のらねこ一家の旅日記

遠くの旅から近くの散歩で気になった、ちっちゃな事件から大きな事

武田信玄ゆかりの「躑躅ヶ崎館」、(昔の画像)。

2016年10月01日 | 
現在「武田神社」が鎮座するこの地は、今から400年ほど前まで甲斐武田氏の館でした・(人は石垣人は城・ですな♪)。
この地に武田氏の拠点が移されたのは信玄の父である武田信虎の時代で武田氏滅亡までの間執務がとられたそうです。

   
城郭は中世期によく見られる後方に詰め城を要する館で、戦国期のような戦いを優先に考えられた城郭ではありません?。
その為、武田勝頼は織田徳川連合軍を迎え撃つ為に「新府城」の築城を急いだのかも知れませんが・・間に合いませんでした↓。

 
さて、その「兵どもが夢のあと」も現在では有名な観光地♪、今年訪れた時は「大河ブーム」も終わり静かな地になっていました。
武田信玄は何度も大河ドラマに登場する欠かせない人物、またブームを迎える前に再訪したいですね♪(昇仙峡とセットでね♪)。
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甲州街道・要の城「甲府城」、(昔の画像)。

2016年06月27日 | 
甲斐の甲府城、駅からのアクセスに恵まれた城跡です(広島の三原城や福山城クラスの好い条件♪)・それに比べ山城は辛いですからね。
だけどオヤジの登城経験は2回だけ!(それは便が良すぎる結果ですかね?)・だけど{名物信玄餅}よく食べてましたよね?(美味しい♪)。

   
さて甲府城は甲斐の中心部にあるということで甲斐武田氏の「躑躅ヶ崎館」跡に建つと勘違いされる方もいますが違います。
武田氏の館跡は、甲府駅から約3キロ離れた、現在の武田神社付近がそうだったらしい?・(好い雰囲気の神社です♪)。

   
甲府城は武田氏滅亡後に、豊臣政権下の大名達により築城され その後、徳川幕藩体制に組み込まれていったそうな?(聞きかじり)。
その地は徳川幕府でも重要視していたのか、歴代藩主は御三家と同じく徳川一門から選ばれていました?・(徳川綱豊まではね♪)。
その綱豊が六代将軍として江戸へ移り、その代わりに入城したのが一門外の「柳沢吉保」です・(吉保失脚後は幕府直轄地になる)。

   
直轄地を支配したのが甲府勤番を言われた方々・その実態は失脚や懲戒処分を受けた幕臣達の受け皿・切腹するよりましな「山流し」。
なぜ急に甲府城が「ぞんざい」な扱いをうけるようになったかは不明ですが、やはり甲府は甲州街道の要の城郭(その後の歴史が立証)。
幕末、この付近では幕府軍と新政府軍とで激しい戦いがあったそうです・(あの新選組も戦い、近藤勇が刑死したのも近くらしいです?)終り。
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紀伊の古城「湯浅城」、(昔の写真)。

2016年05月19日 | 
今から約25年ほど前、紀伊の国「湯浅城跡」へと出かけました♪(遠~い・遠~い・はるか昔の話です)。
もちろん天守などない時代、写真はたしか宿泊施設だったような記憶がうっすらとある程度です?(曖昧)。

   
実際の城跡は、すぐ近くの小山でしたね(たぶん?)、その当時 山中を徘徊した記憶がありますね♪。
その城がもっとも活躍したのは、楠氏や足利氏の南北朝時代という遥か昔の話です(オヤジの守備外?)。

   
その当時{ぶいぶい}言わせていた守護大名たちも戦国時代には数家のみ?・(ほとんどが下剋上で消えました)。
北畠氏に畠山、そして斯波氏など・そう言うオヤジも家庭での権威は ほぼ滅亡↓(今は悲しく小遣い生活中です?)。
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歌舞伎界ゆかりの城?「甲斐上野城」、(昔の画像)。

2016年04月29日 | 
約5年前、甲斐から駿河へ向かう途中{ふと♪}見上げると天守!(予定を変更しての寄り道だい♪)。
その城は、昔「城めぐり」していたころ リストアップしながらも忘れていた城郭「一条氏館」でした♪。

