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2024/05/08
2024/05/08
③
両親への私の敬意は、他の娘たちと違って(今では決裂しちゃったので、今回の実家の放棄沙汰で妹という感覚はない、
その時に言われた言葉や、その動向は私の想像を超えてたので、印象的といえば綺麗に収まるかしら(´∀`*)ウフフ)
衰えることなく延々と続くのは、その生き様もそうだけれど、親にきつい言葉を思ったりはしない、ペアコンなの(^^ゞ
そして私が誰もが私を「我儘の限りを尽くした」との言葉通りの状況を許して(心の中は分からない)くれた親の温情
によるものなんだわ、これがね、親になって(私よ、私)初めて感じた、言葉じゃない目に見えない思いというもの、
どこをどう語っても母は父の職業には敬意を払い、嫁にいく時には祖父が尊敬してやまない女学校の校長先生の気遣いに
依る見合いで成立した結婚だった、ので、途中で降りるわけにはいかなかったようだ、
祖父は小柄だった母を心配して農家の嫁にはなれないだろうから、せめて当時は珍しかった女学校に入れた、その代わり
と言ってなんだけれど、叔父叔母が事ある毎に言うように頑張りとおした、
あの頃は車など普及してなかったので、何時間かに一本という汽車通学をした、そして駅からバスのない時には徒歩と、
もし暗くなった帰りには、叔父叔母が提灯を持って迎えに行っていた、それがどうしても不可能になった時には駅前の
豆腐屋さんに下宿した、その豆腐屋さんの息子さんは私と同じ高校の同じ学年で、縁があったんだね~と話した、
それは祖父が母を尊重して、生き易いようにとの思いやりで、それを母自身がくみとっての上での感謝の気持ちの表れと
私は解釈してるけど、今は訊く術はない、あの世に私がいった時にでも訊いてみようかな?
私から見た両親は価値観も違えば、主義主張や好みや表現の仕方(言葉だけじゃない、相手がどう思うだろうかの推論)
が違うので、性分の違いとしか言えない、母は農家の長女で父も農家の長男(この話は面白いけど今まで延々と書いた)
だから、私から見たら双家のレベルは然程の違いはないとは思える、それが大人のぉ似合いの夫婦になるだろうの結論
だったに違いないと思える、私もそう思うけれども、そこが本人達にしか分からない違和感だったとは、
傍に暮らした、ませた子供の私にしか見えない処だと思うけれども、
いいとか悪いとかは私は思わない、其々の表現の仕方が違った、それだけじゃないのかしら?
親の気持ちなんて親になったって分からない場合もあるし、親になり切れない場合もあるし、一概に親とはと銘打って
はみても多種多様、ましてや、このように複雑怪奇な(失敬)今の世は想像をはるかに超えたことになってるので、
なかなか言葉には出来ないけど、もしや私の親としての言動も、案外子らには伝わってないかもしれないと思うと怖い
出来る限り子らの”ウザイ!” との言葉からは遠い親でありたいけど、案外”ウザイ!” と思われてる節がないわけじゃない
子らもいい歳だから今更どうだこうだと私は言い訳はしないけど(笑)
2024/05/08
② 引用が長いので念のため、飛ばして頂いて~
万智センセの”愛する源氏物語” より、
初めて瀬戸内寂聴さんにお会いしたには『源氏物語』をめぐる対談のため、京都の寂聴庵を訪ねたときだった。ちょうど
十二年前の夏になる。私が中学、高校時代を過ごした福井県の武生市(現・越前市)が、紫式部のゆかりの地であること
や、そのころ勤めていた高校の話題などで、やさしく緊張をほぐして頂いた。その対談を読み返してみると、こんな一節
がある。👈引用です、
その内容は次に書きます、けど、 単行本 2003、07 文藝春秋社刊 とあるので、私は 58 歳だった、その時ご縁は無く
その12年前だと、私は 46 歳で、神奈川県の相模原市で子育てに奮闘してた、とはいえ長女は高2、長男、次男は中2と
世にいう難解な子育ての山場を迎えてた、その頃に、万智先生は我が家から徒歩◎分ぐらいの処の高校にお勤めしていら
したことになる、すれ違うぐらいはしてたのかしら(´∀`*)ウフフ
あーーー残念!その頃には歌にも興味はなく、漫然と専業主婦に明け暮れて、子らは私になにど関心もなく、ましてや
【D】に至っては「仕事だ!」という伝家の宝刀をかざして、家族に関心はなく、私は孤独だったわけですよ(笑)
