みなさん、メリークリスマス!
ミタス一級建築士事務所がスタートして10周年を迎えています。
私のこだわりとポリシーで住宅の設計という仕事をさせて頂きながら、
今の世の中で、スタッフを抱えこうして10年間以上続かせて頂いたことを振り返ると、
ただただ感謝しかありません。
不思議なことに、私とスタッフがこなせるだけの量の仕事依頼を
コンスタントに皆さんから直接頂いてきています。
土日も祝日も関係なく、年中無休で私は仕事をさせて頂いていますし
仕事先で仮眠して自宅へ帰らないことも珍しくないのですが、
海外視察や事務所協会のいくつかのボランティアの仕事も
かなり頻繁に行っているインプットのための講習会や研修参加も
スタッフが支えてくれているお陰で、私の時間が取れています。
今日はクリスマスです。クリスチャンでもないし、神社もお寺も行く私ですが
クリスマスや正月も、おめでたい気分になります。
その勢いで、本日のブログを番外編で書くことにしました。
クリスマスにふさわしい、思わず涙してしまう
そして素敵なストーリーを紹介したメールを頂いたからです。
クリスマスという理由をつけて、番外編ということでアップします。
送ってくれた人も…私の無断コピペ、許してくれると思います…(^^)ゞ
==============
■シークレットサンタ
アメリカでクリスマスになると、
貧しく困っている人々に現金を
プレゼントする男性がいました。
彼はいつしか
「シークレットサンタ」
と呼ばれるようになりました。
1971年11月、23歳のラリー・スチュワートは
会社が倒産し路頭に迷っていました。
あまりの空腹に耐えきれず、
ついレストランに入って、
お金も無いのに、取り憑かれたように
注文してしまいました。
ラリーは、請求書を出されようやく我に返り、
お金を持っていないことに気づきました。
そして、なんとかその場を取り繕おうと
ポケットの中を探すフリをしながらも、
警察に突き出されても仕方が無いと
覚悟を決めたその時、
一人の男性店員が、ラリーの横で
しゃがみこみました。
そして、20ドル札(約2000円)を手にして
立ち上がると
『これ、落ちてましたよ。』
と言ってラリーに手渡しました。
お陰で、ラリーは、会計を済ませることが
できました。
1972年、運良く拾った20ドルの残りを旅費にあてて
ラリーは、カンザスシティという街に移り住みました。
そして、ラリーは、警備関係の会社を起こして
懸命に働きました。
その後、会社もなんとか軌道に乗り、
結婚し子供も生まれたラリーは、
幸せな生活を手に入れたかに見えました。
しかし、1977年12月
不況のあおりで会社が倒産し、
再び、ラリーは、その日の食事代にも困るほど
追いつめられてしまいました。
貧しさで追い詰められたでラリーは、
銃を手に銀行に入り、強盗を働きそう
になりました。
しかし、銀行でたまたま20ドル札を見た時、
ふと我に返り、以前のレストランでの事を
思い出しました。
そして、銀行強盗を思いとどまり、
もう一度、ゼロからのスタートを
心に決めたのです。
改心したラリーは1978年、
妻の兄からの援助を受け、
セールスマンとして懸命に働き始めました。
しかし、そんな彼に、またしても試練が
降りかかります。
1979年12月、会社の経営が思わしくない
ということで、ラリーは解雇されてしまったのです。
ラリーが、もう助けてもらうあてがないと
途方に暮れていた時のこと、
ふと目についた売店に立寄り、
ポップコーンを注文しました。
店員の女性は暗い表情で、
違う商品とおつりを
ラリーに渡してしまいました。
ラリーは彼女が困っているのだと思い、
おつりの中から20ドル札をプレゼント
しました。
彼女は受け取れないと言いましたが、
ラリーは
『クリスマスプレゼントだよ』
と言って手渡しました。
