午前中、砂川市立病院へ。道路はツルツルのアイスバーン、ハンドルが利かなくなる状態も・・・、危ない危ない。帰りは昼近くで、太陽がさんさんと降り注ぎ国道の路面は雪が消えて、3月を通り過ぎて4月を思わせるようないい天気。家の温度計を見ると3℃でした。もっと上がったように思ったのですが、我が家の周辺はこんなものだったのか。明日は札幌へ行ってきます。荒れ模様の天気だという。
今日はプラス5℃まで上がりました。変ですねぇ、変ですよぉ。
雪もへこんで1m位になりました。
暖かく、暖房費は節約できますが、なんか嫌な予感がしてきます。
娘からのメール、転送します
(ノン)
送ってくれた、じゃがいも(コナフブキ)でお好み焼き作ったよ!
レシピが付いてたからね、やってみたら
これがおいしー!
の!
子供達ももりもりたべた!
へルシーでいいね♪
全て美味しく頂きました、ありがとう( ^ω^ )
久しぶりに晴れ渡る、3月を思わせる天気でした。
先日注文しておいた野口の種が届きました。すでに品切れ品も…
うちでも自家採種していますが、足りないものはここから仕入れています。
大手種苗会社が販売するタネはほぼF1(一代雑種)」と呼ばれる、農家が独自にタネを採ることができない品種に限られている。
野口タネ店はこうした流れの中で、それぞれの国、それぞれの地域が歴史とともに育んできた野菜や穀物のタネが次々と失われていく事態に抗うために、F1ではなく、固定種や在来種と呼ばれる地域の伝統的な作物のタネばかりを売る、おそらく日本で唯一の在来種専門のタネ店なのだ。
F1は採種が難しく、農家が種苗会社からタネを毎年買うことを前提としているのに対し、在来種は繰り返し採種が可能なため、地域地域に根付いた在来種特有の形質が、農家の手によって独自に引き継がれていく点にある。今市場を席巻しているF1種は、タネが採れないものだったり、採れたとしても不都合な形質が出てしまい、商売にならないものがほとんどなのだ。
確かにF1は遺伝子配列が限りなく均一に近いため、生産性が高い上に色や形が均一で収穫もほぼ同時期に集中して行うことができるなど、均一の規格が求められる今日の流通制度の下では利点が多い。 また、F1はタネを毎年種苗会社から購入しなければならないことが農家にとってはディメリットとなるが、元々タネのコストは農業全体の中では微々たるものだという。そのため農家にとってF1種子は明らかにメリットの多い存在となっている。言うまでもなく種苗会社にとっても、毎年農家に種を売ることができるというメリットがある。1970年代頃までは必ずといっていいほど独自に種を採っていた農家が一気にF1にシフトした背景には、農家にとっても種苗会社にとっても双方にメリットがあるF1の特徴があった。
一方、在来種は農家が味や風味などの形質を維持してきたが、F1と比べると遺伝子配列に大きな個体差があるため、色や形、大きさが不揃いになったり、成長の速度にもばらつきが出るなど、農家にとっては扱い難い面があることは事実だろう。
しかし、毎年独自にタネを採れる在来種と異なり、農家にとってF1への依存は種苗会社への依存を意味する。本来であれば土と水と太陽さえあれば、何にも頼らずに独立して食物を作ることができるはずの農業が、多国籍企業や大手種苗会社に頼らなければ何も作ることができない工業型農業に変質してしまうことになる。そして、その過程で、それぞれの国や地域が、歴史とともに育んできた独自の食文化や食との関係もまた、変質を迫られることになる。 F1種によってモノカルチャー化した作物は、特定の病気に対して耐性を持つよう育種されている場合が多い一方で、予期せぬ病気や急激な気候の変動に対して、均質化された作物が一網打尽の被害を受け全滅してしまいかねないリスクも負っている。遺伝子にばらつきがある在来種であれば、たまたま病気や温度変化に対する耐性が強い株がその中に含まれている可能性があり、それが全滅を防ぐ上で重要となる。平時には扱いにくい原因となる在来種の特徴が、有事には逆に利点となる可能性があるのだ。
しかし、仮に誰かがF1への過度の依存のリスクを認識し、ぜひ在来種を残すことに貢献したと考えたとしても、消費者としてできることはほとんど何もない。そもそも今日市場で売られている野菜は、オーガニックを含めほぼF1種だ。無農薬だの非遺伝子組み換えだのを選択することは可能でも、在来種を市場で買い求めることは、ほぼ不可能な状態にある。
F1に席巻された今日の農業市場では、在来種のタネの生産はメリットが小さい。「在来種を残していくためには、皆さんにぞれぞれの方法で在来種を育てていただくしかない。どこかに一つでも在来種の遺伝子が残っていれば、いざというときでも何とかなる」と家庭菜園やベランダ飼育も含めた在来種栽培を提唱する。
いよいよこの春から「里山『農縁』」構想の実践が始まります。いろんな人の力を借りなければなりません。まず手始めに、ガーデン設計に興味のある方、いらっしゃいませんでしょうか?お金はないのでボランティァでお願いしたいのです。資材についてもお金をかけず、木や石などの自然素材を利用して、極力自分たちで賄える資材で作りたいのです。規模は3ha程で、ここに菜園、花畑、散策路、馬乗りコースなどを設計します。興味のある方、ご連絡お待ちしています。一人ではなく、数名でできれば楽しいかな・・・
だいぶ日が長くなってきました。家の前にセンサー付きの街灯があるのですが、1か月前の冬至のころより30分ほど遅く点灯するようになりました。
北海道の母・祖母殺害、高2少女を医療少年院送致 家裁
