小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

「九相図」と、松井冬子の「浄相の持続」、「夜盲症」を考える

2012年04月15日 | 社会戯評
最近、度々、美しすぎる才色兼備の日本画家、松井冬子の名前を、目にするようになった。開催されていた美術館が遠かったせいもあり、その展覧会で、実際に、彼女の作品に、触れたことは残念ながら、まだない。勝手に、これまでの知識と映像によって、知り得た中から、感じたものを書きとめる物である。嵯峨天皇の皇后であった檀林皇后(橘嘉智子)は、その信仰深かった仏教思想の影響から、諸行無常の真理を、身を以って、示すために、その死後、遺体のその九つの変化の過程を、人々の救済を願って、絵師に、「九相図」を、仏画として、描かせたと謂われている。河鍋曉斎も、「地獄極楽図」を、著しているが、それらの延長線上に、現代では、松井冬子の「浄相の持続」、「夜盲症」は、形としては、類似しているものの、どうも、その「思想性」が、異なるように感じられてならない。その「おぞましさ」や、「生と死、そして性の生々しさ」、或いは、「不浄と美の紙一重の差」、等は、一体どこから、来るものなのであろうか?「知覚神経としての視覚によって、覚醒される痛覚の不可避」やら、「攻撃型自己顕示実践型」と自称することは、「エッジの効いた耽美的なウェットで、どろっとした絵が好き」というご本人のコメントには、鑑賞する側にも、「極度の緊張と痛み」を覚悟しないと、或いは、余儀なくされるという暗黙の共通の了解が無ければ、その作品は、鑑賞できない代物なのではないだろうか、、、、、。何とも、仏画や、曼荼羅画の仏教的な「万人の救済」という宗教的なメッセージ性からは、若干、異なるような、その「内発的な攻撃性と暴力的な刃」とを「女性の性」とともに、描き出しているようにも思うが、、、、、。どうやら、注射をして貰うときに、恐る恐る、注射針の刺さるあのチクッとする瞬間を、事前に、覚悟を強いられるようなそんな感慨を、絵を観るときに、準備しておかないと、「その絵との格闘技」には、打ち負かされてしまうのではないかと、想像するが、、、、、。やはり、美術館で、見なくてよかったのかも知れない、、、、。年寄りには、体力も、気力も、消耗してしまうかも知れない、、、、、。感動は、本当に、「痛み」によって、初めて、「美」に変わるのであろうか? 




桜前線に想う

2012年04月14日 | 自然・植物・昆虫
毎年、桜の咲く頃には、一寸、人混みを避けて、時期をずらしながら、夫婦や、家族で、桜の花を眺めに行くことにしている。桜の花を鑑賞する方法も、人様々で、一番花が、咲き出す頃がよいという人もあれば、全面的に、開花した一番の盛りの時が、ベストだと考える人もあれば、いやいや、花吹雪が、舞う頃の一寸、盛りを過ぎた頃が、風流であると、感じる人、更には、桜が、散り始めて、花弁が、地面や河面を、一面覆うピンク色に染まる頃合いが、実に、情緒があると考える人、人様々、各人各様である。一番よいのは、時期に応じて、何回か、出掛けてみて、その時期、その時期を愉しむのが、宜しかろう、、、、、、。(一寸、贅沢かも知れないが、、、、、)蜜蜂の蜜を採取を生業にする人達は、色々な花々を追いかけて、開花する時期を見計らって、それに応じて、北上して移動して歩くそうであるが、桜前線も、これと同じで、各地の名だたる桜の名所・旧跡を、キャンピング・カーでも借りて、巡ることが出来たら、どんなに、贅沢なことだろうか?温泉にでも浸かり、地元の地産地消のおいしい料理を戴き、のんびりと、景色を眺めて、桜の花を観賞して、俳句でも作れれば、これに勝る贅沢はないのではなかろうかとも思う。そんな生活が、人生の中で、一度くらい、味わってみたいものである。4月のカレンダーの写真を見るにつけても、一度は、吉野の山桜が、満開の時に、見てみたいものであるとふと、思う次第である、、、、、。



