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笑いについて…

2022年01月03日 | 生活

謹賀新年。日ごろ、皮肉めく小欄も元日は朗らかに笑いについて…

2022年1月1日「東京新聞」筆洗より

 謹賀新年。日ごろ、皮肉めく小欄も元日は朗らかに笑いについて書く▼「世界で一番笑えるジョーク」が発表されたのは二〇〇二年。英国の心理学者が世界中から笑い話を集めて、一番を決めた。どんな話か▼二人の猟師が木の上にいたが、一人が落ちてしまう。もう一人が病院に電話する。「友人が死んだ。どうすればいいか」。病院の職員が言う。「落ち着いて。本当に死んでいるか確認してください」。すると電話越しに「バン」という銃声。そして電話の男はこう言った。「オーケー、次はどうすれば」▼縁起でもない話を書いて後悔する。あまり笑えぬ、この話を引いたのには訳がある。世界で誰もが笑えるジョークなんてたぶん見つからぬ。文化や考え方も異なる人をおしなべて大笑いさせるのは困難で、あの話だって怖いと感じる人もいる▼一番笑えるジョークはないが、人を確実に笑わせる世界共通の方法はある。いまさらながらも、それはやっぱり優しさや親切なのだろう▼最近、わが老い犬の話を書いた。読んだ方から犬用の紙おむつを送っていただいた。どなたにも経験があるだろう。親切をもらえば誰だって、顔がほころぶ、笑う。大笑いではないが、世界共通の小さな笑い。そんな笑いが積み重なる世界なら今よりはずっと暮らしやすいはずだ。年の初めにそんなことを考えた。本年もよろしくお願いします。

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笑いと暴力のはざまで―BPO審議入りからお笑いの今を考える

西村紗知(批評家)

Imidasオピニオン2021/12/27

"苦痛を笑う„ことは問題あり? BPOの見解が示したもの

 2021年8月24日、放送倫理・番組向上機構(BPO)の青少年委員会が「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」を審議の対象とすると発表した。「視聴者やBPOの中高生モニターから、出演者に痛みを伴う行為を仕掛け、それをみんなで笑うような、苦痛を笑いのネタにする各番組は、『不快に思う』、『いじめを助長する』などの意見が継続的に寄せられてきていること等を踏まえ、委員会で視聴者意見が寄せられた複数の番組を視聴した上で討論した。その結果、委員会として、青少年に与える影響の重大性に鑑み、このテーマの審議入りを決めた」(註1)ということだ。

 第237回青少年委員会の議事録によると、委員からは例えば「人が痛みを感じている、それもリアリティーがあるような形で痛みを感じているのを皆で見ながら嘲笑する、冷たい笑い…冷笑をするということが青少年、とりわけ子どもの内面や子どもの社会にどういう影響を与えるのかを検討する必要がある」「安全性の面などにおいて、それなりにマイルドになってきているところがあると思う。それでも、年齢の低い青少年、特に子ども(=児童)に与える影響や気をつけなければいけないポイントについて、外部の専門家の意見も参考にして反映させるべきだ」といった意見が出されたようである。

「いじめを助長する」ことへの懸念は、痛みを与える行為を模倣することよりも、痛みを与える行為を見て笑うのを模倣することの方に重点を置くということだろうか。つまり、青少年・児童の、第三者の暴力を止めずにその場をやり過ごすメンタリティーを育んでしまいかねない、というのが懸念の実態なのかもしれない。そうだとすると、青少年・児童に真似のできないものを番組側が作ればよいだろう、というよくある反論は意味をなさないことになる。制作側が、素人に模倣できないような痛みを与える行為を創案したところで、あるいは彼らはプロの芸人なのだからオーバーリアクションをしているのだ、と説明したところで、「いじめを助長する」ことを懸念する側への応答にはならないだろう。制作側が「痛み」をもとに「笑い」を生み出そうとしている限りにおいて。