花野雄太 2015年1月21日23時04分
北海道南幌町で昨年10月、自宅で母親(当時47)と祖母(同71)を刺殺したとして高校2年の三女(17)が逮捕された事件で、札幌家裁(栗原壮太裁判長)は21日、殺人の非行内容で家裁送致された三女を医療少年院送致とする保護処分を決定した。三女の責任能力や事件の計画性を認めたうえで、祖母や母親による虐待が動機に影響していると結論づけた。
同日、記者会見した付添人の弁護士は、三女は肉体的、精神的な虐待を受け続け、睡眠障害など心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症していたと、少年審判で認定されたことを明らかにした。
付近の住民らによると、三女は庭の草むしりや早朝の雪かきをよくさせられていた。冬に庭に立たされてホースで水をかけられ、小麦粉に青汁の粉を混ぜて焼いただけの食事を与えられることもあったという。
@yuriKANKYOU
母が「見ててご覧なさい。3日後、政府は最大限手を尽くしたけれど日本人2人の命を助けられなかった…と言い、国民感情は「イスラム国許せない!」となる。
こうしてひとつずつ事件を積み重ねて戦争になって行くの。戦争を経験したから経験でわかる。安倍さんは日本の未来に良くない存在。」と言った。
NHKが東北限定で放映した番組。
「生命に何が起きているのか
〜阿武隈山地・科学者たちの挑戦〜」
魚や野鳥、牛の免疫系の以上などを調べている...
科学者を追跡したドキュメント。
「ガンは最悪の病気。その前に、免疫力の低下などで
起きてるものがある」
鯉の組織学的異常所見や
ウグイスのお尻のおできと体力の低下など
セシウムが原因とも考えられる異常を報告する。
著作権の問題があるので、近いうちに削除されるかもしれません。
http://youtu.be/Oug_RMXjWEU
なんでこれを全国放送しないのか!
yahooニュース
上野動物園(台東区)で、このところ大型動物の死が相次いだ。長年、人気を集めてきた動物たちだけに、別れを告げに訪れる来園者たちの姿も見られた。
9日に死んだのは、スマトラトラの「トップ」(雄、17歳4カ月)。平成9年に同園で3つ子の一頭として生まれ、当時はじゃれ合う姿が人気を集めた。
繁殖を目指し、14年によこはま動物園ズーラシア(横浜市)に貸し出されたが成功せず、23年に上野に戻った。
昨年12月22日から餌を食べなくなり、投薬治療をしていたという。死因は腫瘍による多臓器不全だった。飼育下の寿命は20年ほどという。
トラ舎の前には16日まで献花台が設置され、手を合わせる人の姿が見られた。花束の中には「雄々しい姿を忘れません」「長い間ありがとう。天国で安らかに」などとのメッセージも添えられていた。
7日朝にはキリンの「コハル」(雌、17歳6カ月)が死んでいるのが見つかった。前日まで全く変わった様子はなかったという。解剖の結果は心不全で、詳しいことは分からなかった。
米国の動物園で生まれ、11年に多摩動物公園から来園。23年から雄と同居し、繁殖を目指していた。
昨年11月にはホッキョクグマの「ユキオ」(雄、26歳11カ月)が天国へ旅立っている。国内で飼育中のホッキョクグマでは最高齢。イベントなどでシャケを食べたり、遊具で遊ぶ姿が人気だった。
ドイツの動物園で生まれ、池田動物園(岡山市)で飼育され、12年に上野に来園。24年に死んだ「レイコ」と仲良く暮らしたが、繁殖にはいたらず、雌の「デア」との間で繁殖を試みる予定だった。
相次ぐ人気動物の死に、同園教育普及課では、「死因はそれぞれで異なり、関連はない。寒さなど季節的な要因でもないだろう」という。
同園で飼育するホッキョクグマ、キリンはそれぞれ1頭、スマトラトラは3頭になった。当面、これらの動物が新たに来園する計画は今のところない。
TBS系(JNN) 1月16日(金)0時23分配信
直径およそ30メートルの巨大水槽を泳ぐのは、クロマグロ。東京・江戸川区の葛西臨海水族園で、クロマグロが大量死した問題。15日、行ってみると、その姿はほとんどありません。
「さみしい。この水族館のメインだった気がしたので」(客)
死んだマグロを解剖してみると多くが背骨を骨折していたということですが、詳しい原因はわかっていません。(15日23:32)
葛西水族園、マグロ全滅寸前
内臓からウイルス検出
2015年01月20日 19時31分
そして先日のカラス大量死。
今朝は40㎝程の新雪が・・・。気温も平年並みに戻り軽いゆきになったのが救いだ。1日の最高気温がプラスになって1週間も10日間も続くというのは、この時期にしては異常でした。
昨日はまたグレーダーが路面の堅い雪を削り、玄関先や駐車場前に置いていきました。しょっちゅう来るならいいのですが、いい加減路面が高くなってから来るもんですから、10cm以上の段差ができてしまい、車が入れなくなってしまいます。堅雪をどける作業も大変ですが、この段差をなくす作業も大変です。砕いた堅雪(それにしての5.60cmもある)は、すぐ処理しなければくっついてしまったら手に負えなくなる。こんな作業をご老人がしなければならないなら、やはり町を出てゆくしかないのだろう。きめ細かな除雪、排雪作業が行政の課題であるが、先立つものがない。
Business Journal 2015.01.16
あの阪神・淡路大震災から明日1月17日で20年を迎える。マグニチュード7.3、最大震度7。神戸という大都市を含む場所で起こった未曾有の地震は、多くの家屋を倒壊させ、大規模火災も発生。6434人もの犠牲者を出した。
...