銀行の信用状取引約定書、支払い承諾約定書を改めて読み返す

2012年04月13日 | 社会戯評
受付、照合、管理主管の三つの担当者の連印が、押印され、更に、重要事項には、照合の検印がなされ、終了の消印が、その上に、押されている約定書が、契約終了に伴い、返送されてきたので、改めて、その内容を読み返してみた。契約締結時には、法的な凡例に基づき、押印の異議申し立てを、おこなってはみたものの、実際には、信用状の与信供与には、全く、実質的には、効力が及ばないことは、知っていたが、改めて、その内容を読み返すと、すさまじい一方的な内容であることに、改めて、気づかされて唖然とする。とりわけ、(原債務の履行義務)や、(保証債務の履行)、それらの(弁済)、更には、約定書の(中止・解約)等の各条項内容は、当方の権利などは、一顧だにすらされていないも、同然の内容である。曰く、(銀行には、一切、負担をかけません)、(銀行が、保証債務を履行するときは、、、、、、、略、、、、、、異議はありません)、(銀行からの通知催告がなくても、、、、、求償義務を負い、直ちに、弁済するものとします)、(銀行が必要と認める場合には、いつでもこの取引を中止、解約されても、異議はありません)、等、等、それにしても、ワーキング・プアーのセーフティー・ネットも、大切であるとは思うが、これから、起業を志す若い人、或いは、独立を目指そうとする有為の人材に、何とか、アントレプレナー用の多少のセーフティー・ネットを、考えて貰いたいものである。むろん信用保証協会の無担保信用供与という枠があるが、所詮、これも、金額が小さくて、なかなか、使い勝手が、悪い物であることは、言を俟たない。今の時点で、もう一回、思い切って、起業してみようとしたら、まずは、その可能性を否定せざるをえないのは、どうしたものであろうか?成長戦略の中核は、こうした制度の拡充も、確かに、必要ではないだろうか?ふと、読み返しながら、思った。デリバティブなどの金融派生商品の契約も、同様であろう。金融円滑化法(所謂、モラトリアム法)も、期限を迎えるが、、、、、、、、。



今や、名は体を表さない?

2012年04月12日 | 社会戯評
昔の人は、本当に、よく言ったものである。「名は体を表す」と、「名はそのものの実体を表している。名と実は相応ずる。」と、然るに、現代では、その名を聞いたり、見たりしても、よく、その実が、判明しないモノが、極めて、多いような気がする。中でも、子供の名前などは、漢字自身から、読めないモノが多い。失礼に当たるから、恐る恐る、再確認の為に、尋ねることにしている。ふりがなでも、つけておいてくれないと、分からないので、困ってしまう。とりわけ、芸能人、タレントと称する業界では、全く、名前を聞いただけでは、一体、何物なのかと、想像だにすら出来ない人物が多い。源氏名、芸名、愛称、ニック・ネーム、通称、俗称、一体、「どこに、本当の姿が、隠されているのだろうか?」、もっとも、最近では、お姉系と称する露出が、多すぎて、男なのか、女なのかも、識別不能な人物が、多くなってきているから、名前だけでは、その実が、相応しているとは限らないものなのだろうか?根本的に、物事の本質を見極める基準も、今や、よく、考え直してみないとならない時代なのかも知れない。そこにあるべき物は、本当に、あるべき物なのか?何か、深遠な禅問答のようなものにも感じられなくはない。物事の本質を見極めるのも、最近では、名前や名称すらも、不可思議な得体のし得ない物になり、訳が分からなくなってしまった。昔、一時、無国籍料理というものが、持てはやされたことがあったが、名前だけに、頼る時代ではないようである。モデルや、アーティストの名前を、聞く度に、副音声ではないが、字幕で、人物データ(Who’s WHO)でも表示して貰いたいものである。もっとも、そんなことをすると、神秘性というベールが、一瞬に、剥がされてしまうので、やはり、「名は体を表さない」ことの方が、メリットは、大きいのであろう。全く、うかうかすると、騙されることが多い世の中である。落語の「寿限無」ではないが、最近では、名前が長すぎて、正式名称を言えずに、何じゃら、ほにゃにゃらと、言われるタレントも、出てきたが、、、、、、。改めて、小林秀雄氏に、生きていたら、解説して貰うことを、切に、願う。そう思うのは、私一人だけであろうか?