 そして9月20日、日本テレビはいまや年末の風物詩となった『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!絶対に笑ってはいけないシリーズ』について、15年の節目である今年は休止すると発表した。この番組では例年、松本人志、浜田雅功、月亭方正、遠藤章造、田中直樹の5人のメンバーを笑わせる様々な仕掛けが用意されており、笑ってしまったメンバーは、その場で尻を棒や鞭で叩かれてしまう。日本テレビによるとBPOの審議とは関係なく、実際にはもっと早い段階で休止が決定されていた、とのことだ。

 マスコミ各社の反応を見るにこの二つの出来事は、今日のお笑いに暴力的な表現は未だに可能かどうかという問題提起となった。のみならず、賞レースで披露されるネタがどれだけ高度に洗練されたものでも、結局のところお笑いは、「大衆との絆」という他律的な要素(人任せにせざるを得ない部分)に存在意義を左右されるものであり、危うげなバランス感覚のもとに成立している、ということを今一度思い出させた。

暴力的表現のピークは過ぎた?

 筆者はこれらのニュースを聞いて意外に思った。テレビ番組で暴力的な表現が散見されるのは幾分ピークが過ぎているように思えるからだ。

 もちろん「いじめを助長する」と懸念する側にとってみれば、暴力の量も質も本質的ではない。青少年と児童にそれを目にする機会が与えられているだけで問題であり続けるだろう。松本人志が、身体露出や下ネタなどのかなり際どい表現が見られる、事前に選ばれた芸人による優勝賞金1000万円をかけた密室笑わせ合いサバイバル『ドキュメンタル』シリーズの発表媒体に、地上波でなくAmazon Prime Videoを選択したのはもう5年も前のことだ。審議入りを経て打ち切りというと『めちゃ×2イケてるッ!』の「七人のしりとり侍」――これは三文字しりとりをするコーナーで、回答に失敗した者は、その場ですぐに複数人により袋叩きにあうという罰ゲームを科されるものであった――のことが思い出されるが、コント・バラエティー番組も、予算の都合なのかほとんどなくなってしまい、ジャンル自体が危機に瀕しているようにすら見える。

 一方、暴力(もはや表現手段ではない)を目にすることは日常生活でなおも増えつつある。個人撮影の暴力的な動画や写真がインターネットのプラットフォームに載って拡散される。イスラム過激派組織「イスラム国」が日本人ジャーナリストを殺害したとする動画をインターネット上で公開したのが2015年のことで、最近であれば京王線刺傷事件の映像も、すぐさまツイッターに出回った。公的な報道機関ですら個人の撮影した映像・写真を使うようになって久しい。こうした深刻な暴力であっても、動画投稿の編集の意向によっては「痛みを伴うことを笑いの対象とする」よう面白おかしく見せることが可能だろう(動画でなくとも、匿名の素人による悪趣味な雑コラ画像のことを念頭に置くのでもよいだろう)。反対に、「笑いの対象」となっていても、少しでも出演者が痛みを感じているように見えさえすれば、大衆はそこに深刻な暴力が存在する可能性を見て取るだろう。番組の内容がフィクションであるのが誰から見ても自明であっても、暴力が実際に存在しているかもしれない、という大衆の想像力を制作者が消し去ることは難しい。

 こうした状況でBPOの一連の動きは、ネット社会に慣れ親しんでいる青少年をどこまで守ることができるのだろうか。少なくとも、その規制が規模を問わずオンラインで発信、拡散される暴力的なコンテンツに対する圧力になるとはあまり想像できない。

 加えて、暴力的な表現に対する世間一般の風潮や業界側の自主規制に率先されるかたちで、そもそもお笑いにおいては暴力的な表現も時代遅れとなりつつある。「痛みを伴うことを笑いの対象とする」こと自体すでに困難なのは、お笑い第七世代の台頭、誰も傷つかない笑いの隆盛が証左となっている。顕著なのは女性芸人の傾向だ。最近では女性芸人の「ブスいじり」や体を張る芸風はほとんど不可能になったように見える。ネタとして自らの容姿で笑いをとっていた女性芸人から一方的に表現手段だけがはく奪されているならば、表現の自由の制限という観点から見ると、心情的には複雑ではないだろうか。

