Imidas連載コラム2020/08/14
香山リカ
今年は自分自身もそうである「医者」という職業や、「生と死」について、いつも以上にあれこれ考える年となっている。
ひとつはもちろん新型コロナウイルス感染症の拡大のためであるが、もうひとつは、神経難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者に対する嘱託殺人容疑で医師が逮捕されるという衝撃的な事件が起きたためだ。
前者に関しては今回は深く立ち入らないが、医療現場にいる私にとっては苦闘の日々がいまだに続いている。何せ、その病気を疑わせる病歴や症状があっても、確定診断の唯一の決め手であるPCR検査が簡単にできないのだ。一時よりは改善されたとはいえ、検査しにくい状況はいまだに続いている。医者として「必要と思っても患者さんに検査をしてあげられない」という経験ははじめてだ。さらに不思議なのは、医者たちの中からも「検査拡充は不要」と主張する声が上がっていることだ。この人たちはどうやって診断や治療を進めているのだろう。いずれにしてもこの問題はまだ現在進行形なので、いつか総括しなくてはならないと思っている。
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このような状況が続く中で発覚したのが、昨年11月に京都市で起きた嘱託殺人事件だ。マンションで介護を受けながらひとり暮らしをしていたALSの女性患者(事件当時51歳)が、SNSを通じて「安楽死」を医師に依頼し、その結果薬物を投与されて亡くなったと報じられている。このことは今年(2020年)7月23日、嘱託殺人容疑で40代のふたりの医師が逮捕されて明らかになった。
事実関係が少しずつ判明するにつれ、この事件にはさまざまな問題が絡み合っており、簡単には語れないということがわかってきた。まだ容疑の域を出ないが、現時点で私が整理しているその「さまざまな問題」とは、大きく分けて次の三つだ。
①安楽死、尊厳死など「死の自己決定」について
②生命に直接かかわる仕事に携わる医師が、生や死、また①の「死の自己決定」をどうとらえるか
③「生きる意味」と、それを失うときについて
事件が発覚した直後、日本維新の会の代表を務める松井一郎・大阪市長は、自身のツイッターでこの事件の報道を引用しながらこう呼びかけた。
「維新の会国会議員のみなさんへ、非常に難しい問題ですが、尊厳死について真正面から受け止め国会で議論しましょう。」[1]
この事件の根幹にあるのは前述の①、つまり「死の自己決定」という問題だが、それとともに今回は②についても熟考が必要だ。ただ、「医師にとって生と死とは」という一般的な問題に入る前に、まず逮捕された医師について論じてみたい。
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医師ふたりが実名で報道された直後に、ふたりが共著で『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術 誰も教えなかった、病院での枯らし方』というタイトルの電子書籍を出版していたことが報じられた(医師Aは実名、医師Bはアルファベットを連ねたペンネーム)。また、医師Bはペンネームと同じアルファベットをユーザー名やアカウント名として、ツイッターやブログを開設していることもわかった。
1万人以上のフォロワー(注・事件発覚後に増加して現在は2万人)を持つそのツイッターアカウントの投稿をさかのぼって読んでみて、私は仰天した。医師Bは、高齢者や回復不可能とみなされる病の人たちに対して、それ以上の生には意味がないと言い続けている。事件が起きたとされる2019年11月の前も後もそれは変わらない。
「経済的な生産性でいうとマイナスでしかない認知症老人に人生をからめとられて、退職を余儀なくされるとか、ほんとボケ上がった老人を長生きされることに俺は興味も関心もない。」(2019年8月12日、[2])
「予後不良なのに治療に人生とカネを費やす意味があるんすかね」(2020年3月22日、[3])
「長生きしてもいいことなんかあんのかよ。耐用年数を超えてボケた脳ミソとあちこち痛いだけの体、年金じゃ食えない耐乏生活、子供に介護費用を無心したり、娯楽に使えるカネもなく、テレビで安倍の悪口いうくらいの毎日。」(2020年4月17日、[4])
これらを読むとわかるように、高齢者や予後不良(回復の見通しが少ない状態)の疾患の人たちの生の継続に意味がないと医師Bが思うのは、医療費や介護費用、つまり「カネの無駄」だからということのようだ。今年になってからは、新型コロナウイルス感染症に関しても、医師Bは饒舌に語っている。そこでも問題にされるのは、カネのことだ。