そう、この日はクリスマスだったのです。
女性は嬉しそうに、ラリーにお礼を言いました。
その笑顔がラリーを明るくしました。
そして、その時、ラリーの頭に、
突拍子も無いあるアイデアが浮びました。
そして、居ても立っても居られなくなり、
そのアイデアを実行し始めたのです。
そのままラリーは銀行に行くと、
なけなしの貯金を引き出し、
白いオーバーオールに、赤い服とベレー帽
という姿で町に出かけました。
そして困っていそうな人や、貧しい人に
20ドル札をクリスマスプレゼントとして
配り始めたのです。
これが、シークレットサンタが誕生した
瞬間でした。
20ドルは大金ではありませんが、
困っている人々にとっては大きな助けとなり、
喜んで 受け取ってもらえました。
家に戻ると、妻から銀行にお金が残っていなかった、
と言われました。
ラリーは、怒って文句を言われるのを覚悟で
『落としてしまった』と答えました。
すると妻は怒るどころか、
『仕方がないわね、でもあなたは幸せそうね。』
と微笑むだけで文句を言いませんでした。
翌年の1980年、ラリーは、
友人と長距離電話の会社を設立し、
懸命に働きました。
そして、その年のクリスマスにも
道に立って人々に現金をプレゼントする
活動を続けました。
そしてその金額は少しずつ多くなっていきました。
不思議なことにシークレットサンタとなって
施しをすればするほど会社の業績が上がり、
長年の切り詰めた生活から抜け出し
家族のために家や新しい車を買えるまでになりました。
ラリーの妻も、町中でシークレットサンタの
噂を耳にするようになりました。
彼は家族にも言っていなかったのです。
ラリーは、それからも一年も休むことなく
シークレットサンタの活動を続けました。
そして、9年目の1987年12月、
ついに妻にシークレットサンタがラリーで
あることがわかってしまいました。
すまないと謝るラリーに、妻は
「素敵なことじゃない。
これからはもっと節約して
たくさんの人を助けられるように協力するわ」
と答えました。
以後、家族もラリーの活動を知って
陰から支えることになりました。
1995年、地元ではすっかり有名になっていた
ラリーに新聞社から取材の依頼が来ました。
ラリーは、匿名を条件に、この新聞社の
取材に応じることにしました。
当時、取材をしたカンザスシティ・スター紙の
マクガイヤー記者によると、
『ラリーも家族も一切表舞台に出ようとしなかった』
ということです。
しかし、新聞で報道されてからというもの、
シークレットサンタの正体への関心はさらに
高まりました。
一方、ラリーは多くの人に感謝されるにつれて、
ある人物に会いたいという思いが募っていました。
そして、1999年12月、
ラリーは、ミシシッピー州のトゥペロという
小さな町のある男性宅を訪れました。
その男性こそが、シークレットサンタの生みの親
だったのです。
28年前の1971年、一文無しだったラリーが
落ちていた20ドルに救われた日のこと。
本当の落とし主が現れたら困るので
逃げるように店を後にしたラリーは、
我に返って真実に気づきました。
20ドルは、落ちていたものとして
男性店員が彼にくれたものだったことに。
男性店員の名はテッド・ホーンといい、
ラリーが訪問して、事情を説明すると
当時のことを思い出しました。
ラリーは彼がしてくれたことを
いつか誰かにしようと思ったのだ
と話しました。
そして、テッドの20ドルがなかったら
刑務所に入っていただろうと。
自分の人生を正しい方向に導いてくれたお礼にと、
ラリーはテッドに1万ドル(約120万円)
の入った封筒を手渡しました。
受け取れないというテッドに、ラリーは、
『自分が今あるのはあなたのおかげだ』
と言って引きませんでした。
当時テッドは、警察に突き出すのではなく、
自らの過ちに気づき、他人への優しさを