今更もうどうでもいいけど、私もいずれはぉ返しはしたいと案を練ってる最中ですから、
『サラダ記念日』は俵万智さんの第1歌集。1987年に初版が発行されるやいなや、280万部のベストセラーとなった、
現代短歌の先駆け的存在です 👈 引用
1987といえば私は 42 歳になってて長女は中2、長男、次男は小5という、これまた難解な子育ての中腹で(山登りの様)
忙しい最中でしたので、ましてや趣味なんて手の届かない、本を読むくらいの頃だったでしょう、
母からの電話で、その万智センセの『サラダ記念日』を買ったから読むなら送るとの話で、私には噂には聞いてたけど、
その時には 57577 には触れもせで~だった、
「そしてその中の一首にこういう内容が、万智ちゃんを先生と呼ぶ子らがいて神奈川県立橋本高校 があるのだよと母は
言った、「その近くか?」と訊くので「そうだよ、歩いて行ける距離だよ~」と言ったら「今度、そっちに行った時に
連れて行って欲しい」と言ったのよ、何でそういう話になるのか聞いた処、
「歌会で(母は地元の歌会に参加してた、父が退職して家に居るので出かけたかったらしい ハハハ 同じなんだね、誰も)
それが話題になって、サラダが旨いからサラダ記念日というのは歌になるのか?と、私は(母は)そういうのもいいかな
とは思ったげんと、あまりに皆が反対するから黙って聞いてた、でも帰りに本屋で買ってきた、面白がった!」と感動の
様子が伺い知れて「いがったね~感性が若いということだべ」と褒めたら喜んでた、その時には母は 60 代半ばは過ぎて
ちょっと楽しんじゃおう!という心意気だった気がする、他にも畑をしたり山野草を植えたりして、自身を楽しませる術
を心得てた、時代にしちゃ、いい生き方のような気はした、まさか私がその後を辿るような日々を迎えるとは、その時は
思いもしてなかったのよ、
女学校時代の母のはじける様な笑顔の写真が消えてた残念(≧▽≦) 見つけた!👆 若い頃の父と母ですよ、
私が泣いたのは、この歌集の”あとがき”で、母は渾身の気合を込めて美しい文章にしています、恐らくはね、こうあれば
こそのあとがきだと しみじみ思ったのです、本来ならこの一冊は私が持ってくるのだろうに、子が持ってきてました、
本棚の左端にこれを見つけた時には嬉しかったですよ、子は歌に関心があるわけじゃないのでね、私にチカラがあった
なら誘いたい!でもまだ早い、母が始めたのは 52 歳、私が始めたのは 63 歳だから、子にはまだまだ日は余るほどある
それに私は親から誘われたわけじゃない、押しかけたに過ぎない、私には余るほどの日はないので焦るだけなのよ、
あれほど不仲(あら失礼、でも今はうちもそうだし、老いれば尚のこと、世の中には掃いて捨てるほど)だったというに
この一枚を歌集に載せてくれた母の心意気には感謝だよ、孫らは私の子らですよ、可愛い!!! (´∀`*)ウフフ
・・・・・なお本集の出版に協力してくれた弟並びに子供たちにも感謝しております、今まで私の短歌の勉強を励まして
くれた亡き夫の霊前にこれを捧げます。昭和 58 年7月12日の夫の命日にしるす。○○◎美
いやいやお母さん、きっとお父さんはあなたのその出版を心から支援してたんじゃなくて、嫉妬があったからあのような
言動となったかもしれないよ、でも、それはお父さんのあなたへの関心が思わぬ方向へと流れちゃっただけじゃないの?
今なら私もそう言えるけど、あの頃はそういう実感を得たことがなかったので言いそびれてた のよと言えるかも、
やっぱり両親のどちらかだけに加勢でききれないんだなぁ、だとすれば現在の私の子の言動には納得がいった気はする、
2024/05/08
①
「源氏物語は異常に好きだからね」と【D】は言った、こういう言葉を選ばない物言いが私は苦手でイラっとする(笑)
”とても”とか”飽きることなく”とかぉ品良く言えないのかね、何についても見下げた物言いしかしない、その有様が私の
現実逃避に水を差す、大河を途中下車して自室に向かう後姿は、若い頃からはマイナス状況だし(^^ゞ
仕方がないと思うけれども、もう少しは自身の部屋着や部屋の様子にも気を遣えないもんかね?家だからと言って何でも
いいんじゃなくて、夫婦とは言え、ぉ他人様との共同生活だし、その父に憧れていた息子は、今の父の姿をどう思う?