「死ぬべき人がひとしきり死んだら、コロナ騒ぎも終わって経済回るんじゃねえのかな。」(2020年4月4日、[5])
「ワイドショーをみる時間がたんまりあるって時点で、頭の弱い貧乏キャラ確定なのだが、そいつらが『コロナで不安』とかいい始めたら、秒で切ることにしている。」(2020年6月9日、[6])
こういった考えが根底にある医師Bは、尊厳死や安楽死を肯定するツイートを繰り返し行っている。
「『安楽死コンサルタント』って名刺に書くかな。」(2019年8月25日、[7])
「安楽死外来(仮)やりたいなあ」(2019年11月20日、[8])
「精神疾患の安楽死施設ならすぐ作れそうだけどな。
かかわりたくはないが」(2019年12月19日、[9])
その理由も高齢者やコロナ感染症の問題と同じ、「カネの無駄」ということのようだ。それがうかがわれる2016年のツイートを紹介しよう。
「議員定数を若干減らすよりも、尊厳死法とか安楽死法を通した方が財政は持ち直すと思うけど。」(2016年2月21日、[10])
もちろん、ツイッターが人の本当の考えだけを書くツールだ、と言うつもりはない。自分で設定したキャラにあわせて、1万人ものフォロワーの期待にこたえてあえて過激なことや挑発的なことを書いていただけかもしれない。しかし、医師Bはこういったツイートを続ける途中で、ALSの患者からの依頼を受け、その人の胃ろう(栄養を直接、注入するために腹部から胃に開けた穴)から薬物を入れて死に至らしめたのだと報じられている。それを思うと、これらのツイートを「まったく心にもなかった言葉の創作」と考えるのは無理があろう。また、ほかにALSの患者や関係者を揶揄するように「ALSご一行さま」と表現するツイートもあり(2020年3月26日、[11])、医師Bがこの難病を深く理解し、患者たちへの敬意を持っていたとは、とても言いがたい。
それらを総合して考えると、この医師は「高齢者や回復不可能とみなされる患者を生かしておくのはカネの無駄でしかないから、すみやかに生を中断させる、つまり死に導くべし」という信条の持ち主で、この信条に近いものとして、これまで長いあいだ議論されてきた「安楽死」や「尊厳死」という言葉を用いたのにすぎないのではないだろうか。
しかし彼の信条は、「本人らしい生き方」や「本人が考える最期」を尊重するという意味の「尊厳死」という言葉とはほど遠い。生や死の問題を、経済効率性や生産性を優先して決める、という意味では、それはむしろ優生思想に近いものといえよう。
日本医師会の新しい会長に就任したばかりの中川俊男医師も、2020年7月29日の会見で、「患者さんから要請があったとしても、生命を終わらせる行為は、医療ではない」「容疑に問われている医師は、主治医ではなく、診療の事実もなく、(略)決して看過できるものではない」[12]と嘱託殺人を強く非難した。
さて、ここで最初の問題設定に戻ろう。
まず①安楽死、尊厳死など「死の自己決定」についてである。もし医師が経済至上主義的な発想から「生の中断」を肯定(というより推奨)する考えだったとして、今回のALS患者の死は安楽死や尊厳死ではなかったのだろうか。それは医師の問題とは切り離して考えるべきだろう。
先にも述べた通り、安楽死や尊厳死については長いあいだ、多くの議論が行われてきた。そして、それじたいは決して安易に否定されるべきではない、と私も医療従事者のひとりとして思っている。今回の患者もまたブログやツイッターを開設しており、全身が動かない中、視線によるパソコン入力で日々の様子や考えを発信していた。そこから、切実な気持ちから安楽死を強く望んでいたことがうかがえる。本人にとってはそれを実現することが目的であり、容疑者である医師が深い倫理観の持ち主か経済至上主義者なのかなど、あまり関係なかったのではないか。だから、ふたりの医師が、たとえ一部の報道にあるように130万円という謝礼金目当てに薬物注入に及んだのだとしても、それだけで「この人が遂げたのは安楽死や尊厳死ではない」と言うべきではないだろう。
ただ、まだふたりの医師の特異な印象が強すぎるいまは、最初にあげた松井一郎氏のように「尊厳死について真正面から議論しましょう」などと呼びかけるのは時期尚早と思われる。ではいつならいいのか、と言われても答えに窮してしまうのだが……。
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そしてもうひとつ、自分への宿題として残しておきたいのは、②の「いまの医師はどういう死生観、生命観を持っているか」という問題だ。今回は事件の容疑者である医師についてのみその考えの一端を紹介したが、実は私自身は、この経済合理性を異様なまでに重んじるというのは、多かれ少なかれ、いまの40代以下の医師に見受けられる特徴なのではないかと思っている。
