小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

英語 民間試験延期に考える:

2019年11月09日 | 社会戯評

英語 民間試験延期に考える:

 

どこかの国の文部科学省大臣が、身の丈に応じた試験対応を受験生に御願いしたいとかという発言をきっかけにしたせいなのか、どうかは、解らぬが、可哀想なのは、これまで実施想定を前提に、準備してきた受験生や関係者はたまったものではない。それにしても、英語という教科は、これまで、書くことや文法中心で、sを三人称単数の時には、つけなさいとか、耳からの発音や会話や、英語によるディベートなどは、確かに後回しになっていて、中学校から、大学卒業まで、10年ほどの長い間、学校教育を受けたところで、まともな英語での会話などは、到底達成できなかったということも確かに、事実であろう。

 自分自身の経験からしても、特別に、一部の親しい友人のように、高校時代からESSや英語検定資格試験などを受けていない限り、頭では解っていても、なかなか、会話が進まない歯がゆさは、社会に出てから、イヤという程、蹉跌を踏む思いで、そのギャップをおもい知らされると同時に、必死になって、そのハンディキャップを取り戻そうとばかりに、再勉強をしたモノである。所詮、受験勉強という前提であって、決して、英語という言語を使って、世界観を表現したり、哲学論、日本の文化を外国人達と語り合おうなどと言う<崇高な志>などは、なかったように思われる。尤も、今の時代のように。TOEICとか、TOEFLなどによる点数の評価が、課せられていたら、きっと、<受験勉強の一環>として、必死こいて、勉強しただろうが、そんなことよりも、激動の時代に生まれ、青春時代を過ごしてしまったことから、別の社会勉強の方にばかり、うつつを抜かしてしまい、<英語で国際感覚>を養うなどと言うことは、せいぜいが、小田実の<何でも観てやろう>を読んで、あのベ平連を作った男が、後日、フルブライト留学生だったことに、気がつく頃には、もはや、手遅れでありました。そんなこんなで、何も解らず仕舞いで、社会に放り出された挙げ句の果てに、悠々自適な本社総務部・人事部への志望とは裏腹に、海外営業部なる部署に、まっこと、英語も貿易も解らずじまいで、いきなり、天と地が逆転するような環境下に放り出されたことを今にして思うと、あぁ、もっと勉強しておけば良かったと後悔しても、全く、くその役にも立ちませんでした。

 有り難いことに、当時、会社では、社内英語試験にパスすると、A級が、月額5千円給与に加算されるという制度が、インセンティブで創設されていて、<ニンジンほしさ>に、高尚な志とは違って、<おカネ欲しさ>という極めて不純な動機のみで、一生懸命、ワンレッスン@5千円の外国人会話レッスン教室で、あっという間に、消えることになりました。今から考えると、オンライン・チャット会話とか、IT活用の英会話レッスンに比べると、随分、プリミティブな方策であったと愕然と致します。日々、<恥の掻き捨て>と<OJT>で、もともと、ツラの皮が厚かったのが幸いしてか、どうかは、解りませんが、課長に連れられ連れられしながら、様々な場面を踏みつつ、接待の酒で酩酊しながらも、帰宅後に、様々な<後付け復習>の成果でしょうか、入社後、5年もたてば、いっぱしの海外貿易マン風には、なり、30前後には、<食うための英語>というユダヤ人張りの人生訓を身につけるに至りました。まさか、後年、これらの延長線上で、独立事業を興し、海外貿易に、40年余携わり、<英語を武器に>生業になるとは、全く想像だにしていませんでした。

 引退後に、様々なボランティアに、携わる中で、外国人旅行者に接する度に、彼らが、<アニメや漫画、カラオケ、映画>等で、繰り返し、繰り返し、毎日、日本語の会話を学び、基礎的な知識を学んだ後で、文法などをきちんと、勉強し直して、徐々に、そのスキルを向上させてゆく課程を知るにつけ、一体、日本の英語教育は、どうなっているのかと、考え始めました。又、自分の会社で雇用した<帰国子女>の英語がうまい社員は、接待の時に、<寿司や醤油の歴史>をすしや天ぷらを食べているときに、説明してあげて下さいというと、それは出来ませんと、答えられ、唖然としましたが、その理由は、彼らは、そもそも、寿司や天ぷら、醤油の文化的な歴史を日本語で知らないという事で、英語で説明できないと言うことが、判明しました。

 何も、全員が、同時通訳者を目指すわけではない以上、中学生程度のボキャブラリーでも、十分、日常会話は愉しめるわけですし、何も、哲学論を闘わすわけではない以上、外国語教育というものは、何も、こうすれば、王道だというものはないのではなかろうかと、私は、感じます。とりわけ、仕事で、ベトナム語やタイ語や、スペイン語を現地で話さなければならないときに、私は、まず、わがままに、<私は○○したい>或いは、<○○下さい>という言葉を、真っ先に覚えることにしています。それは、<生きるために必要だから>です。そして、<ありがとう、感謝といりません!拒絶>です。この自分で作成した会話帳は、大いに役立ち、レストラン、タクシー、買い物で、大変役に立っています。

 文化論・歴史観・イデオロギー論などを論じる時には、やはり、しっかりとした<自国言語での確固たる論理>をしっかりと、有していないと、議論には、ならないでしょうね。これは、痛感しますし、それなりの英語スキルがある程度なければ、表現できませんね。これからの時代には、<読み・書き・聞く・述べる>これらを英語で、同時に、しかも、リアルタイムで、フェースタイムやビデオ・チャットで、相手の顔色を窺いながら、やっていかなければならない時代で、老い先短い私らと違い、これからの若い受験生達は、大変な時代であろうかと想像されます。小泉進次郎が、Sexy発言で、温室ガス削減をHowと外国記者から尋ねられて、言葉に詰まった如く、原稿を書いて、考察する時間的な猶予がない場面が、これからは、多くなり、真の実力が、或いは、当意即妙な柔軟な双方向での対応が、不可欠になる時代かもしれません。何も、<記述式の課題>は、英語だけでなく、国語や数学その他にも、波及していきそうであるし、そもそも、民間への丸投げの利権談合や<教育の機会均等問題>というものにも、飛び火しそうですが、、、、、。ここでは、問題が多すぎるので、後日取り上げましょう