それから20年。しかしこれだけの年月が経っても、神戸は本当の意味で復興していないと指摘する声は多い。今月14日に放映された『阪神大震災20年生死を分けたドキュメントが語る! 池上彰の生きるための選択』(TBS系)の中で、番組MCを務めた池上も「“復旧”はしたが“復興”したかというと難しい。課題はまだある」と語っているほどだ。
一体、どのように復興していないのか。そのひとつのキーワードが「復興災害」ではないか。
地震などの災害は、発生直後数日の緊急対応が大切だが、その後10年以上にわたる復興の間、一命を取り留めたにもかかわらず仮説住宅で孤独死をしたり、家庭が崩壊したり、町や村が衰退していくことがある。そんな災害後のさまざまな被害を「復興災害」という。これをテーマにした『復興〈災害〉――阪神・淡路大震災と東日本大震災』(塩崎賢明/岩波書店)では、現在も続く阪神地区の数々の問題が指摘されている。著者は都市計画の専門家として復興まちづくりに関わってきた人物だが、その復興の問題をこう記している。
〈いつまでも孤独死がなくならず、まちづくりで苦悩している人たちを見て、これは災害の後の復興政策や事業が間違えているからではないかと思うようになった〉
〈東日本大震災の被災者らが、阪神・淡路大震災の復興に学ぼうと神戸を訪れ、予想に反して衝撃を受けるのが新長田の再開発事業である。そこでは震災から二〇年を迎えても事業は完了せず(現時点での目処は二〇一七年とされている)、それどころかでき上がった再開発ビルの中はシャッターだらけで、多くの商店主が日々苦しんでいる〉
そんな「復興災害」の典型が、現在行われている「復興公団住宅に住む被災者が追い立てられようとしている」問題だ。
〈阪神・淡路大震災では復興公団住宅が約四万二〇〇〇戸供給されたが、そのうち約七五〇〇戸がこの借り上げ公団住宅(民間アパートを借り上げて公営住宅として貸す)だった〉
だが現在、この借り上げ公団住宅の「借り上げ期間」が震災後20年を迎えるなか、満期を迎えようとしている。そして神戸市は入居者に「住み替えてもらう」という方針で退居を求めているというのだ。
〈入居者が何も困らなければ問題はない。しかし、大多数の入居者は現在のまま住み続けたいと希望している。それは当然のことで、入居当時六〇歳だった人は、八〇歳になる。高齢で体力は衰え、病弱な人も多い。二〇年の間に培ってきた隣近所の人間関係も捨てて、今から転居することがどれほどダメージになるか、想像に難くない〉
なぜ、神戸市は入居者への退居を進めようとしているのか。理由は神戸市の財政などにあると指摘されるが、著者はこれに対し、〈住宅というものの特性、そこでの暮らしということを全く理解しない、金目の計算であって、市民・被災者の住まいの確保・安定という住生活基本法や公団住宅法の理念に反する〉と強く非難する。
さらに、もうひとつの大きな問題も指摘されている。それが復興費流用だ。これは東日本大震災でも指摘され大きな非難を浴びている問題だが、じつは阪神・淡路大震災でも流用が存在した。
阪神・淡路大震災に投じられた復興費は16兆3000億円。しかしそのなかで、震災と直接関係しない通常事業に復興費の23%、約3兆8000億円が使われていた。
〈被災地の復興に直接関係しない通常事業の大半は『総合交通体系・情報通信網づくり』の事業(三兆三九一億円)で、そこには本州四国連絡道路等二四九四億円、地下鉄海岸線建設二三五〇億円。関西空港二期埋立八三二六億円といった巨大プロジェクトが目白押しである。いずれもインフラ整備で、それぞれに意味があるとしても、これらが被災者の生活再建や被災地の復興に直接関係ないことは明らかである〉
しかもこうした流用で次々と巨大なハコモノがつくられていくが、それらの多くは失敗や赤字だった。著者が〈とりわけ、被災者が日々の暮らしに不安を抱いていた震災直後に、市長が復興の『希望の星だ』とぶち上げた神戸空港は、多くの市民の反対を押し切って建設したものの、結局は『赤字の星』となって、いまや市のお荷物と化している〉と綴るように、被災者そっちのけで行われた復興とは直接結びつかない公共事業、インフラ整備に、巨額の復興費が使われていたのだ。
〈結局、復興には多く見ても約一一兆円しか投じなかったのに、一六兆三〇〇〇億円を復興に使ったかのように装い、多くの資金がインフラ整備やハコモノ事業に投じられ、生活再建が後回しにされ、その結果、さまざまな「復興災害」をもたらしたのである〉
しかも驚きを禁じ得ないのは、この問題が指摘されたのは震災から14年経ってからだった、という事実だろう。
復興費の流用によって、被災実態に合わない再開発、都市計画が行われ、コミュニティが崩壊し、孤独死も頻発、人口も減少、商店街の風景や人々の生活は激変させられた。こうした国や行政主導の実態に合わない計画や思惑により、一見、外からは復興したように見えても、人々の内実は現在でも“復興”とは言えない状態が存在するのである。
