小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

石原裕次郎を聴く:

2014年10月25日 | 社会戯評
石原裕次郎を聴く:
突然、石原裕次郎の歌が、何故か、聴きたくなった。最近では、レコード店も絶滅危惧種になってしまい、ネットでのダウンロードが主流になってしまい、年寄りには、実に面倒なことである。やれないことはないが、実に、面倒くさい話である。そこで、検索の末に、コンビニでの受け取りを選択することにした。なかなか、便利なシステムである。店員さんもご丁寧に、親切に、受け取りの手続きを教えてくれたのは、有難い話である。
歌というものは、明らかに、歌い手の生きた時代の記憶や臭いまでもが、その歌と一緒に、聴き手の耳を通して、その聴いていた時間や場所や、一緒に聴いていた懐かしい人達を、不思議と、その記憶の中に呼び覚ますものである。別に、石原裕次郎が、必ずしも、好きなのではない。団塊の世代だから、明らかに、フォーク世代に属するものの、しかしながら、ふと、そのメロディー・ラインを想い起こすと、そう言えば、何気なしに、まだ、子供だったころの50年代のキャバレーのネオンやら、たばこの煙だったり、今では、すっかり飲まれなくなってしまったブランデーのグラスやら、函館・札幌・小樽の北海道の街並みが、何気なしに、脳裏に、何処かに無意識のうちに残っている遠い記憶のように、蘇ってくるから実に不思議である。最近流行の意味不明な歌詞に較べると、山口洋子や浜口庫之助も、なかにし礼などのそれは、実に、分かりやすくて、口ずさみやすい。ギターやサックス、ピアノの音も、子供の頃に、何処かで、聴いていたような気がしてならない。流しのギター弾きのような響きである。裕次郎も、尖っていた若いデビュー当時の太陽族のイメージからは、歌を聴いている限りは、想像も出来ない程、人生に、深みと円熟味が、増しているように感じられるのは、どうした訳であろうか?たまには、優しい耳懐かしい歌を、じっくり、聴きながら、一緒に、口ずさんで歌ってみるのも、晩秋の夜長を過ごすのには、宜しいかも知れない。飾り棚に今や、腐りかけたように保存されている昔のブランデーでも、飲むとしましょうか?


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