 たしかに、暴力的な表現の積極的な破棄がお笑いの世代論的なものを形成しつつあるのは認めざるを得ない。お笑いの業界内部において、実際には上の世代が自らやるべき暴力的な表現の破棄を、自己批判として若い世代が担わされ、若い彼らもまた露出の機会のために甘んじて引き受けているだけなのかもしれない。痛みを伴う笑いを行っていた上の世代の者は、今現在おとなしく取りやめているだけなのかもしれない。一旦暴力的な表現を取りやめる以外に反省を示す行動があるのだろうか。視聴者には思いつくはずもない。

 そうして「痛みを伴うことを笑いの対象とする」ことへの取り締まりも、「痛みを伴うことを笑いの対象とする」ような表現も、これから一層困難となるだろう。そもそもお笑いにおいて両方とも困難だったのだ。お笑いを批判するような意見を出す側が流動的なのであって、表現する側もまた他律的なのだから。もしお笑いが一般社会の写し鏡になるのだとしたら、台本の中で描写された社会の様子にではなく、流動性と他律性の相互作用というまさにこの構造に表れるのだ。つまり、一般社会に生きる我々もまた、その都度異なる他人から出される意見に、その場その場で与するようにして生活しているということが、自覚できるだろう。

お笑いと大衆との間にかつて存在した「つながり」

 「痛みを伴うことを笑いの対象とするバラエティー」の審議入りを受けて松本人志は、「何でもありになると、実は面白いことってできにくくて。ルールがある程度あって、そのルールのギリギリをわれわれが攻めて面白くしたいなと思うんですけど、前OKやったことが『やっぱりそれもダメ』みたいに後から言われることがあるから、これはどこまでいくのかなとは思いますね」(註2)と語ったという。松本は、お笑い特有の基準の流動性と他律性についてなにか言おうとしているように見える。

 流動性と他律性は、まさに大衆とのつながりという点で、いまやすっかりお笑いにとって足かせに転じてしまった。実際にはそれぞれが別人であるのにBPOが一義的に想定した「青少年」に関して出される意見には、もちろん不当ではないものの文脈への配慮や内在的視座が存在しない。だが、「青少年」でない、我々成人はどうだろう。我々成人は、いつまで文脈への配慮や内在的視座の抜けた異議申し立てをして許されるのだろうか。

 他律的(人任せ)に、その都度状況依存的に対処し続けても、それが自律性(行動や判断を自力で決定すること)に転じることはない。すなわち他律性のみでは自分自身の行動原理の糧にならないということを、「青少年」ではない我々成人は経験則として知っていることだろう。青少年委員会の審議対象としての「お笑い」からお笑いの「表現」の問題に考える対象を移したときに、自律と他律にまつわる問題意識が出てくる。実際、見た目に暴力的かどうかという点にあまりに固執するのは、どこか他律的だ。「暴力的かどうか」という問いは、多くの場合、取り締まったり管理したりする側が立てるものであって、お笑いを自分の楽しみのために見ている大衆一人一人が率先して立てるはずもないだろうから。

お笑いのゆくえ

 一度、お笑いが痛みを伴うかや、お笑いに対する世間からの厳しい風潮を括弧にくくって、お笑いについて一人一人が、文脈を鑑みて内在的に想像してみてもよいのではないかと筆者は思う。

 内在的に想像してみよう。お笑いにとって常に大切であり続けていたのは、大衆のリアルな感覚ではないか。漫才の場面設定であれ、いわゆる「あるあるネタ」であれ、大衆からの共感はお笑いにとって欠かせない素材だ。かつて大手を振っていた暴力的な表現も、それぞれの時点で大衆のリアルな感覚と見えない絆を結んでいたのであって(実際にそれで笑いが生じていたのだから)、結果であり方法のひとつでしかない。