大病院の待合室で思う

2012年04月11日 | 社会戯評
整形外科に、本格的に、かかる前に、一度、手と脚の痺れの原因を本格的に、診てもらうべく、勧めにより、神経内科を、セカンド・オピニオンで、受診してみることにした。むろん、頸部・腰部のMRIは、又、別途、撮ることになるが、今日の所は、反射神経などの反応検査を、簡単に行い、後日、改めて、精密検査を実施する段取りになった。過去の診察や検査の資料をみながらの問診時でのやり取りからは、根本的な脳内に於ける異常は、どうやら、見られることなく、一応、脳の梗塞などよりも、腰部からの手足・指先などの末端での神経障害が、考えられるとの所見であった。4年前に、脳ドックの検査時に、意外にも発見された腰部脊柱管狭窄症の悪化は、いよいよ、本格的な治癒の必要な段階へと移ったようである。それにしても、大病院は、年寄りが、(自分も含めて)本当に、多いものである。難病治療も含めて、車椅子の患者、杖をついている患者、患者の介添えをする子供とおぼしき人も、もう既に、老人の年齢域である。老々介護とは、よく言ったものである。薬手帳の履歴、血圧資料、人間ドックのデータなど、取りあえず、整理して、ありったけのデータのコピーを、CDのディスクも含めて、提出し、セカンド・オピニオンを聞くことが出来た。確かに、社会保険の問題は、病院の待合室を見るまでもなく、或いは、介護の現場を見るまでもなく、喫緊の課題であることに間違いはない。今まで、ずっと、「支えてくる側」にいたのが、今度は、いよいよ、「支えられる側」に、廻ることになるのだろうか?4年に一度の頭と体の徹底的なオーバーホールの時期のようである。これで、来たるべき次の5年程度が、担保されればよいが、、、、、、、、。果たして、どんなものであろうか?



記憶を想い起こさせるお花見

2012年04月10日 | 自然・植物・昆虫
今年も又、お花見の時が巡ってきた。先週、上野の桜が、見頃だったので、美術館観覧の帰りがてらに、一寸、早いお花見をしてきたが、今日は、自宅近くで、いつもの如く、犬の散歩も兼ねて、行っていたが、我が老犬も、そんなに、長い散歩の行程は、無理になったので、今年は、夫婦で、自転車で、グルッと、一巡りすることとした。気温も上昇したこともあったのか、相変わらずの人混みである。善福寺川沿いの緑地公園を、サイクリン・ロードと言おうか、ジョギング・コースと言おうか、幅2m程度の小道を、ずっと、桜並木に沿って、走る。もう老木となってしまった樹勢が衰えた桜が、随分と増えたものである。満開の所もあれば、まだ、蕾が、固い古木もある。これらとは別に、成長して、大きくなり、川面に、突き出して、両岸から、しな垂れかかっている若い桜の様は、何とも、美しいものである。車椅子を押しながら、父や母を、花見に連れてきた頃を、同じ場所を通過すると、何とはなしに、想い起こす。桜には、そうした記憶を想い起こさせる力が、備わっているようである。都会の桜が、終わると、今度は、一寸遅い里山の桜の花見が、愉しみである。G.W頃には、丁度、良さそうである。天気が荒れなければよいことを祈る。久しぶりの夜桜見物も、良いかも知れない。



