元朝日新聞記者である本多勝一氏はマスコミの中立病を以下のように批判している。
「
どちらも「ファッショ」
東京都知事選の最中に書かれたある大新聞の次のコラムを見ていただきたい。
▼東京都知事選の投票を前に、
みのべ、石原両陣営の「ファッショ論争」がエスカレートしてきた。
双方、相手がファッショだと言い張っている。
ファッショはよくない、とだれでも思っている。
だから、ファッショ、ファッショとやり合うわけだろうが、その中身は分からない。
言葉だけが宇宙遊泳のように、跳んだりはねたりしている。
▼たとえば石原さんは「権力を持ったことのない私が、ファッショであるはずがない」
という。これは史実に反する。日本のファシズム運動は、権力を持たなかっただけでなく、
権力に弾圧された。軍や官僚は急進ファシズムを押さえながら、これを利用したり、
これと結託して、ファシズム国家を作り上げるのである。
▼一方のみのべさんは「東京をファッショの手に渡すな」と叫んでいる。
その荒っぽさは、かつて「都庁に赤旗を立てさせるな」といった自民党と変わりがない。
古典的に言えば、ファシズムとは人権や議会制の否定、対外侵略、戦争賛美などを
要素にしている。つまり石原さんがそういう人だ、と主張しているのだろうか。
それとも、現代のファッショに、他のどういう意味を持たせようとしているのだろうか
▼こうしたレッテル張りの競争より、
石原さんには、核についての意見を正直にのべてほしい。
みのべさんからは、赤字都政についての素直な見解を伺いたい。
そのほうが有権者の参考になる。「ファシズム」のむずかしい定義は知らないが、
ふん囲気がファッショ的だと思うときには、特徴がある
▼第一に、世の中、大変だ、大変だ、と絶えず緊張感をあおること。
第二に、内容のとぼしくあいまいな言葉を何度も、何度も、人の耳にふきこむこと。
人間の理性より、情緒に訴えたほうが都合がよく、
手っ取り早いというファシズムの手口がある。そういう選挙戦だとすれば、
これはファッショ的だ。
この筆者は決して悪意を持って書いているのではない。
個人的にも知っている善良な人だ。
しかしこれはいったい、どうしろと言っているのだろう。
美濃部氏と石原氏を完全無欠に同列に論じ、ケンカ両成敗にし、
たして二で割り、まさに「公平」に書いている。
私から見ると、石原氏は申し分なくファッショ的体質だ。
美濃部氏について、もちろん私も不満を抱いている。
この人にはイデオロギーとは別次元で問題があるようだ。
しかし、石原氏と「ファッショ度」を比較するような馬鹿げた考えは持たない。
都民は選択をせまられているのだ。
理想ピッタリの人が立候補していないのであれば、少なくとも「より良い」方を選ぶよりほかはない。
ところがこのコラムは、どっちもどっちとして「公平」に論じてしまう。
無知だったり白紙だったりして見当もつかぬ人が読めば、
二人とも同列の困り者でしかないではないか。
実はこの手口は、この筆者にむろんその気はないのだろうが、
大新聞が政権の反動化に奉仕するとき最も普通に使ってきた方法である。
よく私はいうのだが、日中戦争は日本の中国侵略だ、と今書いても
ちっとも「偏向」していないけれども、30年前の8月15日までは、
こんな記事を書いても決して日の目を見ることなくボツにされた。
なんとか日の目を見させるためには、反対の記事も同列に出して、
せめて「公平」に扱うほかはなかった。こういうことをしていれば、反動政権も安心している。
殺す側と殺される側を「公平」に扱い、
強姦者と強姦される側、加害者と被害者を「公平」に扱う。
良いこと(プラス)と悪いこと(マイナス)をたして二で割り、ゼロにする。
この作業を新聞や放送がつづけているかぎり、反動側は喜んでいるだろう。
(むろんそれは、多様な事実や意見を反映させるべきこととは別次元の問題だ。)
もし反動が5のことを実行しようと思えば、10といえばいい。反・反動の側はゼロという。
そうすると新聞は双方を「公平」にたして二で割り、5と書いてくれるのだ。
青嵐会というファシスト集団の幹事として血判を押すコワイ人・石原氏は、
知事選で敗退したとはいえ、230万というかなりの票をとった。
自民党反動政権は、このタマを今後も必ず利用するであろう。