 もちろん、内在的に正当であっても、それは暴力的な表現を肯定する理由にはなりえない。

 だが、次のように想像することも可能だろう。お笑いが暴力的な表現でもって成し遂げたかった目的は、今となっては必ずしも暴力的な表現を必要としないのかもしれない。あるいは、今現在暴力的な表象を用いるお笑いの表現は、かつてとは違った位相にあるのかもしれない。

 そもそも、お笑いにおける暴力的な表現が看過されていたのは、悪や権威に対する反抗の表現となっている場合のみだったと言っても過言ではない。今日の大衆のもとではわかりやすい悪や権威のイメージがもはや無効となっており、SNSでのハッシュタグ運動により、大衆は悪や権威を簡単に屈服させられると錯覚している。こうした悪や権威をめぐる不明瞭さや複雑さは、そのままお笑いから暴力的な表現の根拠をはく奪することとなったのであろう。

 今現在の社会においてかつてお笑いが反抗する先であった悪や権威の居所が見えなくなったとしても、お笑い芸人はそれぞれ主体的に反抗の表現を引き継いでいる。表現の遺産を引き継ぐことからまた、今日の、もはや姿を変えてしまった悪や権威を探しあてることは可能だろう。

「男性ブランコ」の新しさ

 それは、暴力的な表現にまつわるいかなる議論にも引っかからない、「男性ブランコ」という吉本興業所属のお笑い芸人のネタを見ればわかる。

 M-1グランプリ2021の三回戦の彼らのネタを見ると、設定は温泉旅館の客と女将という定番のものだが、「癒し」という現象に対するはっきりとした洞察がネタを貫いている。癒しは、これ自体は悪や権威などとは一切なにもかかわらないが、温泉旅館の女将や他にもセラピストのような癒しにかかわる業種の人々には、どこか形式的に過ぎるところや、一方的なところがある。癒しというのは自足の極致なのだから、他者の視線や存在を欠きがちだ。こうした点にこのネタの表現の核がある。

 特に温泉旅館の部屋の中でくす玉を割り中から「浦井様 歓迎ムード」という文言が出てくるシーンにこの癒しが含む過度な形式性と一方通行性がみてとれる。

後半の露天風呂と食事を女将が案内する件(くだり)から、今度は「癒し」という観念に潜む、自足性が浮き彫りになっていく。これは、温泉の食事にはふさわしくないように見えるチキン南蛮定食――漫才中では、「ごはんを食べたいがためだけの」ということで「ガチ飯」と形容されるが――を登場させることによって可能となる。

 このボケにどうしてこれほど強度が宿るのか、と考えたとき次のことに思い至る。このボケは逆説的なかたちで、「チキン南蛮定食が癒しでないといえようか」という、クリティカルな問いかけを内密に保持しているのだ。この隠された問いにより、「男性ブランコ」のネタは大衆の癒しに対する根拠の曖昧さを照らし出すことに成功しており、このネタにおけるボケは単なる漫才台本内部の逸脱に留まらず、大衆の手元にもある癒しという観念の解体を行っている。

 「男性ブランコ」のこのネタは、かつて暴力的な表現が担っていたものを更新しているように筆者には思える。なんにせよ、彼らのネタから汲み取れる方向性、身近な違和感から反抗の表現を導き出す方法は、お笑いにおいてこれから一層重要になってくるだろう。つまり、暴力的な表現ではできないほど強く、大衆とつながっていく方法として。


わたしも「お笑い」番組を見なくなって久しい。テレビを手放した一因もここにあるかも?だからお笑い芸人については「大御所」と言われる人以外は頭に入っていない。ここで紹介されていた「男性ブランコ」なんて初めて聞く名前であった。YouTubeでみてみた。「新しさ」と呼ぶのか「懐かしさ」というのか?

今日もほぼ吹雪。

除雪車が段切していった。(路肩が雪で高くなり、ラッセルした雪がまた道路に戻ってくるため)