今回は、鹿児島の旅2日目です。
鹿児島から指宿に向かう途中に、少し遠回りをしてでも、是非とも立ち寄るべきポイントがあります。
知覧特攻平和会館です。
それほど大きな施設ではありませんが、日本人として、ここは行かねばならぬでしょー!!
太平洋戦争末期に、旧日本陸軍の特攻基地があったところです。
施設に向かう道路は、桜並木と石灯篭が続いていて、たどり着く前から深い悲しみが漂っています。
桜並木の先に、飛行機が展示されています。
ちなみに、この噴水は、2年前に公園を訪れたタレントの長嶋一茂さんから
「水を使った慰霊碑を建てたい」
という申し出と寄付があったのをきっかけに市が整備し、2か月前に完成したものだそうです。
右の飛行機は、初等練習機だったものです。
左が、知覧観音に続きます。
石原慎太郎さんが、特攻隊の物語を映画にした碑ですね。
特攻隊員たちに食事を提供した、鳥濱トメさんの目線から見た物語だそうです。
今でも、その味を引き継いだ、特攻の母の店「知覧茶屋」として営業しています。
■知覧茶屋公式HP : https://tokkou-no-haha.jp/chiran-chaya/
しかし、昼食から悲しみに包まれるのも・・・あんまりなので、今回は立ち寄りませんでした。
中に入ると、すぐ正面に
信楽焼の銅板壁画があります。
後にガイドさんから説明を受けたのですが、
「紅蓮の炎をあげて燃える隼の機体から特攻隊員の魂魄を6人の飛天(天女)が救い出し
昇天させる姿を表したもの」だそうです。
仲矢勝好氏の作品で「知覧鎮魂の賦」です。
その横には「平和の世界へ」。
満開の桜並木の奥に知覧特攻平和会館や開聞岳、太陽が配置さらその上に特攻機が飛ぶ様子が描かれた影絵、
レプリカだそうです。
奥に展示されているのは、零式艦上戦闘機です。
爆薬を積んで敵艦へ突っ込む海軍水上特攻艇「震洋」も展示されています。
それより先は、撮影禁止となっております。
多くの方の遺影、遺品、遺書も、展示されています。
1036柱の隊員の遺影を、出撃戦死した月日順に掲示しています。
屋外では、隊員たちが過ごしていた三角兵舎が再現されています。
兵舎は、敵に見つからない様に、屋根には緑色に覆っていたそうです。
入り口を入ると、
(後のガイドさんのお話によりますと)
隊員たちは、わら布団1枚と、毛布3枚を支給されていたそうです。
頭の向きはどちらでも構わないのですが、朝、起こしに来る人がいるので自然に通路側に頭を向けたとか。
特攻に立つ前の夜だけ、フカフカの綿布団に寝る事が出来たそうです。
なでしこ隊の方が後片付けに行くと、枕はびっしょりと涙で濡れていたとか。
奥に抜けると、
知覧平和観音となっています。
その後は、「知覧特攻平和会館(入館)とガイド案内付き知覧戦跡巡り」というツアーをお願いしています。
■ツアー公式HP : https://kagoshima.visit-town.com/visittour/tp-cp_chiran-taxi/
集合場所は、知覧観光案内所前、赤い急須のモニュメントがある場所です。
録音などしているわけではありませんので、勘違いや記憶違いがあるかもしれません、
ご容赦くださいませ。
知覧は、知覧飛行場が多くの敷地を占めており、大刀洗陸軍飛行学校知覧分教所がありました。
町のいたるところに、その名残があります。
秋晴れの球場の端に、元弾薬庫があります。
周囲はコンクリートなのですが、屋根は木造でした。
爆発した時に、飛び散らない様に・・・という事らしいです。
油脂庫跡です。
練習機のための潤滑油やグリースを保管していました。
レンガ造りにコンクリートで覆われているのですが、
米軍の空襲を受けた時の弾の跡があちこちにあります。
コンクリートの下地である、レンガもところどころに見えています。
給水塔です。
最初はまっすぐだったのですが、次第に傾いていますね。
その、すぐ前にあるのが防火水槽です。
中はこのように、階段状になっていて、バケツで水を汲みやすいように出来ていました。
その周囲の桜・・・、
10月だというのに、咲いています~(^^♪
四季桜なのでしょうか。
特攻隊が飛び立ったのは、桜の季節。
なでしこ隊の女性たちは、桜の枝を手に見送ったとか(/o\)
戦闘指揮所跡。
なでしこ隊見送りの地です。
今は茶畑となっているのですが、ここで、遠く開聞岳を見ながら、なでしこ隊は桜の枝を手に見送った、
誰も顔を上げることなく下を向いていたとか。
