(京都市上京区西洞院通)
室町時代の末期、
京都宇治で起こった争乱に、長野工藤一族の細野藤敦が、
15代将軍足利義昭の命令で出兵し、
細川藤孝と協力して乱を鎮圧しています。
室町幕府がほとんど機能していない状況下で
幕府の公式な記録が無いながらも、
この事件は細川家の日記に記録されています。
この事件の当事者が細川藤孝、
13代将軍足利義輝の側近でしたが、
義輝の死後は15代将軍足利義昭の擁立に尽力し、
義昭が最も信頼する側近として活躍します。
将軍に就任したとは言え、権力基盤の弱い義昭を助けるため、
明智光秀を通じて尾張国の織田信長に助力を求め、
信長の上洛(1568年)を実現させたのも藤孝です。
これとほぼ同じ時期に、
近畿地方に勢力を持つ三好衆と交戦し、
山城国勝竜寺城を奪還、以後細川氏の居城としています。
1571年10月、織田信長の近江出陣の隙を突き、
三好衆が山城国に乱入します。
これに慌てた将軍義昭は、藤孝に鎮圧を命じます。
「敵の兵力は4千人余り、私と兄(三淵藤英)の兵、
それに近江や洛中の兵をかき集めても、とても及びませんが」
「ならば、幕府奉公衆を出動させよ」
幕府奉公衆とは、室町幕府将軍直属の武装組織で、
有力御家人や国人領主などから兵力を提供させ、
京に常駐させていました。
今回のような反乱に対しては、代々の将軍の命令により、
奉公衆が鎮圧に出動していました。
が、将軍の権威もほとんど通じなくなったご時勢に
幕府奉公衆など動かせるわけもなく、
藤孝は、近隣諸国の国人領主に援軍を要請したのです。
敵の軍勢は宇治住山(すみやま:現宇治市炭山)の山間部に籠り、
藤孝が集めた幕府軍3千と対峙しているところに
援軍として到着したのが細野藤敦の率いる500の兵、
「伊勢國長野ノ城主長野宮内大輔植藤へ
将軍ヨリ加勢ノ事命セラレシニ
植藤病気ニ付一族細野壹岐守藤敦ヲ大将トシテ
五百餘ニテ馳加ハル」
と「細川家譜」に記されています。
これが正しいなら、藤孝の提案により、
将軍に忠実な、幕府奉公衆の家柄の長野家当主あてに
援軍の要請をしたことになりますが、
実は長野家14代当主稙藤は、ずっと以前の1562年に
死んでおり(北畠側に暗殺されたとも)、
1569年には信長の弟信包が長野家17代当主となって、
長野工藤一族は織田の指揮下に入っていました。
そのような情報も伝わっていなかったとは驚きますが、
それほどまでに幕府の機能が停止していたのかもしれません。
この時、細野壱岐守藤敦は、
実質的に長野工藤一族を統率する立場にありましたが、
何故に主君(織田)以外の命令に従ったのでしょうか。
幕府奉公衆としての義務を遂行しようとしたのか、
その胸中はよくわかりません。
藤敦の到着により、幕府軍は山に籠る敵への攻撃を開始、
麓から山に火を着け、山腹の木々をすべて焼いてしまいました。
敵兵は熱と煙に耐えられず、山頂から逃げ下りてきますが
木々が焼け落ちてしまったので、
身を隠すものもなく、麓で待ち構える幕府軍に
次から次に討たれてしまいました。
それでも、敵の大将三好兵庫頭の家臣で
宇野孫七郎という者が勇猛に藤孝の陣に突入してきたので、
藤孝が槍で応戦するも、敵に槍を折られて防戦一方に。
藤敦が横から槍を突いて藤孝を助けると、
藤敦の家臣真柄伊右衛門という者が自分の槍を藤孝に差出し、
その槍で藤孝が宇野を倒しました。
三好衆は300人ほどが幕府軍に討たれ、
残りは摂津国へ逃げていきました。
その夜、藤孝は細野氏の陣を訪問し、
昼間の助けてもらったことへの礼を述べ、
藤敦には大和国の刀工包永(手掻包永)の脇差を贈り、
