わたしの一番のお気に入り映画は、「フィーバー・ピッチ」。前に1度見たことがあったのだが、イギリスの新聞に無料で付いてきたDVDを貸してもらって、最近再び見る機会があった。アーセナルファンにとっては、究極のフィール・グッド・ムービーである。ニック・ホーンビーの同名の小説を映画化したもので、コリン・ファース主演。コリン・ファースは、20年以上前に見た「アナザー・カントリー」以来大好きな俳優だが、BBCのテレビ番組「高慢と偏見」で一躍イギリス女性の憧れの的となった。
原作者自らアーセナルファンだけあって、一言一言のセリフが実に共感できる。うちのだんなは、悲観的ファンで、アーセナルの試合ははらはらするので、直視できないタイプなのである。それゆえ、コリン・ファース演じる主人公の気持ちがすごくよくわかるらしい。夫の一番好きなセリフは、1988/89年のリーグ優勝のかかったリバプール対アーセナル戦を家でテレビ観戦しているときの主人公ポールの言葉だそうだ。リーグ優勝のためには、リバプールを2対0で破らないといけないのだが、最初の1得点を決めた直後、歓喜するどころか、「2得点しないといけないところを、1得点してみて、ファンをその気にさせるところは、いかにもアーセナルらしい」と苦虫をつぶしたような顔。(アーセナルはそれから20年経った今も同じである。優勝の夢が消えたと思うと、強豪チームに勝って、再び優勝の夢をかき立てた直後、弱小チームに引き分けしたりする。いつの世でも、アーセナルファンをやっていくのは、楽ではない。)あまりに緊張して見ていられないから、外に出るぞと言いつつ、コートを着て、ドアの前でうろうろしながらも、テレビから目を離せない主人公の姿も、すごくわかるのだそうだ。
わたしは逆に強気の楽観的ファンで、勝とうとも負けようとも、とにかくアーセナルの試合を最後まで1秒も逃さずに見たいというほうなので、主人公よりは、マーク・ストロング演じるその友人のほうが、より共感を覚える。しかし、わたしの好きなセリフは、主人公・ポールの言葉のほうだ。
生徒のサッカーチームのコーチを務めるポールが、PKをはずした教え子を慰める。「この試合で自分がPKをはずして、アーセナルが明日のリバプール戦で2対0で勝つのと、自分がPKを決めて、アーセナルが明日負けるのとどっちがいい?」自分がPKをはずして、アーセナルが明日勝つほうがいいと言う教え子に、「最初の半分は本当になったぞ」と言うと、教え子は元気になる。こういう自分の人生とアーセナルとを密接につなげて考えるところが、すごく共感が沸くのだ。
ストーリーは、1988/89年シーズンと同時進行しており、その合間に回想シーンとして、ポールがどのようにしてアーセナルファンになっていったかが織り込まれている。1989年は96人のリバプールファンが圧死したヒルズバラの惨劇の年であり、この問題もポールとその恋人の視点を通して、映画の中に盛り込まれている。ポールがシーズンチケットを持っているノースバンクは、ハードコア・サポーターの集まるところでもあったそうだ。うちの亭主でも、ここはちょっと怖い場所だったと言う。中産階級の家庭で育った現役教師という主人公の設定は、作者の投影でもあるのかもしれないが、敢えてフットボール・フーリガンのステレオタイプを否定したかったのではないかという気もする。
物語を通して、ポールが直接的・間接的に関わった人たちが知らないうちに、フットボールとアーセナルにのめりこんでいき、最後に、ハイベリー近辺の住人たちを含め、みんながアーセナルのリーグ優勝で一つにまとまる様子が描かれている。
そして、大切に思う人が間にはいったことで、自分とアーセナルとの関係が、変わったことを主人公は意識する。同じくアーセナルのために、自分のキャリアを危うく棒に振りそうになった身としては、このへんのセリフも身にしみる。自分の世界に閉じこもる主人公が、他人に心を開くことによって、徐々に変化していく様を描くという点では、同じニック・ホーンビーの小説を土台にした「アバウト・ア・ボーイ」(ヒュー・グラント主演)に通じるものがある。これも映画だけで原作を読んでいないのだが、「フィーバー・ピッチ」は、確か我が家の本棚のどこかにあったはずだ。新年にはぜひ読んでみたい一冊である。