彼女たちは、飛び立った兵士が2時間後にはどうなっているか、分かっていたからだそうです。
掩体壕跡です。
飛行機を敵機から隠すために格納する壕の事です。
一般的にはコンクリートで出来ているものが多いのですが、 知覧では馬蹄型に土塁を築いています。
爆弾が近くに落ちても破片や爆風から飛行機を守る為です。
敵に見つかりにくくするため、草木で上を覆っていたそうです。
実際に、模型の飛行機を格納した展示用の掩体壕です。
身を隠すのは、飛行機だけではありません。
横には、「タコつぼ」と呼ばれていた、人が隠れるための掩体壕も掘られていました。
今は、コンクリートで埋められています。
ガイドさんはとてもお品の良い方で、丁寧な口調で、熱心に伝えてくださいます。
この場所には、三角兵舎が沢山ありました。
三角兵舎については、知覧特攻平和会館の横に再現されている通りです。
ここで、ガイドさんが多くの遺書の話やエピソードを語ってくださいます。
隊員たちは、出撃前に、特攻の母と言われている鳥濱トメさんの旅館で過ごすことになっていました。
デザートまで付いたご馳走が提供されたのですが、1人の兵士が食事もしないでトメさんのところに行き
「今日は最後だから、故郷の歌を歌うよ」と言って、
アリランの曲を歌い始めました。
光山大尉、朝鮮半島出身者だったのですね。
そういえば知覧特攻平和会館入口に、朝鮮半島出身者の慰霊碑がありました。
十数人の方が、日本人として戦っていたのです!!
当時は「韓国」は存在しませんでしたので、日本人として戦うのが当然でした。
祖国独立後は反日的な世論の中で、彼らは「国賊」的存在としてタブー視されてきたのたとか。
しかし、現在の韓国軍は、日本兵として戦ってきたことで基盤が出来たのではないでしょうか。
朴槿恵の父親である、朴正煕も、日本の陸軍士官学校を卒業し、関東軍に編入され中尉で終戦となりました。
植民地ではなく、併合だったと認めてはいかがでしょう・・・。
ここで、ガイドさんが伍井中佐の話をされます。
(埼玉県の桶川飛行学校平和祈念館で撮影したものです)
その方は、32歳で、お子さんが3人いらっしゃいました。
一番下のお子さんはわずか4ヶ月でした。
一番下のお子さん宛てにも遺書を書き、「物心がついたら見せてくれ」と奥様に伝えたそうです。
しかし、その子は遺書を見る事はありませんでした。
奥様は、その後母乳が出なくなりました。
粉ミルクの無い時代でしたので、栄養を摂る事が出来ず、生き延びる事が出来なかったのだそうです。
(埼玉県の桶川飛行学校平和祈念館で撮影したものです)
飛び立つ時に、家族のいる埼玉県桶川市の上空を2度旋回し、家族に別れを告げました・・・!!
あら!?
私、その話をどこかで見ましたよ~!!
桶川市にある、桶川飛行学校平和祈念館へ行った時の事です。
当時の熊谷陸軍飛行学校桶川分教場の建物が保存されているのですが、
伍井中尉のお写真が展示されていましたよ~!!
■その時のブログでございます<(_ _)>
: https://blog.goo.ne.jp/morino-kon2/e/b341c240af6b95682b73734d55b4a193
他に、新潟県小千谷市出身の宮川少尉のお話。
色白でハンサムな男性でした。
一度は特攻出撃したものの、機体の調子が悪く帰還した経緯がありましたので、二度目の出撃です。
出撃前に、「そうだ、蛍だ、俺、この蛍になって帰ってくるよ。」と言い残していましたが、
その夜は、わずかに開いた表戸の隙間から一匹の大きな蛍が入ってきたのだそうです。
知覧の『帰って来た蛍』です。
特攻隊って、朝鮮半島も含めた全国から集まっていました。
沖縄は「捨て石にされた」とか、「見捨てられた」とか、それは違います!!
全国から、命をかけて沖縄を護りに行ったじゃないですか。
戦艦大和も駆けつけたじゃないですか。
結果的に、残念だったのではありますが、懸命に命をかけて戦ったじゃないですか!!
・・・と、思いました。
飛行場だったところが、今は広大な茶畑となっていました。
ツアーの最後は、浜田茶業さんに立ち寄りました。
大変丁寧な説明をしてくださいましたガイドさん、ありがとうございました。
知覧特攻平和会館前で、知覧茶のソフトがとても美味しいのですが、
ガイドさんのお話を思い起こすと、桜もソフトも、もの悲しいです・・・。
■知覧特攻平和会館 公式HP : https://www.chiran-tokkou.jp/
最後までご覧くださいまして、ありがとうございます。
この後は、指宿へと続きます。