17年前、知り合いの下級生の首を切り、校門に置いたという猟奇殺人の犯人である
当時14歳の少年(今は中年。まぁ若者を自称する古市憲寿や古谷経衡ら
30代の右翼論者にとっては彼はおじさんじゃないかもしれない)が本を出版した。
ニュースサイト「リテラ」で大体の内容は把握できる。
http://lite-ra.com/2015/06/post-1177.html
私は死刑論者に反する際に、酒鬼薔薇(以降、Sと表記)を挙げることがある。
Sのような猟奇殺人者でさえ、更正が可能だったのだ、いわんや……というわけだ。
実際、日本の殺人事件の多くは尊属殺だ。
友達なら絶交すればいい、上司なら辞職すればいい。
だが、身内(特に親)の場合、縁を切ることが非常に難しい。
ストレスがたまりにたまり、最後の一線を越えた時、殺人は起こる。
世間一般では、殺人=死刑、「遺族の気持ちを考えろ!」という意見が多い。
しかし、実態を見るに、遺族=犯人の身内が多いため、その論法はどうかなとも思うし、
逆に「反省すれば許される」かのような擁護派の意見にもちょっと首を傾げたくもなる。
私としては、殺人者というのは、逮捕された瞬間から絶対的弱者になると考えている。
自業自得という言葉で何もかもが許される風潮がそこにはあると感じる。
実際、今でこそ冤罪だと判明した足利事件の容疑者、菅家利和氏に対しても、
当時は、様々な新聞社やテレビ局、雑誌社がいい加減な報道を流し、
なかには菅家氏の性癖にまで踏み込んで異常犯罪者と断定した。
これら報道への謝罪は今でも行われていない。
このような犯罪者には何を言っても、やってもいいのだという風潮は
別のジャンルでもセクシュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、
ヘイト・スピーチ等々、ありとあらゆる差別行為に通じるものである。
ゆえに、私は犯罪者なら殺してもいいのだという意見、
それも被害者の遺族を利用して正当化させる意見には反対している。
そういうわけで、Sに対しても、そこまで厳しい視線を送ってはいなかったのだが、
今回の出版に関しては、正直、幻滅というかSと出版社の商売根性にあきれてしまった。
リテラは絶賛しているが、私としては、この本は、およそ最悪の部類だと思う。
同じタイプの文でも、秋葉原通り魔事件の犯人、加藤智大とは大分違う。
加藤の場合は自分の罪の重大さを認め、責めながらも、なお深い考察を加えていた。
対して、Sの場合は、妙に茶化しているというか、大げさな表現が目立つ。
一言で言えば、自分の犯罪を面白おかしく書いているように感じるのだ。
Sは自分がいかに異常であるかを強調するために、祖母の位牌の前で
性に目覚めたとか被害者の少年に同性愛的な眼差しを向けていたとか、
石原慎太郎の小説に出てきそうな背徳感あふれる人物として自己を演出している。
これは、人間は追い詰められた時、当り散らす、散財するなど、
いろいろな逃げ道があるのだが、その選択肢が非常に限定されてしまった時、
殺人事件は起きると分析した加藤のそれとは対極的なものだ。
読者ウケしやすいというか、マスコミ向けというか。被害者遺族が怒るのも無理はない。
実際、この本は犯罪の抑止には役立ちそうもないし、遺族への償いにもならないだろう。
殺人犯は異常だから人を殺すのだという世間の偏見を助長させるだけのものだ。
この本を皮切りに、また死刑存廃論が、それも悪い方向に論議されるのではないだろうか?