そして、そういった医師たちの一部がいま新型コロナウイルス感染症の問題に関しても、「PCR検査は“コスト”がかかりすぎる」と主張して検査抑制論を展開したり、「威力の弱い感染症なので恐れずに“経済”優先を」という楽観論をネットやテレビで述べたりしているように感じられるのだ。
私はこの傾向をたいへんに憂慮している。たしかに彼らの中には昔の医師に比べ、知識が格段に豊富で、高いスキルを身に着けた医師が多いのも事実だ。しかしすべてを合理的に経済優先で処理しようとする思考パターンが染みついた専門家が、人間にとって避けて通れない、病や障害、老化や死にどう対処するのか。もちろん医療現場ではときにはドライに割り切らなければ正しい診断や良い治療ができないことも多いが、私も医師として経験年数を重ねれば重ねるほど、「人間の生き死には科学や計算だけでは答えが出ない」と思うようになってきた。そこにすべてをコストとベネフィットだけで考えるような“経済至上主義医師”が続々と現れたら、どうなるか……。ちょっと想像するだけでも悲惨な状況がいくつも思い浮かぶ。
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さて、最後に③の「生きる意味」について少しだけ、いま考えていることを述べておきたい。
今回の患者の女性はブログやツイッターで自分の考えを発信していたことは先にも触れたが、この人の「安楽死したい」という強い思いの根底にあったものは何だったのだろう。
本人による2018年6月4日の「死生観と安楽死」というブログには「少なくとも私はこの動かない食べられない話せない、唾液さえ常に吸引しないと生きていけない身体で人間らしい人生を送っているとは思えない」[13]とあり、同年11月24日の「ベッドの中と外の世界」には「どんな楽しいことを計画しても、こんな身体で生きるこの世に未練はないな、、、と思ってしまうのだ」[14]とある。
以前はできたことができない、鏡に映る姿も変わってしまった、今後、治る見通しもない中でただ悪化を待ちたくない、という気持ちがあったことがうかがえる。ツイッターには「7年間一貫して言い続けてきた『早く終わりにしたい』という思い」(2019年6月29日、[15])という言葉もあるので、この疾患だと診断を受けて間もなくからそう考え続けていたのかもしれない。
しかしその一方で、ブログには「自分という人間の個」「それは人とのコミュニケーションによって守られているに違いない。ブログやツイッターで発信することもそうだ」(2019年3月28日、[16])という記述もあり、その通りに症状や安楽死についてだけではなく、テレビでテニスやサッカーを応援したり友人が訪ねてきたりという日々の様子についてもこまめに発信して、ときには70もの「いいね!」がついたり、フォロワーとのやり取りの中で病気から悲観的になる人を励ましたり、逆に励まされて「本当にありがとう。頑張るよ!」と言ったりもしているのだ。
ただ、一方でヘルパーたちの心ない態度への不満、緊急時対応会議を「私抜きでする」という主治医やケアマネージャーへの不信が見え隠れする。そして、2019年9月17日のツイートに「手間のかかる面倒臭いもの扱いされ、『してあげてる』『してもらってる』から感謝しなさい 屈辱的で惨めな毎日がずっと続く ひとときも耐えられない #安楽死 させてください」[17]と記している。
つまり、コミュニケーションを大切にし、他者とのやり取りの中で「自分であること」を確認してきた彼女は、現実の毎日では思い通りには動かせない身体をケアする人たちから「面倒臭いもの扱いされ」ていると感じ、「屈辱的で惨め」だと感じ続けなければならなかった。「尊厳」をまったく自覚することができない状態に置かれたのだ。
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不登校だった中学生時代、独学で作った小さなロボットが競技会で準優勝したのをきっかけにロボット工学の道に進み、現在は株式会社オリィ研究所代表取締役CEOを務める吉藤オリィ氏という32歳の学者兼実業家がいる。彼は「ロボットで孤独を解消する」をミッションに不登校やひきこもり、病気の若者のかわりに外に出かける“分身ロボット”の開発を行ってきたが、それがALSを始めとする難病などで寝たきりの人たちにも求められていることに気づいた。いまでは難病、高齢者、育児中の人などが自宅で操作してカフェの店員や会社の受付の業務をこなすロボットなども作っており、操作する人が実際に正社員として採用されたケースもある。