そして、前述のように復興費流用は東日本大震災でも発生した。しかも、阪神・淡路大震災では行われなかった“増税”により19兆円もの財源を確保し、流用規模も沖縄から北海道、果ては海外までと、類をみないほどの広がりを見せている。その裏には安倍晋三首相による「国土強靭化」政策があるのだが、この問題については、稿をあらためて紹介したい。(伊勢崎馨)
『院長の独り言』より
・埼玉県でカラスの大量死が発見されたが、原因不明である
・南風椎氏が指摘されているように「虫や鳥や木が消え始めたら、次は人間が消えていく番だ」なのである
わかっている人が読めば、背筋の寒くなるニュースが年始に流れました。
朝日新聞デジタル 1月7日(水)21時19分配信
埼玉県は7日、年末年始に県内4カ所でカラスの死骸が計111羽見つかったと発表した。いずれも外傷はなく、鳥インフルエンザの感染も確認されなかった。大半の死骸の胃に食べ物がなく、県は餓死や細菌性腸炎の可能性があるとみて原因を調べている。
県によると、県南部の入間、狭山、所沢の3市にまたがる半径3キロの範囲の3カ所で、昨年12月30日~1月6日に計81羽の死骸が見つかった。いずれも近くに雑木林があり、カラスのねぐら近くとみられる。また、北に約40キロ離れた熊谷市の砂利採取場でも1月5~7日に計30羽の死骸が見つかった。
これらの死骸から県が一定数を抽出して鳥インフルエンザの簡易検査をした結果、いずれも陰性だった。埼玉県内ではこれまで、カラスが1カ所で10羽以上死んでいた例はない。全国では秋田県で2011年2月、54羽が細菌性腸炎で死んだ例があるという。(池田拓哉)
埼玉県と言えば、ある程度の農業県ですし、しかもかなりの人口が有り、森も豊富でしょう。そんなところであのカラスが餓死するとは、非常に考えにくい。そもそもカラスは、雑食性でかつ、賢いためにいくら追っ払っても、追い払うことなどできないのは皆さんご存じの通り。
こうなると思い出すのは、原発事故当初にいわれていた鳥の異変です。2011年末にはここ、熊本でさえも鳥を見かけないとして、記事になったほどです。このように丹念に見ていれば、放射能汚染が決して東日本だけにとどまるものではないことなど、誰の目にも明らかなはずです。
人間と鳥、どちらが放射能汚染に強いのか。そして、どのような鳥が人間と同じような強さを持つのか。とても実験できないような生体実験をあの731部隊が行っていました。
悪魔の飽食―第七三一部隊の戦慄の全貌! (続) (角川文庫)p.68
元五一六隊員の証言である
ダンパーが依かれると同時に、総ガラス綴りチャンバーの外で、ストップウォッチを片手にした七三一隊民らがガラスに額を近づけて「丸太」の一部始終を観察し、16ミリ路影機が回った。
パイフから送り込まれる青酸ガスを吸い込むまいとして、台車上の「丸太」は動物的なうなり声を上げ、発狂したように身体をゆすった。次の瞬間、目をカッと見開いた「丸太」の口から白い泡が吹き出て四肢が硬直したかと思うと、がっくりと頭を前へ折り、「丸太」は絶命した。』--
「青酸ガスで死んだマルタの顔は例外なく鮮紅色を空していた・・イベリットガスで死んだのは全身水泡を発し、焼けただれて正視できぬほどのむごたらしい死体となった・・・われわれの実験では、マルタの強度は大体ハトと同じだった。ハトが死ぬときにマルタも死んだ・・・一日の実験は午前、午後を通して行ない、七三一では通算五十回以上やられた」
(注)マルタとは、731部隊で人体実験をさせられた人間のことをさす。
ハトとカラス、どちらが丈夫かは言うまでもないでしょう。
2011.7.27 に南風椎(はえ・しい)氏は、次のようにブログに書き記しています。
今年は低い木陰をのぞきこんで探しても見つからない。皆無だ。
クモ自体が消えたのか、巣を張ってもつかまる虫がいないためやめてしまったのかはわからない。
この森が異常な事態であることは断言してもいい。
街のコンクリートやアスファルトに積もった放射能は雨が流してくれるけど、土や草むらに降る放射能は積もり続けるので危険だとも聞いた。
森は土と草むらの上に乗っかっているものなのだ。
昔教わった生態学の基礎の基礎はこうだった。
「虫や鳥や木が消え始めたら、次は人間が消えていく番だ」
ぼくたちは今、知らされているよりはるかに大きな危機の中で茫然と立ち尽くしているだけなんじゃないか、という思いは日々強くなっている
福島県では奇形児は全く増えていないとか、明らかに増えている甲状腺癌も増えていない などと、主張したところで、真実をゆがめることなどできるはずもありません。