くらいの気遣いはして欲しいものだ、同居とは安心して日を過ごせばいいだけじゃなくて、少しでも”気遣い” は不可欠
だと思うのだけれど、私は化粧しない時には、眉毛は画いてマスクするくらいの気遣いはするし、部屋着も色の配色位は
気をつかってるけどね、気づいてないようだけど、
NHK さんの大河のお蔭で(私にはですよ、あくまで私)現代語訳者の
事に関心をもち、だけど本は北国の実家にあるので、都下の手元にはないので検索に頼ってるという現実、
何の話かと、このように綺麗に咲いてるバラを載せると話も選ばなきゃ、バラに失敬!ということにもなりかねないから
逡巡してたら、万智ちゃんの”愛する源氏” を詠み損ねてたのに気づいた、昨日、一昨日と歩き回ったものだから、老いの
身には過ぎた散歩だったようで、それに通いなれてた店舗が「38年のご愛顧ありがとうございました」との貼り紙、
こういう時代だから閉店の多い事ぐらいには慣れてたけど、ある程度の(9 階建て?)大きさだとがっくり、利用者には
この本には歌が中心で、その作者となる登場人物を歌から読者を惹きつけてゆくという手法で、なかなかの新たな試み、
だけど面白くも読めるし、あら、この六条御息所は嫉妬の焔を燃やしながらも、背景や光との関係や、親族はそうだった
のねという、大河の予習としては恰好の教材だった、それに其々の歌の解釈も分かり易く、なにしろ短歌界のスーパー
スターですもの、追っかけの、あ!時代的には推しの私にはうってつけの一冊ですよ、
2024/05/07
はじめて咲いたバラ、五月の雨は優しく花びらを濡らしてた、これから次々咲くでしょうけど今年のバラは気難しくて
葉っぱが思うようじゃないので植え替えでもしましょうか?
五月の薔バラ♪ 塚田三喜夫
いつも載せていたゆかりさんと塚田君のはもう載せられないようです、
2024/05/07
画像には塚田さんはいない、胸が締め付けられるような切なさでした、世良譲さんとの共演でした、その時の塚田さんの
視線の優しさや、ゆかりさんが塚田さんのキーを尊重してご自身はオクターブ下げをなさってた気配り、とても大好きな
シーンを思い出して五月の朝の涙でもあったのです、二人のぉ歌はやはり素敵です、ゆかりさんもぉ上手です、
伊東ゆかり♥五月のバラ Yukari Ito gogatsu no bara (with Tukada)
2024/05/11
春風とはいえ侮れない強風でバラの小さな花は落ちた、それを小さなお猪口に入れてテーブルの上にに置いた、ら、
子は言った「バラ酒でも飲むの?」久々の私の爆笑だった、ジョークだと思えた、ぉ酒は十分頂きすぎたのか、要らない
【D】は言った「「天ぷらにして食べるんじゃないのか?」これに私は爆笑はしなかった、こういう茶々を入れる精神を
私は(´・д・`)ヤダ、そこに未だ気づかないのか?まあね、ぉ他所ぉ人が効いたら同じだろうと言うかもしれない(^^ゞ
私が幼い頃、母は父方実家に私を連れて父の家族と同居してた、父は戦地に赴いてたので未だ家を建てるには早いとの
理由だ、でも母にはよかったと思う、幼い私は父方の実家とはいえ、祖母や叔父叔母や従兄妹や従兄半、つまりは従兄の
子という人々と大人数で暮らしてた、勤め人だった母は安心して好きな仕事にまい進してたし、出来たに違いない、
その従兄半という立ち位置に居たのがここのブログでは名高い(笑)
本家長男なのよ、当時は私は3歳未満だったので、宿敵は4歳になってはいただろうけれど、さすがにその当時の思いで
は全く私にはない(^^ゞ ”同じ釜の飯” とよく言うけれど、そのような暮らしは父が帰還するまで続いた、
その後私が 17 になった時に父の赴任地が八戸で、母は家が欲しいから(それ迄は官舎、もしくは借り上げ官舎)子らを
連れて北国に帰ると言った、
その時以来、共有名義の(本家と父)田んぼと父個人の田んぼがあるので、その所有者である父は農家として登録されて
👆のような役をも仰せつかっていたというのに、本家長男はそれが面白くないらしくて、母には邪険だったという、
それを母は根に持って、推測だけど(笑)
一切その案件には関わりたくないし、自分の名義になどしたくないと思っていたから、今まで父親名義のままだったのだ
と、そうして父が亡くなった時に「実印をもって集合!」をかけた母の本心を知らなかった私、
その時は田んぼの整備をぉ国でするので、費用無しで応じるから曖昧な持ち主については、この際ハッキリするようにと
の沙汰があって皆は動いた、大体田んぼなどの名義は、その家の何代か前の爺様の名義になってるのが通り相場だった、
それを祖母が、継農出来なかった父の為に、せめて名義だけはと踏ん張って残したのだけど、
本家筋はそれが気に入らずに、あれこれと模索してたらしい、そんな事は話し合えば済むことで、こっちは農家じゃない
(つまり持ち田は間に合ってるけど実労働はせず貸してる按配になってた、昔で言えば不在地主)のだから、
そこが母の気分の勝れない処で、その嫁という扱いに立腹して「あーそうですか?なら、私を飛ばして下さいよ!」と
なって「関わりませんよ」と決めたらしかった、
そして「娘(私は知らなかったけど、◎2が今回言ったには”お姉さんならいいよ”」となったらしい)私は関東で家庭を
ごく真面目に営んでたわけだから、田んぼなんて必要ないので、その時のことは母に名義変更すると思って駆け付けた、
◎2のその時に言った言葉を思い出した「たとえ姉妹でも訴えるよ」の意味が分かったということよ、謂れのないことで
訴えられてもなあ(笑)