そして、これだけの票を集めるために大いに力を貸したのが、
右のようなコラムに象徴される大新聞や雑誌の「公平」なキャンペーンである。
こんなことなら、せめて何も書かない方がいい。
となれば、まさにこのような新聞こそが
「これはファッショを助けるものだ」と結論せざるを得なくなる。
~本多勝一「事実の料理法と報道の関係」『事実とは何か』(朝日文庫、1984年)より抜粋~」
ガキの下ネタで例えれば、
中立な報道とは、カレーと大便、どちらを食べるか選ばざるを得ない状況で、
カレー味の大便と大便味のカレー、どちらを食べるかと尋ねるようなものだ。
(しかも、この場合、実際にはカレーはカレーの味、大便は大便の味がするのだ)
上の本多氏の文章は1975年に書かれたものだが、40年経ち、
中立病患者が聖人扱いされるファッショな現代でこそ読まれるべきものであろう。
------------------------------------------------------
安保法制に関する報道では毎日のように
“安倍首相の代弁”を垂れ流し、国民からすっかり呆れられているNHK。
肝心なときに国会中継をせず、安倍首相のヤジを「自席発言」と言い換える……。
これはあからさまな安倍政権へのすり寄りだが、
そうしたNHKへの反発と同様に起こっているのが、読売新聞、産経新聞への批判だ。
読売・産経が保守的なのは以前からだが、最近の報道はいくらなんでも異常過ぎる、と──。
しかも、そうした批判の声は購読者のみならず、識者からも相次いでいる。
その急先鋒が、ご存じ、池上彰氏だ。
http://lite-ra.com/2015/09/post-1480.html
------------------------------------------------------
いい加減にしろと言わざるを得ない。
まず、問題の池上氏の評論を読むと、まさに本多氏が非難する
プラスとマイナスをたして二で割りゼロにする論法を絶賛している。
「朝日の論調に真っ向から反対する人にも話を聞くようになりましたね。
安保法制論議でも賛成・反対両方の意見を載せている。
朝日の報道に物申すというような、有識者による検討会議もできました。
朝日自身でだいぶ自浄作用を働かせたんじゃないかと思いますね。」
安保法案が日米同盟を強化し、アメリカの戦争に参戦するためのものであることは
幾万の抗議者によって何度も何度も繰り返し繰り返し主張されていることだ。
------------------------------------------------------------
安倍政権が「72年見解」の「結論」部分だけを変えて
集団的自衛権の行使を「合憲」とした最大の口実は、「安全保障環境の根本的変容」でした。
しかし、衆院で6月10日、宮本徹議員が
「他国に対する武力攻撃で安保法案のような『存立危機事態』に陥った国が一つでもあるか」
と追及したのに対し、岸田文雄外相は答弁不能になり、
1週間後「実例をあげるのは難しい」と答えました。
参院では、政府があげた集団的自衛権行使の事例が総崩れしました。
まず、イランを想定した「ホルムズ海峡の機雷掃海」です。
7月14日にイランと欧米6カ国との核合意が結ばれ、
イランによる同海峡の機雷封鎖の非現実性がいっそう明らかになったからです。
首相自身、7月27日の参院本会議で
「そもそも特定の国(による封鎖)がホルムズ海峡に
機雷を敷設することを想定しているわけではない」と述べ、
以降「ホルムズ海峡」という地名を挙げられなくなりました。
「日本人の命を守る」ためとして、
集団的自衛権行使容認の最大の口実としてきた「邦人輸送中の米艦防護」の事例も、
中谷元・防衛相が「日本人が乗っていることは絶対条件ではない」と答弁し、
立法事実(法案の必要性)を覆しました。(8月26日、参院安保特)
~中略~
8月11日の安保特で小池氏が暴露した自衛隊統幕文書により、
南スーダンPKOに派兵される部隊が、来年3月から法案に基づき、
「宿営地の共同防衛」や「駆けつけ警護」などを行うことが明らかになりました。
これは、同じPKOに参加する他国部隊の戦闘に「加勢」するもの。
自衛隊が海外で戦闘を行う最も現実的な危険となります。
~中略~