箸置きのある食卓風景

2012年04月09日 | 男の手料理・食
女房殿が、珍しく、夕食の時に、箸置きを出してくれた。理由を尋ねると、新聞の投書欄に、箸置きに関する投書を読んで、出してみたと説明があった。箸置きは、箸を置くときに、その先端を舐めたりせずに、片方の手を添えて、その所作振る舞いが、優雅になるそうである。一度、お試しあれ!成る程、箸置き一つで、確かに、久しぶりの日本酒の晩酌も、何とはなしに、ささやかな夕食の雰囲気も、多少、華やぐような気がしないでもない。そう言えば、ランチョン・マットや、漆の小盆、小鉢、コースター、箸置き、等の小物類は、食器も含めて、日常の食卓を、非日常の世界へ、誘うような魔術師のようなモノではないか?たまには、ぐい飲みや、お猪口も、変わったお気に入りのものや、ワイン・グラスも、一寸、音のよいグラスに、変えてみると、地酒も、ワインも、何か、一味違ったものに、感じられるのではないだろうか?自ずと、その所作振る舞いも、優雅な風流なモノになるのではないだろうか?梅や桜の花枝や、松葉の箸置きも、なかなか、乙なもので、移ろう季節を感じつつ、自然とともに、所作も一体になるのであれば、これ以上の愉しみに勝るモノは無い。エコなマイ箸だけでは無くて、何種類かのマイ箸置きというのも、良いのでは無いか。それで、ゆっくり噛むようになれば、ダイエットにも、更なる効果があるかも知れない!?食器棚に眠っている別の箸置きを、又、使ってみることにしよう。



古美術品保護と外国先駆者に思う

2012年04月08日 | 社会戯評
近年、ナショナリズムの高揚を受けて、古美術品の返還を、現在保有している国に、求める動きが、活発になってきている。確かに、昔、ロンドンの大英博物館や、パリのルーブル美術館、台北の故旧博物館で、観覧可能である膨大な著名な古美術品は、その質と言い、量と言い、実際、素晴らしいコレクションである。歴史的な背景から、それを略奪品と判断するのか、それとも、人類共有の遺産として、保存を託したと解釈するのか、とても難しいところである。日本でも、江戸から、明治期に掛けての頃、廃仏毀釈運動などによって、古美術、とりわけ、興福寺の五重塔までもが、売りに出される始末とかで、何とも、文化的な、或いは、歴史的、美術的な価値を、評価する余裕すらも、当時は、無かったのであろうか。きっと、二束三文で、売りに出されたものであろう。又、そういう鑑定家という人材すら、存在が許されなかった時代だったのであろうか?ボストンの北にあるセーラムという港町は、昔、捕鯨と東アジアとの交易拠点港として、栄えたところであるそうである。そこにあるエセックス博物館の動物学者であり、後に、大森貝塚の発見で、有名になったモース博士や、日本美術の再興に、貢献したフェノロサ、その弟子に当たる岡倉天心、フェノロサに感化された医者のビゲロー、ウェルド等、或いは、その古美術の取引に、携わった後の海外古美術商となる山中吉郎衛等、更には、異国の地での文化財の修復活動に携わった匠達、とりわけ、円城寺法明院に、揃って、分骨までしたフェノロサ、ビゲローは、シーボルトのような只単なる博物学の収集家としてのみならず、自ら進んで、文化財保護活動に止まらず、宗教、特に、密教文化、浮世絵、陶磁器、工芸品、染織、刀剣、等のそれまでの中国文化の一分野という程度にしか評価されていなかった範疇から、固有の日本文化、ジャポニズムへと、歴史の扉をこじ開けてきたことは、古美術品が、海外へ、流出したとか、しないとかという狭小な議論以前に、大いに、評価されて然るべきである。こうした系譜は、今日、文学の世界で、ドナルド・キーン博士にも、脈々として、受け継がれ、今後も、クール・ジャパンとして、発展してゆくことであろう。若い外国人美術家、研究者の活躍、更には、日本人の若い研究者の活躍にも、大いに、期待したいものである。ボストン美術館が、海外の正倉院と呼ばれても、決して、悪いことではないだろうか?価値のわかる審美眼を有する人間には、国境はないのではなかろうか?