   
甲斐武田氏の一族「一条氏」の守る城郭、もちろんその当時「天守」はなく現在建つのは模擬天守(たぶん?)。
それよりも気になったのは、この町が「歌舞伎押し」していること?(なぜじゃ~?・こんなさみしい場所が??)。


案内版によると、織田・徳川連合軍に攻められ一条氏が滅んだ際、下総国の国幡谷へと逃れた家臣がいたそうな。
その人物が「堀越十郎家宣」と言い歌舞伎界とゆかりがあるらしい(書いてありました)・疑問解決かな?・たぶん♪。
さてと、疑問も解決し城も見れました♪・この後は「駿河」行きをあきらめ、富士五湖経由で帰投することにしま~す♪。
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堅物 「権六」 最後の城「北の庄城」、(昔の画像)。

2016年03月17日 | 
律儀・生真面目を絵に描いた様な「柴田勝家」が最後の拠り所とした北の庄城を数年前訪れました♪。
訪れた城跡は、発掘調査で現れた石垣などが保存され資料館もありましたが小さな面積の城址公園?。
この城跡で秀吉との戦いに敗れた勝家は妻「お市の方」と最後をとげました↓(華々しく爆死したそうな)。

  
その彼がもう少し融通が利いたならば天下人になれないまでも、それなりの大名になれたかもしれませんね?。
だけど信長の為?に秀吉と戦ったからこそ歴史にその名を残せたのでしょうかね?(個人的な見解です♪)。
その後、「お市の方」の3人の娘たちはそれぞれ天下を左右する人物に成長!(ある意味天下人?)終わり。
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島原の乱の発端となった城「島原城」、(昔の写真)。

2016年03月08日 | 
背後に普賢岳が迫る狭い平野に築かれた平城「島原城」、なんとなく守るのが大変そうな城郭・(裏山が活火山じゃ~ね)。
いかにも平和な時代に築かれた権力の象徴と言うのでしょうかね?(石垣は立派だけど堀は貧弱そう?もちろん総構え無し)。

  
だけどオヤジは、そんな象徴的な美しい城郭と城下町が好きですね♪・なんと言っても城好きオヤジのスタートの地ですから♪。
子供だった頃、その美しい石垣は衝撃的だったのでしょうかね?、今見ると逃げ道無しの袋工事の様な本丸ですが・(好か感じ?)。

  
そんな城郭を築く為に、この地に有馬氏に代わって入府した松倉氏が領民に重税を課したので「島原の乱」の発端となりました。
物語では「天草四郎」率いるキリシタンと幕府との戦いとなっていますが、実際は改易された大名家臣・地侍・農民がほとんど。
おまけに逃げ道無しの「原城跡」に籠城・・籠城とは援軍もしくは補給路を確保しないと無駄な消耗戦です(打って出た方がまし)。

  
某国営放送から得た情報では海外勢力の援軍に期待しての籠城だったらしいけど来ず、逆に彼等は幕府軍に加勢して砲撃したとか?。
その後、籠城軍は全滅!・幕府軍も多くの将兵を失い改易や減俸、戦死した大名も多く出たとか?(これでは、ほぼ相打ちでしょうね)。
さて話が大幅に脱線してしまいましたが、島原半島は温泉もあり好い街です♪、熊本とフェリーで直ぐ近くみなさん訪れましょう(好かよ♪)。
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第二次上田合戦 ・徳川方の本陣「小諸城」、(昔の画像)。

2016年02月24日 | 
現在、放送中の大河ドラマ「真田丸♪」、真田氏が籠る上田城を攻める為に秀忠が本陣をおいたのが「小諸城」です。
当時、小諸城主は「仙石秀久」、真田氏とは犬猿の関係だったらしい?・(当然、激しい戦いになったでしょうね?!)。

   
そんな小諸城、その縄張りは不思議?、城下町の方が城より高い場所にある感じ(当然の様に城内は丸見えなのじゃな?)。
しかし千曲川方向からの眺めは「鉄壁の要塞」なのじゃ!、(これは攻める方向を間違えると大変な事になりますね!?)。
その為か、小諸城が大きな戦の餌食になったと言う話は聞いたことがありません?(一見攻めやすそうな城ですが危険な香り?)。