法案審議の中で危険性がクローズアップされているのが、「武器等防護」です。
自衛隊が自分たちの武器・弾薬などを防護するために
武器使用できるとの現在の規定(自衛隊法95条2項)を、
米軍など他国軍を「防護」できるように改定しようというものです。
改定により、地理的な制約はなくなり、
南シナ海を含む地球上のどこでも「防護」が可能となります。
~中略~
さらに、参院で日本共産党の小池晃議員が暴露した自衛隊統幕内部文書では、
「アセット(武器等)防護」に関連して「ROE(交戦規則)の策定」が明記されています。
中谷防衛相は8月21日の参院安保特で、ROE策定を否定しませんでした。
ROEとは、自衛隊がどのような場面でどのように「迎撃」するかという手順を定めたもの。
当然、米軍の基準に合わせることになります。
米軍と自衛隊が「平時」から共同部隊化し、
しかも事実上、米軍の指示で「撃つ」危険があります。
~中略~
「戦争を起こさないための法案だ」。政府は戦争法案についてこう説明します。
しかし、審議すればするほど、米国が起こす戦争に
いつでも、世界中どこでも「切れ目なく」支援する、
究極の対米従属法案としての本質が顕著になってきました。
それをはっきりと示したのが、日本共産党が参院安保特で暴露した二つの内部文書です。
小池晃議員が8月11日に暴露した自衛隊内部文書は、
国会審議開始前の5月下旬に作成されたにもかかわらず、
法案の「8月成立」を前提に統合幕僚監部が部隊の運用計画を策定していたことを明らかにしました。
しかも同文書は、4月27日に合意された新ガイドライン(日米軍事協力の指針)には、
戦争法案が成立しないと実行できない項目が多数含まれているとしています。
さらに、ガイドラインに明記された「同盟調整メカニズム」には
「軍軍間の調整所」を設置することが検討されていることも判明しました。
新ガイドラインは、従来の「日本周辺」といった地理的な制約を外し、
「日米同盟のグローバル(地球規模)な性質」を強調。文字通り、
自衛隊を地球規模の米軍の戦争に組み込むための“戦争マニュアル”です。
法案は、新ガイドラインの全面的な実行法にほかなりません。
さらに、9月2日に仁比聡平議員が明らかにした内部文書は、
自衛隊トップの河野(かわの)克俊統合幕僚長が昨年12月の訪米時に、
米軍幹部に対して戦争法案の今年夏までの成立を表明していたことや、
昨年11月の沖縄県知事選の結果を無視して
「安倍政権は辺野古新基地を強力に推進する」などと対米公約していたことを暴露。
「制服組の大暴走」だとして、大問題になっています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-09-06/2015090603_01_0.html
------------------------------------------------------------
以上のように、ウソの説明と秘密裏の軍拡が同時進行していたのだが、
これらの言説と反対意見をあたかも同価値であるかのように語るのは詐欺である。
大便を食えと言われているその時に、大便を食うメリットを説く事に何の意味があるのか?
朝日が「中立」に近づいたのは、権力側に妥協したにすぎないのである。
ところが、池上はこれを「反対者の声にも耳を傾けるようになった」と大はしゃぎする。
カレーはカレー、大便は大便だ。
カレーと大便、どちらかを食えというその時に、
勝手に質問文を書き直すことは許されない。
ところが、池上はそれをやる。
先日、彼はニュース解説番組で
集団的自衛権のメリットとデメリットを説明していたが、
その場合のメリットが上のホルムズ海峡と米艦防護だったのである。
つまり、政府の言い分を無批判にそのまま紹介したわけだ。
普通、ジャーナリストというのは権力者の言い分をチェックし、批判する役目を負うが、
彼の場合、その作業を行わずにポンと承認の印を押してしまう。
「カレーを食うな、大便を食え」という凄まじい選択を強いられているその時に、
「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、どちらを食べますか」と言いなおす。
後者を自発的に選ぶ人間が増えるように誘導する。
これがジャーナリズムだろうか?