「自爆営業」に思う

2012年04月07日 | 社会戯評
各種セールスや営業活動において、課せられた一定のノルマ(販売目標)の達成見込みが立たない営業担当者が、販売している商品を自ら購入し、ノルマ未達成部分の穴埋めを行う行為を指して、「自爆営業」と称されているらしい。とりわけ、郵政関連(年賀状など)、家電・流通・食品関連業界で、最近、顕著であると、、、、、。昔から、独占禁止法に取りざたされている「不当な優越的な地位による濫用行為」は、これまでも、百貨店業界や家電量販店、紳士服衣料量販店で、派遣社員の無報酬労働の提供などの問題指摘が、何度となくなされ、その都度、法的な是正措置がなされてきたが、未だに、形を変えて、今日でも、生き残っているとは、とりわけ、納入業者や、立場の弱い労働者や、下請け・派遣社員、非正規被雇用者の立場の人間にとっては、たまったモノではない。タコが、自分の脚を食べるようなものである。そう言われてみれば。昔、クリスマスの時期には、或いは、お歳暮・お中元の時には、ケーキやら、歳暮用の食品、おせち料理の押し売りを、販売促進用とか、自主的な販売協力と称して、よく、買ったものである。買わされたのか、自主的に、買ったのか、それとも、暗黙の了解の下、買わざるを得なかったのか、何とも、日本的な「あうんの呼吸」であったことを想い出される。もっとも、子供達が、小さかったので、クリスマス・ケーキなどは、とても、喜ばれたが、、、、、これが、自動車や、大型家電では、たまったモノではない。年間数十万円の負担では、年収の何%になるのであろうか?低成長の中、ますます、こういう不当な濫用行為が、はびこるようでは、公正取引委員会にも、しっかり、実態を調査、把握して、是正措置を講じてもらいたいものである。もっとも、本来、労働者の権利を擁護する労働組合も、今や、企業内組合化して、随分と、力が、衰えたものである。




ボストン美術館、日本美術至宝特別展を覗く

2012年04月06日 | 伝統工芸・展示会
美術館での鑑賞は、事前に、新聞論評などで、話題になっている目玉の作品を鑑賞することも、一つの愉しみではあるが、その予想に反して、それ以上に、予想だにしていなかった作品に、出会うことも、又、愉しみである。そうした感動は、何か、自分だけの発見をしたかのような錯覚に陥り、これまた、愉しいものである。長谷川等伯、尾形光琳、曽我簫白等の屏風図は、言わずもがな、又、海を渡った二大絵巻(吉備大臣入唐絵巻と平治物語絵巻)も、さることながら、伊藤若冲や、奈良・平安・鎌倉時代の仏像、曼荼羅図など、中世水墨画や初期狩野派による蒔絵、近世絵画、刀剣、染織まで、どれ一つをとっても、日本の秘宝コレクションといっても、差し支えあるまい。個人的には、こうした著名な作品よりも、むしろ、アメリカを魅了した小袖や能衣装の10領は、初公開で、なかなか、興味深いものがある。着物の染織は、成る程、後ろから、或いは、前からと、両方から、鑑賞して初めて、その染織の技巧・技術、デザイン性、色調、作者の創作意図とストーリー性とかが、初めて、理解されるものであることを、再認識した。それと同時に、これを召したであろうその人の人生、人となり、又、その情景、等が、想像されて、とても、愉しいものである。もっとも、それを手放さざるを得なくなった時の思いを、想像すると、何とはなしに、切なくなるのは、仕方ないことであろうが、、、、、。トレーサビリティーではないが、どのような理由で、誰の手を経て、海を渡ったのかが分かれば、更に、興味深いことであろうか?美術的な価値とは、事情はともかくも、現存すること、それ自体が、やはり、それなりの価値が、あるのであろうから、、、、、皮肉なものである。フェノロサは、さておき、ウィリアム・ビゲローは、天台宗の月心という法号まで、取得した日本美術の理解者だったからこそ、遠く、ヒンドゥー教の影響を醸した仏画や、曼荼羅絵図が、今日、こうして、奈良や平安時代から、タイム・スリップして、我々の眼前に、見られるのは、ほとんど、奇跡としか言いようがない。観覧者、個々人の作品に対する好みはあるであろうが、遠い昔の原作者の思いに、直接、思いを馳せること、心の眼で、時空を超えて、直接対話することが、出来ることは、美術鑑賞の大いなる愉しみであることは、疑いもない事実である、上野公園の桜も、満開に、近づきつつあるようだ。そして、スカイ・ツリー・タワーも、顔を覗かせていた。様々な手法で、「日本の美」を、堪能できる美術展覧会である。