「またか……」と暗澹とした気分に襲われた。1月7日の夜、テレビが、フランスで新聞社「シャルリー・エブド」を自動小銃を持った2人組の男たちが襲撃し編集長ら10人(後に12人と修正)を射殺して逃亡中と速報を流した。男たちは「(イスラム教の)預言者(ムハンマド)の復讐だ」「神は偉大なり」と叫んでいたと伝え、犯人たちが「イスラム過激派」である可能性が高いという。昨年4月、ナイジェリアで学生寮を襲撃し女子生徒240人を拉致した「ボコ・ハラム」、12月にはパキスタン北部で学校を襲撃し百数十人の生徒たちを殺害した「パキスタン・タリバン運動」、そして、シリア、イラクの「イスラム国」……。これら「イスラム過激派」による残忍なテロ行為の被害は直接の犠牲者たちに留まらない。最も深刻な被害を受けるのは、世界全体の4分の1弱を占める15.7億人の一般のイスラム教徒たちである。世界各地で次々と起こる「イスラム過激派」による事件によって、世界中に「イスラモフォビア(イスラム恐怖症)」「反イスラム感情」が広がり、イスラム教徒への偏見と差別、憎悪が世界中でいっそう増幅されていくからだ。
(写真を拡大する)
(同記事ネット版:パリの新聞社襲撃、12人死亡 イスラム教風刺で物議)
今回の事件直後、12人の犠牲者の追悼のためにフランス全土で10万人が集まり、「私はシャルリー」というプラカードを掲げ、「事件は表現の自由への挑戦」などと怒りの声を上げたとメディアは伝えた。その声はフランスに留まらず、世界各地で広がっている。一方、各国の首脳たちも、追悼と非難の声を上げた。英国のキャメロン首相は「我が国はフランス国民と連帯し、あらゆるテロに反対し、言論の自由と民主主義を全面的に支持する」と演説し、ドイツのメルケル首相も「このおぞましい行為は言論と報道の自由への攻撃でもある」との声明を出した。日本の安倍首相も「言論、報道の自由に対するテロだ。いかなる理由であれ、卑劣なテロは決して許すことができない」と語っている(「特定秘密保護法」の強行で、国内の「言論、報道の自由」を脅かしている当事者のこの発言はパロディーのようにも聞こえるのだが)。
しかしこの事件に関する世界中のメディア、為政者たち、そして「識者」たちの「言論の自由を守れ!」論調の嵐に、私は事件当初からずっと違和感を抱き続けている。それは今回の事件の発端となった新聞社「シャルリー・エブド」の「表現」への疑問である。事件を糾弾する声が世界中で高まる一方、「なぜその『表現』は攻撃されたのか」という疑問を深く分析し考察する報道がほとんど見当たらないからだ。いやあるのかも知れないが、「言論の自由を守れ!」の声にかき消されてしまって聞こえないのだ。「もしかしたら、欧米や日本の報道の中で、それは意図的に避けられているのでは……」といぶかってしまうほどだ。
言うまでもなく、襲撃犯たちの残忍な殺害は、許せないし糾弾されなければならない。それは大前提だ。その上で、私には、どうしても消せない疑問が残るのだ。そして世界中に「言論の自由を守れ!」の声が大きくなるにつれ、私の疑問は次第に増幅していく。それはあの「シャルリー・エブド」の「表現」は、ほんとうに「守れ!」と叫ぶべき「言論」だったのかという疑問である。私は、「朝鮮人を殺せ!」と公然と叫ぶ「在特会」(在日特権を許さない市民の会)が、それを非難する声に「表現の自由だ」と反論する姿を思い起こしてしまうのである。その疑問をコラムに書かなければと準備している時に、私が言いたかったことを、すでに見事に表現している文章をみつけた。高林敏之氏(西サハラ問題研究室主宰・早稲田大学理工学術院非常勤講師)のブログである。
高林氏は、「シャルリー・エブド」の「表現」についてこう書いている。
「エジプトの殺戮:クルアーン、それは糞」と表題に掲げ、敬虔なイスラーム教徒の姿の男性がクルアーンを盾にするも銃弾で打ち抜かれる絵に「それは銃弾を食い止めない」と記している。(編注:「クルアーン」=「コーラン」)
この絵を表紙にした号は2013年7月に発行されている。つまりエジプトでシーシー将軍らがクーデタを起こしてムスリム同胞団系のモルシー政権を打倒、これに対するムスリム同胞団系の抗議運動が武力により一掃された時期に発行されたものだ。この絵はイスラーム教の聖典を最悪の表現で侮辱するとともに、弾圧の犠牲となったムスリム同胞団支持者の死を悼むどころか、その信仰・信念を揶揄するものとしか受け取れない、極めて挑発的な内容である。
この諷刺画をめぐって、在仏ムスリム団体が昨年、裁判所に告発するなど物議を醸したものである。
(International Business Times: France Satirical Mag Charlie Hebdo Sued by Islamists for 'Blasphemy')
右は2012年9月の号に掲載され、やはり物議を醸したもの。「マホメット:星が生まれる」とあるが、これまたムスリムが信奉する預言者に対する下品極まりない侮辱である。
(Eurobeats: CHARLIE HEBDO: OOPS I DID IT AGAIN!)