そもそも、紹介された記事にしても池上は末文で次のように応えている。
--------------------------------------------
──現場は取材したにせよ、最終的にほとんど報じなかったというのは、
放送法で課された公正中立どころか、偏向してはいませんか?
いや、偏向っていうか、明らかにおかしいでしょ。おかしいですよ、そりゃ(笑)。
それがテレビに課された「事実を曲げない」の範囲内かどうかといえば、
事実は一応報じてるわけだし、いい悪いではなく、事実を曲げてるという批判は難しいですよね。
--------------------------------------------
池上によれば、国会議事堂前のデモを一瞬しか映さない一方で、
政府側の見解を重点的に知らせるNHKの報道は偏向報道ではないらしい。
しかし、一般人の感覚からすれば、これほど偏った報道はない。
では、なぜ池上はNHKの報道をフォローしているのだろうか?
言うまでもない。元社員だからだろう。
冒頭の本多勝一氏は、朝日新聞社に勤めているちょうどその時に、
同紙のコラム「天声人語」を批判する記事を載せた。
翻って池上はNHKを退社してもなお、古巣をかばっている。
これがメディアが「真の愛国者」「100%リベラリズム」と評価する人間なのである。
(前者は佐藤優、後者はリテラによるもの)
リテラがなぜこのような人物を崇拝するのかは知らないが、
結果的にそれは、集団的自衛権にもメリットがあるという神話を権威化することに他ならない。
池上は政府の見解を無批判にそのままファミリーに向けて
ゴールデンタイムの時間帯に反対論と同価値の意見であるかのように報じる男だ。
こういう人間の言葉が正しいように演出することは自分の首を絞めることに他ならないだろう。
「
どちらも「ファッショ」
東京都知事選の最中に書かれたある大新聞の次のコラムを見ていただきたい。
▼東京都知事選の投票を前に、
みのべ、石原両陣営の「ファッショ論争」がエスカレートしてきた。
双方、相手がファッショだと言い張っている。
ファッショはよくない、とだれでも思っている。
だから、ファッショ、ファッショとやり合うわけだろうが、その中身は分からない。
言葉だけが宇宙遊泳のように、跳んだりはねたりしている。
▼たとえば石原さんは「権力を持ったことのない私が、ファッショであるはずがない」
という。これは史実に反する。日本のファシズム運動は、権力を持たなかっただけでなく、
権力に弾圧された。軍や官僚は急進ファシズムを押さえながら、これを利用したり、
これと結託して、ファシズム国家を作り上げるのである。
▼一方のみのべさんは「東京をファッショの手に渡すな」と叫んでいる。
その荒っぽさは、かつて「都庁に赤旗を立てさせるな」といった自民党と変わりがない。
古典的に言えば、ファシズムとは人権や議会制の否定、対外侵略、戦争賛美などを
要素にしている。つまり石原さんがそういう人だ、と主張しているのだろうか。
それとも、現代のファッショに、他のどういう意味を持たせようとしているのだろうか
▼こうしたレッテル張りの競争より、
石原さんには、核についての意見を正直にのべてほしい。
みのべさんからは、赤字都政についての素直な見解を伺いたい。
そのほうが有権者の参考になる。「ファシズム」のむずかしい定義は知らないが、
ふん囲気がファッショ的だと思うときには、特徴がある
▼第一に、世の中、大変だ、大変だ、と絶えず緊張感をあおること。
第二に、内容のとぼしくあいまいな言葉を何度も、何度も、人の耳にふきこむこと。
人間の理性より、情緒に訴えたほうが都合がよく、
手っ取り早いというファシズムの手口がある。そういう選挙戦だとすれば、
これはファッショ的だ。
この筆者は決して悪意を持って書いているのではない。
個人的にも知っている善良な人だ。
しかしこれはいったい、どうしろと言っているのだろう。
美濃部氏と石原氏を完全無欠に同列に論じ、ケンカ両成敗にし、
たして二で割り、まさに「公平」に書いている。