真柄には金子(金一封)を与えました。
麓から火を着けるというのも藤敦の提案だったようですが、
焼け落ちた木々がいつまでも燃えていて、
味方が斜面を駆け上がることができないので、
藤孝が手元にあった分厚い碁盤を両手で振り回し、
燃える炎を吹き飛ばしたのだそうです。
礼を言われた藤敦が
「あなたの怪力にはとても驚きました」
と藤孝に言ったそうです。
その後、
藤孝は将軍義昭に見切りを付け、
1573年、信長に恭順しています。
兄の三淵藤英は義昭に従ったので、
二人からは裏切り者と呼ばれました。
藤孝は、信長、秀吉に仕え
江戸時代には肥後熊本の大名となりました。
室町幕府の旧臣でありながら、
徳川の大名にまで出世した、珍しい例です。
余談ですが、
藤孝の息子忠興の妻が、明智光秀の娘で、
戦国時代の悲劇の女性として知られる細川ガラシャです。
ふたりは父の勝竜寺城で2年ほど暮らしています。
また、明智光秀が敗走の途中に勝竜寺城に宿泊しており、
「光秀の最後の夜」の宿所として知られています。
この勝竜寺城は長岡京市にあります。
もうひとつの舞台である宇治市炭山は、
現在は陶芸の里として観光名所になっており、
このエピソードの舞台2か所を巡ってみるのも
楽しそうですね。
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『細川家譜』より、
元亀二年辛未十月三好兵庫頭長勝・同式部入道為三・津田新太夫光房ヲ将トシ其勢四千餘ニテ江州動亂ノ隙ヲ伺ヒ攻上リ城州佳山ニ出張ス
依之将軍義昭ヨリ藤孝并三淵・二階堂等大津・松本・洛中ノ諸浪人舊臣等ヲカリ催シ三千餘ニテ打向フ
又伊勢國長野ノ城主長野宮内大輔植藤へ将軍ヨリ加勢ノ事命セラレシニ植藤病気ニ付一族細野壹岐守藤敦ヲ大将トシテ五百餘ニテ馳加ハル
藤孝ハ佳山邊焼キ拂ヒ廿日早天ヨリ合戦アリ 互ニ苦戦シ二階堂駿河守討死三淵モ深入シテ危カリシニ藤孝是ヲ助ケ横合ニカゝツテ突崩シ敵ヲ討取ル
藤孝ハ三上兵庫頭カ勇士宇野孫七郎ト鑓ニテセリ合ケルカ宇野透間ナク突カゝリ藤孝カ鑓ヲ打折シユヘ刀二テ働キケルヲ畑野壹野守小高キ所ヨリ見テ押隔テ横鑓ヲ入レ壹野守家老真柄伊右衛門持タル鑓ヲ藤孝へ與ヘシカハ藤孝其鑓ヲオツトリ無二無三ニ突カゝリテ宇野ヲ突フセ首ヲ取ル
真柄カ差物ハ一間半ノ棒ヲ漆ニテヌリ金ノ麾ヲ附ケルニ其時棒ヲ抜鞘ヲハツシタレハ大身ノ鑓ナリ其鑓ニテ相働ク
此時石山ノ世尊院宥山ト云僧モ働アリ 三淵ト藤孝ハ鬨ヲアケ攻カゝレハ敵悉ク崩レ津田ハ討レ三好ハ攝州サシテ敗走ス 藤孝并三淵ノ手ニ討取處ノ首三百餘ナリ
其夜藤孝細野カ方へ往テ今 日ノ事ヲ謝シ包永ノ脇差ヲ贈リ真柄ニハ金子ヲ遣セシナリ
注1)長野宮内大輔植藤は「稙藤(たねふじ)」が正しい。
注2)細野壹岐守藤敦は「壱岐守(いきのかみ)」が正しい。
長野教高、石榑御厨の返還命令を無視する
長野藤直、桑名港を占領する
>あとがき
今年の3月から唐突に連載を始めました「長野工藤氏シリーズ」です。
突然に書き始めたものではなく、
このブログの前身である「美里町の探検日記」に書いていたものを
史料を調べ直すなどして、復刻改訂したものです。
10編ほどの短編集として小さな冊子にまとめ、
「美里ふるさと資料館」において
地元のガイドさんたちのテキストとして活用いただいています。
その10編のうちの7編をここでも公開させていただくことにし、
今回が最終回になります。
まだまだご紹介したいエピソードは多々あるのですが、
ここで一旦は区切りとさせていただきます。
大河ドラマに登場した工藤祐経は、長野工藤氏の祖先