原作者自らアーセナルファンだけあって、一言一言のセリフが実に共感できる。うちのだんなは、悲観的ファンで、アーセナルの試合ははらはらするので、直視できないタイプなのである。それゆえ、コリン・ファース演じる主人公の気持ちがすごくよくわかるらしい。夫の一番好きなセリフは、1988/89年のリーグ優勝のかかったリバプール対アーセナル戦を家でテレビ観戦しているときの主人公ポールの言葉だそうだ。リーグ優勝のためには、リバプールを2対0で破らないといけないのだが、最初の1得点を決めた直後、歓喜するどころか、「2得点しないといけないところを、1得点してみて、ファンをその気にさせるところは、いかにもアーセナルらしい」と苦虫をつぶしたような顔。(アーセナルはそれから20年経った今も同じである。優勝の夢が消えたと思うと、強豪チームに勝って、再び優勝の夢をかき立てた直後、弱小チームに引き分けしたりする。いつの世でも、アーセナルファンをやっていくのは、楽ではない。)あまりに緊張して見ていられないから、外に出るぞと言いつつ、コートを着て、ドアの前でうろうろしながらも、テレビから目を離せない主人公の姿も、すごくわかるのだそうだ。
わたしは逆に強気の楽観的ファンで、勝とうとも負けようとも、とにかくアーセナルの試合を最後まで1秒も逃さずに見たいというほうなので、主人公よりは、マーク・ストロング演じるその友人のほうが、より共感を覚える。しかし、わたしの好きなセリフは、主人公・ポールの言葉のほうだ。
生徒のサッカーチームのコーチを務めるポールが、PKをはずした教え子を慰める。「この試合で自分がPKをはずして、アーセナルが明日のリバプール戦で2対0で勝つのと、自分がPKを決めて、アーセナルが明日負けるのとどっちがいい?」自分がPKをはずして、アーセナルが明日勝つほうがいいと言う教え子に、「最初の半分は本当になったぞ」と言うと、教え子は元気になる。こういう自分の人生とアーセナルとを密接につなげて考えるところが、すごく共感が沸くのだ。
ストーリーは、1988/89年シーズンと同時進行しており、その合間に回想シーンとして、ポールがどのようにしてアーセナルファンになっていったかが織り込まれている。1989年は96人のリバプールファンが圧死したヒルズバラの惨劇の年であり、この問題もポールとその恋人の視点を通して、映画の中に盛り込まれている。ポールがシーズンチケットを持っているノースバンクは、ハードコア・サポーターの集まるところでもあったそうだ。うちの亭主でも、ここはちょっと怖い場所だったと言う。中産階級の家庭で育った現役教師という主人公の設定は、作者の投影でもあるのかもしれないが、敢えてフットボール・フーリガンのステレオタイプを否定したかったのではないかという気もする。
物語を通して、ポールが直接的・間接的に関わった人たちが知らないうちに、フットボールとアーセナルにのめりこんでいき、最後に、ハイベリー近辺の住人たちを含め、みんながアーセナルのリーグ優勝で一つにまとまる様子が描かれている。
そして、大切に思う人が間にはいったことで、自分とアーセナルとの関係が、変わったことを主人公は意識する。同じくアーセナルのために、自分のキャリアを危うく棒に振りそうになった身としては、このへんのセリフも身にしみる。自分の世界に閉じこもる主人公が、他人に心を開くことによって、徐々に変化していく様を描くという点では、同じニック・ホーンビーの小説を土台にした「アバウト・ア・ボーイ」(ヒュー・グラント主演)に通じるものがある。これも映画だけで原作を読んでいないのだが、「フィーバー・ピッチ」は、確か我が家の本棚のどこかにあったはずだ。新年にはぜひ読んでみたい一冊である。
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