私から見ると、石原氏は申し分なくファッショ的体質だ。
美濃部氏について、もちろん私も不満を抱いている。
この人にはイデオロギーとは別次元で問題があるようだ。
しかし、石原氏と「ファッショ度」を比較するような馬鹿げた考えは持たない。
都民は選択をせまられているのだ。
理想ピッタリの人が立候補していないのであれば、少なくとも「より良い」方を選ぶよりほかはない。
ところがこのコラムは、どっちもどっちとして「公平」に論じてしまう。
無知だったり白紙だったりして見当もつかぬ人が読めば、
二人とも同列の困り者でしかないではないか。
実はこの手口は、この筆者にむろんその気はないのだろうが、
大新聞が政権の反動化に奉仕するとき最も普通に使ってきた方法である。
よく私はいうのだが、日中戦争は日本の中国侵略だ、と今書いても
ちっとも「偏向」していないけれども、30年前の8月15日までは、
こんな記事を書いても決して日の目を見ることなくボツにされた。
なんとか日の目を見させるためには、反対の記事も同列に出して、
せめて「公平」に扱うほかはなかった。こういうことをしていれば、反動政権も安心している。
殺す側と殺される側を「公平」に扱い、
強姦者と強姦される側、加害者と被害者を「公平」に扱う。
良いこと(プラス)と悪いこと(マイナス)をたして二で割り、ゼロにする。
この作業を新聞や放送がつづけているかぎり、反動側は喜んでいるだろう。
(むろんそれは、多様な事実や意見を反映させるべきこととは別次元の問題だ。)
もし反動が5のことを実行しようと思えば、10といえばいい。反・反動の側はゼロという。
そうすると新聞は双方を「公平」にたして二で割り、5と書いてくれるのだ。
青嵐会というファシスト集団の幹事として血判を押すコワイ人・石原氏は、
知事選で敗退したとはいえ、230万というかなりの票をとった。
自民党反動政権は、このタマを今後も必ず利用するであろう。
そして、これだけの票を集めるために大いに力を貸したのが、
右のようなコラムに象徴される大新聞や雑誌の「公平」なキャンペーンである。
こんなことなら、せめて何も書かない方がいい。
となれば、まさにこのような新聞こそが
「これはファッショを助けるものだ」と結論せざるを得なくなる。
~本多勝一「事実の料理法と報道の関係」『事実とは何か』(朝日文庫、1984年)より抜粋~」
ガキの下ネタで例えれば、
中立な報道とは、カレーと大便、どちらを食べるか選ばざるを得ない状況で、
カレー味の大便と大便味のカレー、どちらを食べるかと尋ねるようなものだ。
(しかも、この場合、実際にはカレーはカレーの味、大便は大便の味がするのだ)
上の本多氏の文章は1975年に書かれたものだが、40年経ち、
中立病患者が聖人扱いされるファッショな現代でこそ読まれるべきものであろう。
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安保法制に関する報道では毎日のように
“安倍首相の代弁”を垂れ流し、国民からすっかり呆れられているNHK。
肝心なときに国会中継をせず、安倍首相のヤジを「自席発言」と言い換える……。
これはあからさまな安倍政権へのすり寄りだが、
そうしたNHKへの反発と同様に起こっているのが、読売新聞、産経新聞への批判だ。
読売・産経が保守的なのは以前からだが、最近の報道はいくらなんでも異常過ぎる、と──。
しかも、そうした批判の声は購読者のみならず、識者からも相次いでいる。
その急先鋒が、ご存じ、池上彰氏だ。
http://lite-ra.com/2015/09/post-1480.html
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いい加減にしろと言わざるを得ない。
まず、問題の池上氏の評論を読むと、まさに本多氏が非難する
プラスとマイナスをたして二で割りゼロにする論法を絶賛している。
「朝日の論調に真っ向から反対する人にも話を聞くようになりましたね。
安保法制論議でも賛成・反対両方の意見を載せている。