知って欲しいと思って20ドルを差し出した
のでした。
それをずっと覚えていて、サンタ活動を続けた
ことには頭が下がるとテッドは言います。
テッドは、ラリーから渡された1万ドルを、
近所の病気で困っている人たちや
生活に苦しい人たちのために使いました。
テッドにも、人を思いやる気持ちは健在だったのです。
その後、ラリーのサンタ活動は全米に広がりました。
2001年には、世界貿易センタービル爆破事件
のあったニューヨークに行き、
ホームレスや職を失った人を中心に2万5千ドルを
配りました。
2005年には、ハリケーンで壊滅的な被害を
被ったミシシッピ州を中心に7万5千ドルを配り、
27年間で配った総額は150万ドル(約1億5千万円)
になりました。
しかし、2006年、シークレットサンタが
ついにTVカメラの前に現れ、
正体を明かしました。
彼はその年の4月、
食道ガンのため治療しなければ、
1ヶ月生きられないと宣告されたのでした。
正体を明かしたのは、自らの命の宣告を受け、
『身近な人への思いやりを広げて欲しい』
というメッセージを送りたかったからだろうと、
マクガイヤー記者は言います。
そして、その反響は絶大でした。
2日間で7000通もの手紙やメールが
彼のもとに届きました。
大半は自分もシークレットサンタになりたい
というものでした。
その年のクリスマスも彼は病気を押して
サンタの活動を行いました。
そのお陰で、多くの人が、
笑顔でクリスマスを迎える事ができました。
2007年1月12日、
ラリーは58歳で静かにこの世を去りました。
生前、ラリーは、シークレットサンタ協会を設立
しました。
会員資格は、少なくとも1回、
他人への親切な行為を行うこと。
今でも世界中から登録の申し込みが後を絶たない
ということです。 ■
--------------------------------
--------------------------------
私もささやかながら、プラン・ジャパンで20数年間
フォスターペアレントを続けていています。
現在は3人目のフォスターチャイルドにめぐり合っています。
このフォスターペアレントで英語の手紙を日本語に訳す
ボランテャイアの仕事は、
期間を守れなくて迷惑を掛けないよう辞めてしまいましたが
ユニセフや国境なき医師団にも、
やはり20年間以上、毎月僅かですが寄付させて頂いています。
いずれも自動引き落としなので、普段意識することはありません。
この20数年間寄付した金額を、それまで行わなくても良いから
今まとめて寄付しろと言われても、チリもつもれば山となるで
とても無理な金額になっていました。
恥ずかしい話ですが、私が独立した初年度は大赤字となり
国民年金の半額免除申請を行った期間がありました。
それでも、国民年金より支払い金額の多い上記の寄付は続けさせて頂きました。
そのとき中断していれば、再開できていたかどうかは自信はありません。
継続するには難しい状態になることもありますが、続けていて良かったと思いますし、
何よりもまず第一歩を踏み出していて良かったと思います。
今回、この頂いたメールを読んで、私にあるインスピレーションが湧きました。
10周年という区切りに、ミタス一級建築士事務所として
もうひとつ私は実行しようと思ったことがあります。
ミタス一級建築士事務所としての取り組みになりますので
やる以上は、ずっと継続していけるように
どのようにするかをしっかり考えて正式に宣言しようと思います。
最後にもう一度、「メリークリスマス!」
……………………………………………………………………………
こんにちは、ミタス一級建築士事務所の清水です。
住まいに興味のある方はもちろん、無い方にも
何となく役立つか、楽しめる内容になることを願いながら書いています。
ご意見があれば、お気軽にどうぞ!
