回ってくるけど、この集落ではもうほぼ限界、これからは隣の集落と一緒なってやるほかはないだろう。
そんなにしてまで宮を維持しないといけないのだろうか?
集落から人が減り近くには廃村になったところもある。
もう廃宮も仕方ないのではないだろうか。
でもその一方で村の鎮守の神様や村のお寺への愛着もある。
そんなまんが昔話の世界、こんな世界がこれからも続いてほしいなとも思う。



ところでそんな話ではなく、ここは隣の村のお宮。
こちらの集落のなんとも侘しいお宮とは違って、
ここは小さいけどとっても由緒のある宮で、全国版とは言わないまでもローカルニュースにはよく出てくる。
きっと昔はもっともっと壮大な神社だったのだろう。
昔の祭りの風習が今でも残されていて、それがニュースになるのだ。



これが本殿。
社務所はあるけど宮司は常駐している・・・のかな?
きっとここも無人駅、じゃなくて日頃は無人社なのだろう。



なんでここで「河内」?
どうやらここは大阪の河内の枚岡神社と関係があるらしい。
昔、枚岡神社の近くに住んでたこともあり、河内と聞くと親近感がわいてくる。
枚岡神社は生駒さんのふもと、壮大な神社だった。



その神社の隣の小さな社。
ここは石がご神体らしい。



石というと高砂の生石神社の石の宝殿を思い出す。
ご神体はそれはそれは巨大な石。
その下に写る水にこの巨大な石がまるで浮いているように見える、そんな珍しい神社を思い出す。
高砂というと姫路と加古川に挟まれて窮屈そうに生きている町。
謡曲の「高砂や~~~」で有名な神社とこの「石の宝殿」がなかったら、姫路の郊外のなぁ~んにもない町。
そんなことを思い出させる、そこよりはずっと小さいけど石のご神体。
こんなご神体を見ると、寺は人とともに滅びていくけど神社は自然とともに生き延びるのではないかという気がしてくる。
神社に神殿は必要ない。
自然さえあったら、山や岩や川や海があったら生きていける、そんな気がしてくる。
いまこの神社の裏では高速道路の延長工事が進んでいる。
間もなく今とはまったく違った景色になるだろう。
それでも、そのうち人がいなくなっても神社は生き続けるんだろうなぁ~なんて思えてくる。


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