冷静に考えれば、最も重要なのは再犯や模倣犯の防止であり、
そのためには、効果的な更正システムの構築が希求される。
死刑か否かよりも前に、現状の更正システムで十分なのか、
不十分ならばどこを改善すべきか。そういう議論をすべきだと私は思う。
その意味で、Sが事件後、これといった犯罪を犯していないのは
賞賛すべきことだが、彼が真人間に戻ったかと言うと、正直、かなり怪しい。
死刑支持者も犯人の反省を重視しており、存廃論に決着をつけるためにも
この点(更正が上手くいっているのかどうか)に関する本格的な解説書が要される。
あわせて、前述のメディアと犯罪報道の問題点も絡めた、
より大きな問題として扱った一般向けの入門書の出版が望まれる。
そういうのは、岩波などの大きな出版社が仕切るべきだと思うのだが、
まぁ……菅家氏に対しても、基本的にスルーしているわけで、あまり期待できない。
誰か企画してくれないのだろうか?無理か。
当時14歳の少年(今は中年。まぁ若者を自称する古市憲寿や古谷経衡ら
30代の右翼論者にとっては彼はおじさんじゃないかもしれない)が本を出版した。
ニュースサイト「リテラ」で大体の内容は把握できる。
http://lite-ra.com/2015/06/post-1177.html
私は死刑論者に反する際に、酒鬼薔薇(以降、Sと表記)を挙げることがある。
Sのような猟奇殺人者でさえ、更正が可能だったのだ、いわんや……というわけだ。
実際、日本の殺人事件の多くは尊属殺だ。
友達なら絶交すればいい、上司なら辞職すればいい。
だが、身内(特に親)の場合、縁を切ることが非常に難しい。
ストレスがたまりにたまり、最後の一線を越えた時、殺人は起こる。
世間一般では、殺人=死刑、「遺族の気持ちを考えろ!」という意見が多い。
しかし、実態を見るに、遺族=犯人の身内が多いため、その論法はどうかなとも思うし、
逆に「反省すれば許される」かのような擁護派の意見にもちょっと首を傾げたくもなる。
私としては、殺人者というのは、逮捕された瞬間から絶対的弱者になると考えている。
自業自得という言葉で何もかもが許される風潮がそこにはあると感じる。
実際、今でこそ冤罪だと判明した足利事件の容疑者、菅家利和氏に対しても、
当時は、様々な新聞社やテレビ局、雑誌社がいい加減な報道を流し、
なかには菅家氏の性癖にまで踏み込んで異常犯罪者と断定した。
これら報道への謝罪は今でも行われていない。
このような犯罪者には何を言っても、やってもいいのだという風潮は
別のジャンルでもセクシュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、
ヘイト・スピーチ等々、ありとあらゆる差別行為に通じるものである。
ゆえに、私は犯罪者なら殺してもいいのだという意見、
それも被害者の遺族を利用して正当化させる意見には反対している。
そういうわけで、Sに対しても、そこまで厳しい視線を送ってはいなかったのだが、
今回の出版に関しては、正直、幻滅というかSと出版社の商売根性にあきれてしまった。
リテラは絶賛しているが、私としては、この本は、およそ最悪の部類だと思う。
同じタイプの文でも、秋葉原通り魔事件の犯人、加藤智大とは大分違う。
加藤の場合は自分の罪の重大さを認め、責めながらも、なお深い考察を加えていた。
対して、Sの場合は、妙に茶化しているというか、大げさな表現が目立つ。
一言で言えば、自分の犯罪を面白おかしく書いているように感じるのだ。
Sは自分がいかに異常であるかを強調するために、祖母の位牌の前で
性に目覚めたとか被害者の少年に同性愛的な眼差しを向けていたとか、
石原慎太郎の小説に出てきそうな背徳感あふれる人物として自己を演出している。
これは、人間は追い詰められた時、当り散らす、散財するなど、
いろいろな逃げ道があるのだが、その選択肢が非常に限定されてしまった時、
殺人事件は起きると分析した加藤のそれとは対極的なものだ。
読者ウケしやすいというか、マスコミ向けというか。被害者遺族が怒るのも無理はない。
実際、この本は犯罪の抑止には役立ちそうもないし、遺族への償いにもならないだろう。
殺人犯は異常だから人を殺すのだという世間の偏見を助長させるだけのものだ。
この本を皮切りに、また死刑存廃論が、それも悪い方向に論議されるのではないだろうか?
冷静に考えれば、最も重要なのは再犯や模倣犯の防止であり、
そのためには、効果的な更正システムの構築が希求される。
死刑か否かよりも前に、現状の更正システムで十分なのか、
不十分ならばどこを改善すべきか。そういう議論をすべきだと私は思う。
その意味で、Sが事件後、これといった犯罪を犯していないのは
賞賛すべきことだが、彼が真人間に戻ったかと言うと、正直、かなり怪しい。
死刑支持者も犯人の反省を重視しており、存廃論に決着をつけるためにも
この点(更正が上手くいっているのかどうか)に関する本格的な解説書が要される。
あわせて、前述のメディアと犯罪報道の問題点も絡めた、
より大きな問題として扱った一般向けの入門書の出版が望まれる。
そういうのは、岩波などの大きな出版社が仕切るべきだと思うのだが、
まぁ……菅家氏に対しても、基本的にスルーしているわけで、あまり期待できない。
誰か企画してくれないのだろうか?無理か。