春の花達が咲き出した。

2012年04月05日 | 自然・植物・昆虫
春の花達が咲き出した。
静岡のお墓に、一寸、時期をずらして、墓参りに行ってきた。確かに、長野に較べると、静岡は、ずっと、暖かいことが、道中の途中、途中の花の開花でも、容易に、了解出来る。桜の花も、所によっては、もう、6-7部咲きであろうか、淡いピンクの花を、咲かせている。東京の家でも、東側の通りに面した花達は、陽当たりがよいのか、白木蓮を先頭に、黄色のれんぎょうが、花房を垂れている。又、古木となってしまった雪柳の花から、こぼれ落ちた種から、発芽して、育った子供達が、塀と道路のほんの僅かな隙間から、白い花を、これでもかと言わんばかりに、目一杯に、その花々を咲かせている。雲南黄梅は、やっと、咲き始めたが、水仙などの球根類は、もう、盛りを過ぎたモノがある一方で、これから、やっと、咲き始めるモノもあるようである。これらが、ひとあたり、終わると、ピンクと白の花桃の花が、咲き始め、一気に、春めいてくる感がある。そして、姫りんごの花、コデマリ、ビョウ柳を経て、一連の春の花達の共演も一段落する。そして、青葉の季節を迎えることになる。



シジュウカラの巣作りが、今年も、又、始まった。

2012年04月04日 | 動物・ペット
杉並の家には、玄関の横にあるハナミズキの木に、巣箱が、一つ、もう一つは、小さな書斎の窓越しに観察できるように、白梅の木の二股の間に、据え置いてある。もう、ここ、4年くらいは、毎年、連続して、これらの巣箱に、シジュウカラが、巣作りをして、営巣・産卵・抱卵・孵卵して、その子孫達を、十何羽以上も、旅立たせてきたが、今年も、又、ジュジュジュ、ピー・チュチュと、鳴きながら、恐る恐る、慎重に、巣箱に、近寄り、小さな入り口から、緑色の苔をくわえて、巣の中へと入っていく。2年程前には、卵からかえった雛が、掃除用に開け閉め出来るようにしておいた屋根の蓋が、空いてしまったために、カラスに、連れ去られ、食べられてしまったが、それからは、構造を変更して、締め切るようにした。玄関の通りに面した巣箱は、卵がかえると、ピーピーと、大きな声で、餌をねだるので、卵がかえったことが、すぐに分かる。その頃には、青虫や、毛虫、蜘蛛を、主食として、親鳥が、交代で、ひっきりなしに、餌を運んでくるのである。今年は、何羽が、巣立って行くのか、大いに、楽しみである。