   
さて話を戻しますが、真田軍の約10倍の兵力を要する徳川勢は、終始 昌幸の策に翻弄され続け小諸の地に一週間近く釘付け。
結局、その後の道中の悪天候もかさなり関ヶ原へ遅参してしまったそうな↓(まさに秀忠の若気の至りと名将昌幸のなせる技・かな?)
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「真田丸」オープニングに登場♪・現存天守「備中松山城」、(昔の画像)。

2016年01月17日 | 
いよいよ大河ドラマ「真田丸」が始まりました♪、(作品は三谷幸喜風の軽い感じの時代劇)・時代の流れなのかな。
ぼんやりとオープニングを見ていると色々な城郭が登場、そんな中に大好きな「備中松山城」が登場!♪(何故?)。
他は、おそらく上田城にCGで盛ったと思える映像(上田は所縁の城)、「備中松山城」は真田と所縁があったかな?。


そんな訳で昨日も再放送を観賞「備中松山城好か~♪」・また登城したか~♪(完全に大河を忘れているオヤジ?)。
過去数回登城していますが、手元にある画像は2枚のみ、あとは実家にあるかも?、(いつも霧が多い城でしたよね)。
登城すると霧の中から登場する城郭♪(毎回感動的でした)、最後に登城してすでに5年以上、絶対にまた訪問したいです!。
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龍虎の戦いの地は真田の里へ♪「松代城」、(昔の画像)。

2016年01月09日 | 
信州松代城を最後に訪れたのは約4年程前の暖かい季節♪(なにかと寒さに弱いオヤジにとっては好い季節でした♪)。
みなさんにとって松代城と言うより「海津城」と言う方が馴染み深いでしょうね♪(そうです川中島の戦い所縁の城です♪)。

   
戦国時代「越後の龍」と言われた上杉謙信と「甲斐の虎」こと武田信玄が雌雄を決する為に何度も戦った地ですよね。
結局は、はっきりとした勝敗はつかずじまい?(二人とも病には勝てませんでしたね享年・信玄52・謙信48・人生50年)。

   
そこへ戦いの約70年後、信州上田城より真田信之が13万石で入封し幕末まで真田家が治めることになります。
もちろん真田信之は幸村こと真田信繁の兄であり、策士と言われた「真田昌幸」の血を受け継いだ武将ですね。

   
父「真田昌幸」は信繁より、その才を認めた「信之」を残したのでしょうか?(昌幸は義理と意地の中で散りました)。
最後は負けると判っていた戦に意地を通した真田昌幸(男ですね♪)・できれば信繁を道連れにしてほしく無かったね↓。
そうそう、景虎・正虎と名乗った謙信を「越後の虎」、龍朱印を使っていた信玄を「甲斐の龍」と言う説もありますが(どっち?)。
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徳川家の鬼門?・信濃国「上田城」、(昔の画像)。

2016年01月07日 | 
年末年始の休日、結局ほとんど外出しないで{ブタ猫}状態?・そんなオヤジが思うこと・「早く大河、始まらないかな~♪」。
今年の大河ドラマは「真田丸♪」(戦国時代なのじゃ~♪)、そんな訳で真田所縁の城郭の一つ「信州上田城」をアップ♪。
戦国期に策士と言われた幸隆、昌幸親子・当時最強と言われた武将ひしめく地を生き抜いた手腕は驚異的なことですね!。

   
オヤジにとっても何故か所縁の{お城?}、これまでに5~6回ほど登城済♪(徳川さんは、あんなに手古摺ったのにね?)。
まさに徳川家の鬼門ともいえる上田城、江戸時代に真田氏が松代へと転封後に「腹いせ」の様に徹底的に破壊されたらしい?。

   
その城址を最後にを訪れたのは4年前、訪れる度に櫓や門が増え立派になっていく城址(どこの城も復元ラッシュで忙しい?)。
上田城址が立派にになるのに反比例するように、上田の街の活気がなくなっているような気がします?(思い過ごしかな?)。

   
最近は木造での復元が流行っている様で材木不足が懸念されているそうです?(やりすぎに注意してくださいね)たのみますよ。
真相はともかく大河ドラマを楽しみに待つオヤジ♪、またいつの日か上田周辺に点在する温泉へ旅したいですね~♪(終わり)。
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