朝日新聞の記事によると「これまでも、ムハンマドを女性に見立てた半裸のイラストを掲載するなどし、イスラム団体などに激しく批判されてきた」らしい。
(朝日新聞: パリの新聞社襲撃、12人死亡 イスラム教風刺で物議)
charlie hebdoを検索すると多数の諷刺画の画像を見ることができるのだが、諷刺対象は幅広く、必ずしもムスリムだけをターゲットにしているわけではない。
しかし、それにしてもこれは酷すぎる。ムスリムにとって精神的拠り所であり身命にも等しい聖典と預言者に対する最大級の侮辱であり、ヘイトスピーチ、イスラーモフォビアそのものだ。しかも、何度批判されても繰り返し同種の絵を掲載するのだから、明らかに確信的に挑発しているのだ。騒ぎになるたびに「表現の自由」だと擁護してくれる者たちが多く、新聞自体も注目を集めると踏んでいるから、こういう挑発を平然とできるわけである。
これは酷すぎる。いかなる理由があれテロ殺人自体は許されないとはいえ、この新聞社を「表現の自由のために闘った犠牲者」のように持ち上げることには全く賛成できない。遺憾な事件だが、とても追悼する気にはなれない。
高林氏はさらにこう続けている。
オランド仏大統領は事件を「表現の自由への攻撃」「野蛮なテロ行為」であると非難し、「フランスは団結した国だと示さねばならない」と呼びかけたのだそうだ。
この事件は例えるなら、「朝鮮人を殺せ」「汚鮮」「慰安婦は売春婦」などというヘイトスピーチを繰り返す在特会に対し、警察や司法が何らの措置もとらない(日本など京都朝鮮学校襲撃事件の有罪判決が出たのがまだ救いだが)ことに絶望した在日コリアンの誰かが、思い余って在特会の事務所を襲撃し幹部らを殺すようなものだ。
もし本当にこんな事件が起こったなら、殺人を起こしたこと自体はしかるべき裁きを受けねばなるまいが、その心情は充分に理解可能だし、ましてや在特のヘイトスピーチと差別主義が免罪されるわけはない。それを「表現の自由」「集会・結社の自由」に対する「野蛮なテロ攻撃」だから、これに反対して「日本は団結した国だと示さねばならない」などと首相が言い出すようなら、在特のようなレイシスト集団はやりたい放題だ。
オランドの発言はまさにそれと同じである。彼はフランス国民にいかなる「団結」を呼びかけているのか? イスラーム教を侮辱し、ムスリムを傷つけ、それに対するムスリムの抗議を排斥するための「団結」なのだろうか?
かつて物議を醸した、ムハンマド(マホメット)をテロリストに例えたデンマークの諷刺画事件もそうだったが、欧州ではイスラーモフォビアが「表現の自由」「言論の自由」の名のもとに擁護され野放しにされる傾向が日増しに強まっているばかりか、イスラーモフォビアを公然と掲げる右翼政党が議会で大きく躍進する例すら増えている。
キリスト教国が「神の福音」の名のもとにアメリカ大陸、アフリカ、アジアへの侵略・植民地化を進めた歴史があるからといって、例えばイラク戦争やアフガニスタン戦争の諷刺としてイエス・キリストを殺人者に例える諷刺画が作られたとしたら(実際、イエスが殺人者なのではない)、あるいはイエスが全裸で尻を突きだしている絵が描かれたとしたら、はたまた「聖書は糞」などと呼ばれたとしたら、キリスト教徒はそれを「表現の自由」だといって擁護できるのだろうか?
自らの問題に置き換えて想像することが必要ではないのだろうか(われら日本人も然り)。
「言論へのテロの問題」として単純化せず、欧州にはびこる(そして日本にも影響を与えつつある)「イスラーモフォビアの問題」として、この事件を真摯にとらえるべきだ。(*)断っておくが、一般的なムスリムはかかるテロを正当化しない。実際、エジプトのイスラーム教学の権威アズハルのように、今回のテロを批判する声明も出ているし、大半のイスラーム法学者は同様の立場をとるだろう。
(47ニュース: イスラム権威が銃撃事件非難 「いかなる暴力も拒絶」)
イスラーム協力機構(OIC)事務局も、今回のテロ事件を非難し、遺族に弔意を示す声明を発した。「暴力と急進主義はイスラームの最大の敵である」と、この声明は述べている。
(OICウェブサイト: OIC Strongly Condemns the Terrorist Attack on Charlie Hebdo, France)
「イスラーム教を攻撃したらムスリムはテロに走る」という悪しき思い込みが広がることが心配だし、そういう危険をもたらしたことが、今回の襲撃者の最も非難されるべき点だと思う。
ただし、そのことはムスリムが侮辱的な諷刺画を容認しているということを意味するものではない。ムスリムの忍耐に甘えてイスラーモフォビアを野放しにしてはいけない。在日コリアンが実際にテロに走ることがないからといって、在特のようなヘイトクライムを野放しにする甘えが許されないのと同じだ。
(以上、https://www.facebook.com/takabayashi.toshiyuki/posts/10205718303861457?pnref=story)
死者に鞭打つのも何だとは思うが、あんなイスラーモフォビアに満ちた諷刺画を繰り返し掲載してきた人物を「タブーに果敢に挑もうとする姿勢」だと評価するのなら、在特会前会長の桜井誠だって「在日特権」なる「タブーに果敢に挑んだ」と賞賛されてしまうことになる。敵意を煽る悪質な煽動者だというのが公平な見方だろう。
フランスでは10万人もの人々が「表現の自由を」と抗議デモをしたという。非道なテロの帰結とはいえ、イスラームに対するヘイトスピーチの自由を10万人もの人々が公然と要求したと思うと、目眩がしそうだ。
板挟みの立場に置かれたフランス在住ムスリムらの恐怖はいかばかりだろうか?
