こんにちは!
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は山梨県南都留郡山中湖村南西の旭日丘と
静岡県駿東郡小山町須走の境 籠坂峠(かごさかとうげ)を
取り上げてみたいと思います
籠坂峠は弟が南アルプス3000m峰5座縦走の帰り道
下山口井川から自宅へ戻る途中、立ち寄った峠道です
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旧鎌倉往還 籠坂峠(かごさかとうげ)
籠坂峠(かごさかとうげ)は、
国道138号(旧鎌倉往還)の標高1104 mの峠である
富士山と丹沢山地西端の三国山稜を結ぶ鞍部にあり、
山梨県南都留郡山中湖村南西の旭日丘と
静岡県駿東郡小山町須走の境目に位置する
古くは加古坂と表記された。「籠坂」は、
峠を駕籠で越えたことに由来する説や、
籠に石を詰め火山性の地盤を固めたことに由来する説があるが
篭坂峠と表記することもある
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古くから富士北麓地域と駿東部を結ぶ要衝として利用され、
東海道から甲斐国府へ至る官道である甲斐路の経路であり、
駿河国の横走駅(静岡県御殿場市)と加吉を結んだ
中世には鎌倉街道の峠となり、
『吾妻鏡』承久3年7月12日(1221年8月8日)条には「加古坂」の名が見られる
『吾妻鏡』によれば承久の乱の首謀者のひとりである
藤原光親が加古坂で梟首されており、小山町側の途中には光親の塚がある
また、国境であるため戦国時代には
甲斐の武田氏と相模の後北条氏との係争地になり、
大永6年(1526年)には富士裾野の梨木平において
武田信虎と北条氏綱の合戦が行われている(『勝山記』による)
江戸時代には口留番所が設置される
また、葛飾北斎は『冨嶽三十六景』の甲州三嶌越」において
篭坂峠からの富士山(裏冨士)を描いている
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籠坂峠より国道138号経てさいたま市自宅へと戻ります
最後まで御覧頂きありがとうございます
来週、廃村の南信州大平宿いろり体験宿泊地を起点に
野麦峠旧道散策、妻籠宿、馬籠峠、馬籠宿、周辺に出かける予定です
ブログ更新は一週間ほどお休みとなります
ブログ掲載は11月9日より再開の予定です
次の投稿までご機嫌よう
日本の峠は約3773件存在するそうです
かつて、山登りでいったいどのくらいの峠を越えていったのでしょうか?
よっぽど印象に残った峠道以外は>ほとんど素通りして記録に残っていないのが現状です
年のせいでしょうか 人生の峠道 苦労しながら越えて行った峠道、
車に乗り難なく越えて行った峠道、人生の岐路にさしかかり思い出しております
峠(とうげ)とは、山道を登りつめてそこから下りになる場所
山脈越えの道が通る最も標高が高い地点である
今回の記事は山梨県南都留郡山中湖村南西の旭日丘と
静岡県駿東郡小山町須走の境 籠坂峠(かごさかとうげ)を
取り上げてみたいと思います
籠坂峠は弟が南アルプス3000m峰5座縦走の帰り道
下山口井川から自宅へ戻る途中、立ち寄った峠道です
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旧鎌倉往還 籠坂峠(かごさかとうげ)
籠坂峠(かごさかとうげ)は、
国道138号(旧鎌倉往還)の標高1104 mの峠である
富士山と丹沢山地西端の三国山稜を結ぶ鞍部にあり、
山梨県南都留郡山中湖村南西の旭日丘と
静岡県駿東郡小山町須走の境目に位置する
古くは加古坂と表記された。「籠坂」は、
峠を駕籠で越えたことに由来する説や、
籠に石を詰め火山性の地盤を固めたことに由来する説があるが
篭坂峠と表記することもある
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古くから富士北麓地域と駿東部を結ぶ要衝として利用され、
東海道から甲斐国府へ至る官道である甲斐路の経路であり、
駿河国の横走駅(静岡県御殿場市)と加吉を結んだ
中世には鎌倉街道の峠となり、
『吾妻鏡』承久3年7月12日(1221年8月8日)条には「加古坂」の名が見られる
『吾妻鏡』によれば承久の乱の首謀者のひとりである
藤原光親が加古坂で梟首されており、小山町側の途中には光親の塚がある
また、国境であるため戦国時代には
甲斐の武田氏と相模の後北条氏との係争地になり、
大永6年(1526年)には富士裾野の梨木平において
武田信虎と北条氏綱の合戦が行われている(『勝山記』による)
江戸時代には口留番所が設置される
また、葛飾北斎は『冨嶽三十六景』の甲州三嶌越」において
篭坂峠からの富士山(裏冨士)を描いている
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籠坂峠より国道138号経てさいたま市自宅へと戻ります
最後まで御覧頂きありがとうございます
来週、廃村の南信州大平宿いろり体験宿泊地を起点に
野麦峠旧道散策、妻籠宿、馬籠峠、馬籠宿、周辺に出かける予定です
ブログ更新は一週間ほどお休みとなります
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