朝日の報道に物申すというような、有識者による検討会議もできました。
朝日自身でだいぶ自浄作用を働かせたんじゃないかと思いますね。」
安保法案が日米同盟を強化し、アメリカの戦争に参戦するためのものであることは
幾万の抗議者によって何度も何度も繰り返し繰り返し主張されていることだ。
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安倍政権が「72年見解」の「結論」部分だけを変えて
集団的自衛権の行使を「合憲」とした最大の口実は、「安全保障環境の根本的変容」でした。
しかし、衆院で6月10日、宮本徹議員が
「他国に対する武力攻撃で安保法案のような『存立危機事態』に陥った国が一つでもあるか」
と追及したのに対し、岸田文雄外相は答弁不能になり、
1週間後「実例をあげるのは難しい」と答えました。
参院では、政府があげた集団的自衛権行使の事例が総崩れしました。
まず、イランを想定した「ホルムズ海峡の機雷掃海」です。
7月14日にイランと欧米6カ国との核合意が結ばれ、
イランによる同海峡の機雷封鎖の非現実性がいっそう明らかになったからです。
首相自身、7月27日の参院本会議で
「そもそも特定の国(による封鎖)がホルムズ海峡に
機雷を敷設することを想定しているわけではない」と述べ、
以降「ホルムズ海峡」という地名を挙げられなくなりました。
「日本人の命を守る」ためとして、
集団的自衛権行使容認の最大の口実としてきた「邦人輸送中の米艦防護」の事例も、
中谷元・防衛相が「日本人が乗っていることは絶対条件ではない」と答弁し、
立法事実(法案の必要性)を覆しました。(8月26日、参院安保特)
~中略~
8月11日の安保特で小池氏が暴露した自衛隊統幕文書により、
南スーダンPKOに派兵される部隊が、来年3月から法案に基づき、
「宿営地の共同防衛」や「駆けつけ警護」などを行うことが明らかになりました。
これは、同じPKOに参加する他国部隊の戦闘に「加勢」するもの。
自衛隊が海外で戦闘を行う最も現実的な危険となります。
~中略~
法案審議の中で危険性がクローズアップされているのが、「武器等防護」です。
自衛隊が自分たちの武器・弾薬などを防護するために
武器使用できるとの現在の規定(自衛隊法95条2項)を、
米軍など他国軍を「防護」できるように改定しようというものです。
改定により、地理的な制約はなくなり、
南シナ海を含む地球上のどこでも「防護」が可能となります。
~中略~
さらに、参院で日本共産党の小池晃議員が暴露した自衛隊統幕内部文書では、
「アセット(武器等)防護」に関連して「ROE(交戦規則)の策定」が明記されています。
中谷防衛相は8月21日の参院安保特で、ROE策定を否定しませんでした。
ROEとは、自衛隊がどのような場面でどのように「迎撃」するかという手順を定めたもの。
当然、米軍の基準に合わせることになります。
米軍と自衛隊が「平時」から共同部隊化し、
しかも事実上、米軍の指示で「撃つ」危険があります。
~中略~
「戦争を起こさないための法案だ」。政府は戦争法案についてこう説明します。
しかし、審議すればするほど、米国が起こす戦争に
いつでも、世界中どこでも「切れ目なく」支援する、
究極の対米従属法案としての本質が顕著になってきました。
それをはっきりと示したのが、日本共産党が参院安保特で暴露した二つの内部文書です。
小池晃議員が8月11日に暴露した自衛隊内部文書は、
国会審議開始前の5月下旬に作成されたにもかかわらず、
法案の「8月成立」を前提に統合幕僚監部が部隊の運用計画を策定していたことを明らかにしました。
しかも同文書は、4月27日に合意された新ガイドライン(日米軍事協力の指針)には、
戦争法案が成立しないと実行できない項目が多数含まれているとしています。
さらに、ガイドラインに明記された「同盟調整メカニズム」には
「軍軍間の調整所」を設置することが検討されていることも判明しました。
新ガイドラインは、従来の「日本周辺」といった地理的な制約を外し、
「日米同盟のグローバル(地球規模)な性質」を強調。文字通り、