一級建築士事務所 横浜
mitasu1のツイッターを読む
All contentsCopyright R 2010 mitasu
ミタス一級建築士事務所がスタートして10周年を迎えています。
私のこだわりとポリシーで住宅の設計という仕事をさせて頂きながら、
今の世の中で、スタッフを抱えこうして10年間以上続かせて頂いたことを振り返ると、
ただただ感謝しかありません。
不思議なことに、私とスタッフがこなせるだけの量の仕事依頼を
コンスタントに皆さんから直接頂いてきています。
土日も祝日も関係なく、年中無休で私は仕事をさせて頂いていますし
仕事先で仮眠して自宅へ帰らないことも珍しくないのですが、
海外視察や事務所協会のいくつかのボランティアの仕事も
かなり頻繁に行っているインプットのための講習会や研修参加も
スタッフが支えてくれているお陰で、私の時間が取れています。
今日はクリスマスです。クリスチャンでもないし、神社もお寺も行く私ですが
クリスマスや正月も、おめでたい気分になります。
その勢いで、本日のブログを番外編で書くことにしました。
クリスマスにふさわしい、思わず涙してしまう
そして素敵なストーリーを紹介したメールを頂いたからです。
クリスマスという理由をつけて、番外編ということでアップします。
送ってくれた人も…私の無断コピペ、許してくれると思います…(^^)ゞ
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■シークレットサンタ
アメリカでクリスマスになると、
貧しく困っている人々に現金を
プレゼントする男性がいました。
彼はいつしか
「シークレットサンタ」
と呼ばれるようになりました。
1971年11月、23歳のラリー・スチュワートは
会社が倒産し路頭に迷っていました。
あまりの空腹に耐えきれず、
ついレストランに入って、
お金も無いのに、取り憑かれたように
注文してしまいました。
ラリーは、請求書を出されようやく我に返り、
お金を持っていないことに気づきました。
そして、なんとかその場を取り繕おうと
ポケットの中を探すフリをしながらも、
警察に突き出されても仕方が無いと
覚悟を決めたその時、
一人の男性店員が、ラリーの横で
しゃがみこみました。
そして、20ドル札(約2000円)を手にして
立ち上がると
『これ、落ちてましたよ。』
と言ってラリーに手渡しました。
お陰で、ラリーは、会計を済ませることが
できました。
1972年、運良く拾った20ドルの残りを旅費にあてて
ラリーは、カンザスシティという街に移り住みました。
そして、ラリーは、警備関係の会社を起こして
懸命に働きました。
その後、会社もなんとか軌道に乗り、
結婚し子供も生まれたラリーは、
幸せな生活を手に入れたかに見えました。
しかし、1977年12月
不況のあおりで会社が倒産し、
再び、ラリーは、その日の食事代にも困るほど
追いつめられてしまいました。
貧しさで追い詰められたでラリーは、
銃を手に銀行に入り、強盗を働きそう
になりました。
しかし、銀行でたまたま20ドル札を見た時、
ふと我に返り、以前のレストランでの事を
思い出しました。
そして、銀行強盗を思いとどまり、
もう一度、ゼロからのスタートを
心に決めたのです。
改心したラリーは1978年、
妻の兄からの援助を受け、
セールスマンとして懸命に働き始めました。
しかし、そんな彼に、またしても試練が
降りかかります。
1979年12月、会社の経営が思わしくない
ということで、ラリーは解雇されてしまったのです。
ラリーが、もう助けてもらうあてがないと
途方に暮れていた時のこと、
ふと目についた売店に立寄り、
ポップコーンを注文しました。
店員の女性は暗い表情で、
違う商品とおつりを
ラリーに渡してしまいました。
ラリーは彼女が困っているのだと思い、
おつりの中から20ドル札をプレゼント
しました。
彼女は受け取れないと言いましたが、
ラリーは
『クリスマスプレゼントだよ』
と言って手渡しました。
そう、この日はクリスマスだったのです。
女性は嬉しそうに、ラリーにお礼を言いました。
その笑顔がラリーを明るくしました。