「拉致」「核実験」「ミサイル発射」を行う「北朝鮮」は許せないとの世論に乗っかって、在日朝鮮人や朝鮮学校に向けられた激しいバッシングと、まさしく相似形というべき現象だ。
(以上、https://www.facebook.com/takabayashi.toshiyuki/posts/10205730441404888)
事件発生以来、これに関する報道を国内の新聞、テレビニュース、そしてBBCなど海外のメディアで注視してきたが、高林氏のように「シャルリー・エブド」の「表現」に疑問を投げかけたのは、私が見た限り、1月8日の「報道ステーション」などほんの一部のメディアだけだった。
私は長い中東取材の中で、たくさんのパレスチナ人やイラク人の敬虔なイスラム教徒を見てきた。彼らにとって、イスラム教とは生活、人生そのものだ。その聖典である「コーラン(クルアーン)」や預言者モハマド(ムハンマド)が彼らにとって「精神的拠り所であり身命にも等しい」(高林氏)存在なのである。さらにアラブ人は、名誉・尊厳を最も大切にする文化をもった人たちで、そのためなら命さえ投げ出す。そんな彼らが生きる指針とするイスラム教を冒涜することは、彼らの人間としての尊厳と存在そのものを踏みにじることである。それを許すことが「表現の自由」なのか。
「朝日新聞」の冨永格・特別編集員は1月9日朝刊に「フランスのカリカチュール(風刺)は、17世紀の喜劇作家モリエール以来の伝統といえる。19世紀以降は活字メディアを中心に、常に文化の一角を占めてきた」と書き、パリ大学の教授に「風刺はフランス大衆に受け入れられてきた。あらゆる権力や不寛容と闘い、表現の自由の限界に挑み続けてきたジャーナリズムなのだ」と語らせている。では、イスラム教徒の尊厳・人間の尊厳を踏みにじるような行為は、フランスの「伝統」であり「ジャーナリズム」として許されるのか。欧米の文化や価値観に染まりきり、非欧米世界の文化や視点、価値観にこれほど無神経な「エリート記者」の記事より、「東京新聞」(1月9日版)で紹介している日本人イスラム教徒の下山茂氏の「風刺というのは弱い立場の人が権力者をからかうもの。そうでない人を傷つけたり、おとしめたりするのは、パロディと言えないのでは」という言葉の方がよほど核心をついている。
今回の事件もまた、世界に、イスラム教とそのイスラム教徒たちへの差別意識や恐怖心、憎悪の感情を増幅させるだろうし、その「イスラモフォビア」を世界に広げるために利用しようとする個人や組織を活気づかせるだろう。実際、事件直後からフランス内外でイスラム教徒やモスクへの襲撃が頻発している。
また政治指導者たちの中には、己の政策推進のために、欧米社会で起こったこの事件(アフリカやパキスタンでの事件より、欧米で起こったこの事件は比較にならないほどその衝撃度が大きい)を利用する者も出てくることは間違いない。
イスラエルのネタニヤフ首相はその典型だ。この事件直後にネタニヤフ氏は「急進的なイスラム教徒による攻撃には国境などない。テロリストは私たちの自由と文明を破壊したがっている」と語った。氏は暗に、今回の事件を起こした「イスラム過激派」とガザ地区のハマスをダブらせて、改めて「(このイスラム過激派のように)ハマスが私たちの自由と文明を破壊したがっている」と世界に訴えようとしていることは明らかだ。国際社会でハマスを「危険なイスラム過激派」と同一視させる手法はイスラエルの政治指導者たちの常套手段だ。
実際、ネタニヤフ氏は昨年9月、国連総会でこう発言している。
「ISIS(イスラム国)とハマスは同じ狂信者たちだ。ハマスはISIS(イスラム国)。ISIS(イスラム国)はハマス。(ハマスを擁護する)国連人権理事会はテロリスト理事会となった」
氏は、ハマスがISISと違い、住民の抵抗運動の中から生まれ、住民の強い支持があり、民主的な選挙で選ばれた組織であることは無視する。また2009年8月にアルカイダ系の組織「神の兵士」がラファで「イスラム国」を宣言したとき、ハマスがこれを武装制圧し、自分たちとアルカイダ系の組織とは全く異質であることを内外に示したことも見ようとはしない。皮肉なことに、もしハマスの存在がなければ、ガザ地区はシリアやイラクのようにアルカイダ系の過激なイスラム組織が群雄割拠しかねず、イスラエルにとってさらに危険な状態になり、ハマスがそういう状況を食い止める“重し”になっている。その現実も見ないふりをするのだ。
このように突出した一部の「イスラム過激派」を他のイスラム組織や一般のイスラム教徒全体と同一視させるやり方で、「イスラモフォビア」が世界に喧伝され増幅されていく。それは今回のような事件を目の当たりにした私たち日本人の中にも無意識に浸透していきつつある。大半のメディア報道の中にそれは象徴的に表れている。しかも「表現の自由を守る」という大義名分があれば、それは正当化され、私たちは後ろめたさも罪の意識も感じずにすむ。しかし十数億人のイスラム教徒にとっては、それは紛れもなく、自分たちの尊厳と存在を脅かす“暴力”なのである。
時代の正体〈49〉ハタチの叫び 後悔しない生き方を 桑島みくにさん
2015.01.11 11:00:00 【神奈川新聞】