自衛隊を地球規模の米軍の戦争に組み込むための“戦争マニュアル”です。
法案は、新ガイドラインの全面的な実行法にほかなりません。
さらに、9月2日に仁比聡平議員が明らかにした内部文書は、
自衛隊トップの河野(かわの)克俊統合幕僚長が昨年12月の訪米時に、
米軍幹部に対して戦争法案の今年夏までの成立を表明していたことや、
昨年11月の沖縄県知事選の結果を無視して
「安倍政権は辺野古新基地を強力に推進する」などと対米公約していたことを暴露。
「制服組の大暴走」だとして、大問題になっています。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-09-06/2015090603_01_0.html
------------------------------------------------------------
以上のように、ウソの説明と秘密裏の軍拡が同時進行していたのだが、
これらの言説と反対意見をあたかも同価値であるかのように語るのは詐欺である。
大便を食えと言われているその時に、大便を食うメリットを説く事に何の意味があるのか?
朝日が「中立」に近づいたのは、権力側に妥協したにすぎないのである。
ところが、池上はこれを「反対者の声にも耳を傾けるようになった」と大はしゃぎする。
カレーはカレー、大便は大便だ。
カレーと大便、どちらかを食えというその時に、
勝手に質問文を書き直すことは許されない。
ところが、池上はそれをやる。
先日、彼はニュース解説番組で
集団的自衛権のメリットとデメリットを説明していたが、
その場合のメリットが上のホルムズ海峡と米艦防護だったのである。
つまり、政府の言い分を無批判にそのまま紹介したわけだ。
普通、ジャーナリストというのは権力者の言い分をチェックし、批判する役目を負うが、
彼の場合、その作業を行わずにポンと承認の印を押してしまう。
「カレーを食うな、大便を食え」という凄まじい選択を強いられているその時に、
「うんこ味のカレーとカレー味のうんこ、どちらを食べますか」と言いなおす。
後者を自発的に選ぶ人間が増えるように誘導する。
これがジャーナリズムだろうか?
そもそも、紹介された記事にしても池上は末文で次のように応えている。
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──現場は取材したにせよ、最終的にほとんど報じなかったというのは、
放送法で課された公正中立どころか、偏向してはいませんか?
いや、偏向っていうか、明らかにおかしいでしょ。おかしいですよ、そりゃ(笑)。
それがテレビに課された「事実を曲げない」の範囲内かどうかといえば、
事実は一応報じてるわけだし、いい悪いではなく、事実を曲げてるという批判は難しいですよね。
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池上によれば、国会議事堂前のデモを一瞬しか映さない一方で、
政府側の見解を重点的に知らせるNHKの報道は偏向報道ではないらしい。
しかし、一般人の感覚からすれば、これほど偏った報道はない。
では、なぜ池上はNHKの報道をフォローしているのだろうか?
言うまでもない。元社員だからだろう。
冒頭の本多勝一氏は、朝日新聞社に勤めているちょうどその時に、
同紙のコラム「天声人語」を批判する記事を載せた。
翻って池上はNHKを退社してもなお、古巣をかばっている。
これがメディアが「真の愛国者」「100%リベラリズム」と評価する人間なのである。
(前者は佐藤優、後者はリテラによるもの)
リテラがなぜこのような人物を崇拝するのかは知らないが、
結果的にそれは、集団的自衛権にもメリットがあるという神話を権威化することに他ならない。
池上は政府の見解を無批判にそのままファミリーに向けて
ゴールデンタイムの時間帯に反対論と同価値の意見であるかのように報じる男だ。
こういう人間の言葉が正しいように演出することは自分の首を絞めることに他ならないだろう。