そして、その時、ラリーの頭に、
突拍子も無いあるアイデアが浮びました。
そして、居ても立っても居られなくなり、
そのアイデアを実行し始めたのです。
そのままラリーは銀行に行くと、
なけなしの貯金を引き出し、
白いオーバーオールに、赤い服とベレー帽
という姿で町に出かけました。
そして困っていそうな人や、貧しい人に
20ドル札をクリスマスプレゼントとして
配り始めたのです。
これが、シークレットサンタが誕生した
瞬間でした。
20ドルは大金ではありませんが、
困っている人々にとっては大きな助けとなり、
喜んで 受け取ってもらえました。
家に戻ると、妻から銀行にお金が残っていなかった、
と言われました。
ラリーは、怒って文句を言われるのを覚悟で
『落としてしまった』と答えました。
すると妻は怒るどころか、
『仕方がないわね、でもあなたは幸せそうね。』
と微笑むだけで文句を言いませんでした。
翌年の1980年、ラリーは、
友人と長距離電話の会社を設立し、
懸命に働きました。
そして、その年のクリスマスにも
道に立って人々に現金をプレゼントする
活動を続けました。
そしてその金額は少しずつ多くなっていきました。
不思議なことにシークレットサンタとなって
施しをすればするほど会社の業績が上がり、
長年の切り詰めた生活から抜け出し
家族のために家や新しい車を買えるまでになりました。
ラリーの妻も、町中でシークレットサンタの
噂を耳にするようになりました。
彼は家族にも言っていなかったのです。
ラリーは、それからも一年も休むことなく
シークレットサンタの活動を続けました。
そして、9年目の1987年12月、
ついに妻にシークレットサンタがラリーで
あることがわかってしまいました。
すまないと謝るラリーに、妻は
「素敵なことじゃない。
これからはもっと節約して
たくさんの人を助けられるように協力するわ」
と答えました。
以後、家族もラリーの活動を知って
陰から支えることになりました。
1995年、地元ではすっかり有名になっていた
ラリーに新聞社から取材の依頼が来ました。
ラリーは、匿名を条件に、この新聞社の
取材に応じることにしました。
当時、取材をしたカンザスシティ・スター紙の
マクガイヤー記者によると、
『ラリーも家族も一切表舞台に出ようとしなかった』
ということです。
しかし、新聞で報道されてからというもの、
シークレットサンタの正体への関心はさらに
高まりました。
一方、ラリーは多くの人に感謝されるにつれて、
ある人物に会いたいという思いが募っていました。
そして、1999年12月、
ラリーは、ミシシッピー州のトゥペロという
小さな町のある男性宅を訪れました。
その男性こそが、シークレットサンタの生みの親
だったのです。
28年前の1971年、一文無しだったラリーが
落ちていた20ドルに救われた日のこと。
本当の落とし主が現れたら困るので
逃げるように店を後にしたラリーは、
我に返って真実に気づきました。
20ドルは、落ちていたものとして
男性店員が彼にくれたものだったことに。
男性店員の名はテッド・ホーンといい、
ラリーが訪問して、事情を説明すると
当時のことを思い出しました。
ラリーは彼がしてくれたことを
いつか誰かにしようと思ったのだ
と話しました。
そして、テッドの20ドルがなかったら
刑務所に入っていただろうと。
自分の人生を正しい方向に導いてくれたお礼にと、
ラリーはテッドに1万ドル(約120万円)
の入った封筒を手渡しました。
受け取れないというテッドに、ラリーは、
『自分が今あるのはあなたのおかげだ』
と言って引きませんでした。
当時テッドは、警察に突き出すのではなく、
自らの過ちに気づき、他人への優しさを
知って欲しいと思って20ドルを差し出した
のでした。
それをずっと覚えていて、サンタ活動を続けた
ことには頭が下がるとテッドは言います。
テッドは、ラリーから渡された1万ドルを、
近所の病気で困っている人たちや
生活に苦しい人たちのために使いました。
テッドにも、人を思いやる気持ちは健在だったのです。
その後、ラリーのサンタ活動は全米に広がりました。