今回の事件が明るみに出た7月23日、吉藤氏はこんな連続ツイートを投稿した。
「研究を通しALSはじめこれまで500人以上の難病、寝たきり生活の人達と出会い、彼らと『生きるとはなんだろう』という話をよくしてきた
色んな意見はあるが、概して皆『人の役にたつ事だ』と回答する
ただ延命したいのではなく、命ある限り誰かにとって必要な存在でありたいのが人なのだ」[18]
「この話をすると『生きているだけで価値だよ!』と言ってくれる人もいる。きっと優しい心からの声だろう
ただ、いくら周りが生きてるだけでいいよと言っても、本人が誰かの為に何かしたいと願うならその気持ちは尊重したいし、されたいのだ
自分らしく生きていると”実感できる事”が本人にとって大切だ」[19]
私は、この吉藤氏のツイートを、亡くなった女性が読んでいたらどう思っただろう、と考え込んでしまった。彼女は、パソコンを使ってブログやツイッターでコミュニケーションをとることで「自分であること」をかろうじて保てる、と言っていた。そこには吉藤氏の言う「誰かにとって必要な存在」ということも含まれているだろう。一方でケアする人たちから「面倒臭いもの扱い」されて「屈辱的で惨め」と感じた。まさに「自分らしく生きていると“実感できる事”」がむずかしくなったのだ。
いま吉藤氏は、寝たきりになってもロボットを使って社会で働ける仕組みなどを、当事者たちと協力しながら次々に作っている。それがどんどん実用化されれば、この先、彼女のような状態になった誰かが、SNSでのコミュニケーションだけではなく、仕事という形で「誰かにとって必要な存在」となり、「自分らしく生きている」と強く実感して生きる意欲を持つことができるようになるのだろうか。
コロナの感染拡大よる「ステイホーム」の生活により、このところ多くの人たちが「私は誰かの役に立てているのだろうか?」と自分を振り返ったと思う。中には「何もすることがない、家にいるだけで世の中の役にも立てない」と落ち込み、抑うつ状態の域にまで達して、診察室に来る人も出てきた。人間には、自分が社会やそこにいる誰かの役に立っているという思い、すなわち「自己有用感」が必要なのである。吉藤氏の取り組みは、病気や家庭の事情で家にいなければならない人でも、IT技術を使うことで社会でも活躍できる体験を通して、この自己有用感を取り戻す試みだ。その意味で、私は9割がた、吉藤氏の取り組みを心から応援したいと考えている。
では、残りの1割は何なのか。
それは、吉藤氏のツイートの中にある「生きているだけで価値だよ!」だけでは本当に足りないのか、ということだ。いや、私たちが目指すべきなのは、やはり「生きているだけで価値だよ!」の方なのではないだろうか。
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7月31日、ネットメディア『現代ビジネス』は、『群像』2019年10月号に掲載された若い文筆家の文章を転載した。著者の名前は木澤佐登志氏、文章のタイトルは「『生産性』と『役に立つ生』に憑かれた、私たちのグロテスクな社会について――生産性に抗するラディカルな生」だ。[20]
その文章で著者は、たまたま両親と見ていたテレビに映し出された知的障害者の社会参画を支援する団体の主宰者の言葉に、強い違和感を覚える。その言葉とは次のようなものだ。本文から引用する。
「『とにかく彼らがあきらめる心だけは持たせたくない。あきらめたら、そこで終わってしまう』また、次のようにも語る。『生まれてきた以上は世の中に必要とされている人間だ』『今、命がある限り、必ず君には使命がある』『使命を見出すためにも、自分の人生を力強く歩んでいかないといけない』」
そのテレビ番組は支援団体の取り組みやそこでがんばる障害者の話を美談風に仕上げていたが、著者はここで言われる「使命」は「生産性」と同義なのではないか、と考えてこう言う。再び引用する。
「『生産性』とは何か。それは理事の言葉では『使命』と言い換えられている。人間個人には必ずその人の『使命』が与えられており、その『使命』をまっとうするために、終わりなき労働に駆り立てられる。だから、『使命』をまっとうする気のない人間は、生きる価値がないのだ。」
著者のこの論はいささか飛躍しすぎのようにも思う。
暑いですねぇ~!
江部乙の最高気温27.2℃、最低気温19.8℃。
北海道以外の方には信じられないでしょうが…
亜麻の花と種。
ブルーベリー。
アロニアとハチの巣。
今日の散歩道。
向こうから狸が来ますねぇ。
レンズを構えて待ちます。
ようやく氣づいたようです。