特定秘密保護法に反対し、首相官邸前でデモをする。今度の総選挙は投票に行きましょうとフェイスブックで呼び掛ける。そんな自分は少数派かもしれない。でも、特別な存在だとも思わない。要は、自分がいまここにあるという歴史の連続性をどれだけ意識できるか、ではないのか。
過去はいまにつながっている-。
「だから、生き方が問われているのだと思う」。横浜市立大国際総合科学部2年の桑島みくにさん(20)=横浜市港北区=は、かみしめるようにゆっくり続ける。
「当たり前だけど、過去はいまにつながっている。日本は経済発展を遂げて、豊かな生活を手に入れた。でも、その陰にはたくさんの人の犠牲があった。それを知ってどう生きるか、私自身が問われている」
戦後70年の節目に成人式を迎える。それもきっと意味があるのだろう。
■犠牲
「犠牲」という言葉を口にするのには訳がある。
島根県にある全寮制高校で学んだ。平和学習に重きを置いた学習カリキュラムに特長があった。戦争の爪痕を巡り「日本の加害性」を目の当たりにした。
広島。大久野島という島で毒ガス兵器の研究が行われ、製造されていたことを知った。
韓国。植民地支配を経験した男性、従軍慰安婦だった女性に出会った。
沖縄。本土の捨て石となった地上戦、米国による占領統治の歴史を聞いた。
「韓国の男性は強制労働や日本語による教育を強いられたことを涙ながらに語った。沖縄では、あなたの街に基地を持っていってもらえますか、と尋ねられた」
それまで教わってきた歴史は日本の被害性が強調され、自国の視点からのみ語られていたことを知った。
「戦争で受けた被害の裏には、侵略戦争で傷を負ったアジアの人たちの苦しみがあり、戦後の復興では日本に切り捨てられた沖縄があった。繁栄の裏にあった人々の犠牲。社会の不条理さを見た気がした」
それはしかし、過去の話ではない、と気付かされた。きっかけは2011年3月11日、東日本大震災。当時、高校1年生。東京電力福島第1原発で事故が起き、「すべてはつながっていた」。
「福島の人たちが人生を奪われ、健康被害への不安を抱えながら生きている状況で、原発再稼働、原発輸出でもうけようとする企業がいて、政府がいる」
在日米軍基地をめぐる問題もそうだ。「中国や北朝鮮の脅威から日本を守るために基地が必要という人がいるけれど、沖縄の人が一番の危険にさらされている。日本を守るためになら、沖縄の人は犠牲になってもいいのだろうか」
変わらぬ不条理。「犠牲の上に成り立つ社会で生きていることを知り、そんな社会でこれからも生きていきたいのかと考えたとき、答えはノーだった」
■疲弊
「生きづらい」と感じた日々があった。
小学校高学年の時、それまでのゆとり教育が見直され、学習内容が大きく変わった。「急に漢字ドリルや計算ドリルを使うようになった。学校の雰囲気も一変した」
中学では「良い成績を取り続けなければ、落ちこぼれ、社会では生きていけないといった空気があった」。成績は良かったが、心は満たされなかった。
「先生や友達が自分を認めてくれているのも、勉強ができているからにすぎないのでは」という疑心がついて回った。「一体何のために勉強しているのか」。自分を肯定的に受け入れられず、疲れ切っていた。
インターネットの世界だけでなく街中にあふれる在日コリアンへのヘイトスピーチ(差別扇動憎悪表現)も、「反日」「売国奴」といった排除のためのレッテル貼りも、根っこは同じではないのか。「ゆとりや愛のある人が誰かを傷つけるだろうか。自分自身を肯定できないような社会が背景にあるのでは」
■共感
昨年12月の衆院選は選挙権を得て初の国政選挙だった。望んだ結果には程遠かった。自民党は圧勝し、投票率は戦後最低を記録した。
やはり変わらぬ現実。落胆は小さくなかった。抜け殻のようになり、家に引きこもった。
数日後、大学の友人からメールが届いた。「これを読んでほしい」。フランスでベストセラーとなった「茶色の朝」という寓話(ぐうわ)だった。
「茶色いもの」以外は認められないというおふれが国によって出され、やがて人びとの行動や考え方が国家に支配されてゆくというストーリー。
閉ざされかけていた胸に響き、涙が出た。
「声を上げることは面倒くさいし、疲れるし、受け入れられなければつらくなる時もある。でも、やめてしまったら、社会が変わらないどころか、声を上げることすらできなくなる」
後悔したくない-。
「社会の犠牲になってきた人たちは屈辱的なことも、忘れたいことも話してくれた。誰かが排除され、誰かの自由が奪われる世の中はおかしい、と気付かせてくれた」
自分にできることなんて、たかが知れているかもしれない。「でも、聞いた人間の責任がある」。思えばメールをくれた友人は、デモに行くような子でも、声を上げるような子でもなかった。「実際に行動を起こすのは簡単じゃないけど、このままじゃいけないと思っている人は増えている」
大学では、まちづくりや地方自治を学び、都市や地域が抱える問題をどう解決するのか勉強している。
「大企業だけがもうかり、格差が広がっていく社会はおかしい。農業を通じてでも、工業を通じてでもいい。誰かを犠牲にして成り立つ社会の構造、経済システムを変える方法を生み出していきたい」
同世代に、生きやすい社会への共感は得られると確信している。
「後悔しない生き方をしたい」。屈託のない笑みの奥に桑島さんは信念を宿す=横浜市