映画、<楽園>の人間心理:
綾野剛演じる少女失踪事件の容疑者として、次第に追い詰められてゆく、過去の生い立ちに様々な事情を抱える孤独な、徐々に精神を病んでゆく青年、そして、不幸な惨劇を自らが犯してしまうことになる青年、杉咲花演じる、子どもの時に起きた失踪事件のその直前まで親友と一緒にいて、Y字路で別れ、そして事件後、<一人だけ生き残って>幸せになるということで心に傷を抱える少女、そして、再び、12年後に未解決のまま、同様な事件が起きる。自然に恵まれた環境の中、<限界集落>に於ける、村おこしを巡って村八分にされる何の罪もない中年の男役を演じる佐藤浩市、そして、その果ての謂われのなき惨劇といい、これらの主人公達を巡って、その周辺に関わる地域社会の人間達とその地域で暮らしてゆかざるを得ないそうした<人々の群衆心理>と誰でも良いから良いからという<魔女狩り>志向、そして、各個人のとってしまう行為とは、、、、、。<犯罪被害者とその家族の心持ち>、<あいつが、犯人だと言ってくれ!>と迫る、犯罪被害者家族である祖父役の柄本明、そして、加害者とおぼしき人物、加害者となるべくしてなってしまったその人物達の<心理的な葛藤と平然差の落差>と、徐々に、追い込まれてゆくその過程の様相とは、小さな地域、狭い共同体の中で、その一員として果たしていた人間が、いわれなき理由から、或いは、ふとした些細なきっかけから、疑心暗鬼となり、相互不信へと、徐々に、日常生活の中で、<分断、孤立化して行き、壊れてゆく過程>には、一体どこに、救いがあるのであろうか?助けは、どこにもないのであろうか?<共同体としての一員>としての<個という存在>と<地域共同体が体現する、有する無言の目に見えぬ圧力と強制的支配力>との狭間に揺れる姿、<自助努力と共助の両立>は、果たして、本当に可能なのであろうか?地域社会にその一員として、溶け込みながら、如何にして、<自己の個としての存在を共立>しうるのか?
それにしても、現実の世界では、この映画に出てきそうな話が、いくつも、思い起こされるが、その度に、どうしたら、防げたのであろうかと、、、、、。ここ何本か、立て続けに、様々な映画を偶然、鑑賞したが、そのどれにも、共通するものは、<社会的な弱者へのセーフティ・ネットを担保するもの>は、最終的には、<家族が最期の砦>なのであろうか、それとも、<地域社会による共助>なのだろうか、それとも、<自己責任をベースとした自助努力>をよりどころにした、カネがものをいうものだろうか?聞くところでは、今や中国には、一人っ子政策による弊害として、唯一の子どもに、先立たれた両親が、今日、老齢を迎えるに当たって、誰が、互いの家族の生活や介護を担ってくれるのかという問題が、大きな社会問題になりつつあると謂われているが、日本でも、少子化や結婚年齢の高齢化問題やお一人様問題、孤独死、等を含めると、どういう方向性に向かってゆくのであろうか?考えさせられてしまう。
役者というものは、綾野剛にしても、風貌も含めて、難しいこうした役柄、中国難民認定親子の言葉の問題と地域社会へ溶け込めない事から生じる精神的な葛藤と精神を病んでゆく過程の表現、とりわけ、ライターで火をつけるに至る形相など、これは、映画、閉鎖病棟:それぞれの朝でも彼が演じて見せた役者の技量には、おおいに、今後を期待しても宜しいのではないかと感じてしまう。併せて、杉咲花も、難しい役柄を、若い女性へと変貌してゆく過程を演じきっていて、これからが愉しみになる。又、犯罪被害者家族の心情と本音をストレートな形で、表現した柄本明も、十分存在感があったと思う。佐藤浩市の演技は、私には、もっと、惨劇に至るまでの心理的な課程、過去からの時間的・心理的な葛藤、私には、個人的に、愛犬を家族同然に飼っていた経験からも、色々な意味からも、解らぬ事はなく、逆に、最期の惨劇を決断する状況の表現が、もう少し欲しかったかなぁとも思う。
映画のシーンというのは、その場その場で、観ていると、<サラッと流してしまう>が、冒頭の二人でクローバーの花飾りを作る(象徴的な)シーンでも、<あの場面がどういう意味を有するものなのか>と言うことは、最期の方で、理解されることになる。又、シェパードの存在も、成る程、そういうことだったのかと言うことも、改めて、後から、納得される。映画というものは、小説もそうかもしれないが、各シーン・各カットを個々に分解して、その中で、<ある種のパズルの謎解き>のように、再構成してゆく手法は、映画を観る観客と創る側との<知的心理的な戦い>なのかもしれない。その意味で、年寄りには、知的、刺激的で、やみつきになりそうで、だから、映画鑑賞は面白いし、なかなか、やめられないモノである。