2001年には、世界貿易センタービル爆破事件
のあったニューヨークに行き、
ホームレスや職を失った人を中心に2万5千ドルを
配りました。
2005年には、ハリケーンで壊滅的な被害を
被ったミシシッピ州を中心に7万5千ドルを配り、
27年間で配った総額は150万ドル(約1億5千万円)
になりました。
しかし、2006年、シークレットサンタが
ついにTVカメラの前に現れ、
正体を明かしました。
彼はその年の4月、
食道ガンのため治療しなければ、
1ヶ月生きられないと宣告されたのでした。
正体を明かしたのは、自らの命の宣告を受け、
『身近な人への思いやりを広げて欲しい』
というメッセージを送りたかったからだろうと、
マクガイヤー記者は言います。
そして、その反響は絶大でした。
2日間で7000通もの手紙やメールが
彼のもとに届きました。
大半は自分もシークレットサンタになりたい
というものでした。
その年のクリスマスも彼は病気を押して
サンタの活動を行いました。
そのお陰で、多くの人が、
笑顔でクリスマスを迎える事ができました。
2007年1月12日、
ラリーは58歳で静かにこの世を去りました。
生前、ラリーは、シークレットサンタ協会を設立
しました。
会員資格は、少なくとも1回、
他人への親切な行為を行うこと。
今でも世界中から登録の申し込みが後を絶たない
ということです。 ■
--------------------------------
--------------------------------
私もささやかながら、プラン・ジャパンで20数年間
フォスターペアレントを続けていています。
現在は3人目のフォスターチャイルドにめぐり合っています。
このフォスターペアレントで英語の手紙を日本語に訳す
ボランテャイアの仕事は、
期間を守れなくて迷惑を掛けないよう辞めてしまいましたが
ユニセフや国境なき医師団にも、
やはり20年間以上、毎月僅かですが寄付させて頂いています。
いずれも自動引き落としなので、普段意識することはありません。
この20数年間寄付した金額を、それまで行わなくても良いから
今まとめて寄付しろと言われても、チリもつもれば山となるで
とても無理な金額になっていました。
恥ずかしい話ですが、私が独立した初年度は大赤字となり
国民年金の半額免除申請を行った期間がありました。
それでも、国民年金より支払い金額の多い上記の寄付は続けさせて頂きました。
そのとき中断していれば、再開できていたかどうかは自信はありません。
継続するには難しい状態になることもありますが、続けていて良かったと思いますし、
何よりもまず第一歩を踏み出していて良かったと思います。
今回、この頂いたメールを読んで、私にあるインスピレーションが湧きました。
10周年という区切りに、ミタス一級建築士事務所として
もうひとつ私は実行しようと思ったことがあります。
ミタス一級建築士事務所としての取り組みになりますので
やる以上は、ずっと継続していけるように
どのようにするかをしっかり考えて正式に宣言しようと思います。
最後にもう一度、「メリークリスマス!」
……………………………………………………………………………
こんにちは、ミタス一級建築士事務所の清水です。
住まいに興味のある方はもちろん、無い方にも
何となく役立つか、楽しめる内容になることを願いながら書いています。
ご意見があれば、お気軽にどうぞ!
一級建築士事務所 横浜
mitasu1のツイッターを読む
All contentsCopyright R 2010 mitasu
コメントありがとうございます。
とどさんのようにボランティアを
伴うのが一番尊いと思います。
僅かな寄付をするだけというのは、
楽です。
私の場合、ボランティアは建築に関して
行うのが一番と割り切っているというか…
言い聞かせて納得しています。
30年計画では、74歳の誕生日に現役を引退をして
社会貢献に生きがいを見出す予定にしています…(^^)ゞ
それで終わりでなく、寄付を続けてるの立派だと思います。
さらに何かされるとの宣言。
脱帽です。
自分はマラウィに食料援助のボランティアを続けています。