小水力発電を、考える

2012年04月03日 | 社会戯評
自然再生エネルギーの一日も早い開発・実施が、望まれて止まないが、長野県では、メガソーラーや、太陽光・風力発電、地熱発電、或いは、潮流・波力発電などと並んで、小さな設備投資で、且つ、天候に左右されずに、設置できる「小水力発電所」が、今、改めて、注目されているらしい。既存の農業用水や水道管の中まで、一定程度の安定した「水量と落差」があれば、設置条件に応じて、4種類の水車から、最適なものを選んで、設置可能であると、、、、、、。流体学を研究している信州大学を中心にして、メーカー各社が、現在、協同で、研究開発しているそうである。大規模な設備投資を伴わず、あるがままの自然の立地を生かして、超小型水力発電装置を設置出来れば、むろん、発・送電の分離や、電力選択制、複雑な水利権という問題等は、まだ、残っているが、こういう分野にこそ、成長戦略の核を据えるべきである。県内では、有力な場所だけでも、長野県には、1600ヶ所もあるそうである。新潟県・富山県・群馬県・福島県も、大変有望で、潜在的な立地の可能性が、十分見込まれるとされているが、、、、、、。PPS (特定規模電気事業者)も、積極的に、地方の首長とも、協同で、参入を積極化してもらいたいものである。いずれにせよ、出来るところから、一日も早く、始めることが、肝要であろう。日本人は、先人同様に、知恵と頭脳を働かせる以外に、生き延びる手立ては見つからないのであるから、、、、、、。



世界地図を、改めて、眺める

2012年04月02日 | 社会戯評
信濃毎日新聞の販売店が、愛読者各戸へ、そのお礼に、世界地図を配布したらしい。新聞の折り込みチラシの中に、入っているのを見つけた。昔、船会社から、机の上に、汚れ防止用に、大きな世界地図を貰ったことがある。ゆっくり、世界地図を眺めるのは、本当に久しぶりである。おまけに、国旗が、一緒に、枠の淵に、掲載されているのは、有難い。じっくりとこの世界地図を眺めると、子供の頃に、勉強した国と、随分と、異なっていることに、とりわけ、様々な国が、新たに、表記されていることに、改めて、驚かされる。むろん、ソヴィエト連邦の崩壊後、新たに、独立した中央アジアの諸国、バルト三国を始め、旧東欧諸国、旧ユーゴスラビアや、まるで、第一次世界大戦前の分布図のようである。又、アフリカに至っては、悉く、子供の頃に覚えていた国名は、新しい名前に、変わっていて、それこそ、以前の合併前の銀行名ではないが、昔の名前で、出ています式に、旧名と併記でもしてくれないと、どこの国なのか、さっぱりと、分からない。困ったものである。確かに、グリニッチを基準にしているから、極東であるが、南北を逆にして眺めてみたり、極西を中心に、眺めてみると、全く、新しいものの見方も出来るものである。それにしても、随分、小さな島々が、小さな国家が、カリブ海、南太平洋、等に、現存していることを改めて、確認出来る。そこには、人それぞれの家庭が、人生が、詰まっているかと思うと、たまには、ゆっくりと、世界地図を眺めるのも悪くはないと、ふと、思った。



雨上がりの早春の朝の空気

2012年04月01日 | 自然・植物・昆虫
まだ、肌寒く、深呼吸をすると、吐く息が、白く、長くなる。毛糸の手袋が必要である。しかし、何とはなしに、そんな中でも、やや、空気が、春めいてきた感じがしないでもない。これまでは、未だ早い、早春の朝の空気を、現地で、味わったことがなかった。今年は、初めて、遅い早春の、しかも、雨上がりの爽快な新鮮な空気を、味わうことが出来た。何とも、清々しい空気である。とりわけ、雨上がりであるから、里山の林の中の空気が、ひときわ、美味しく感じられる。我が老犬は、相変わらず、いつもの場所で、鼻を草の中に、突っ込んで、何かの臭いをクンクンと嗅いでいる。耳の後ろに、草の雨粒が、見事に、一粒、ぽつんと、毛先に、浮かんでいる。時たま、何を思ったのか、猟犬の血が混じっているのか、急に、ジッとして、前脚首を、折り曲げて、何かを狙っているような仕草を始める。きっと、眠っていた野生の本能が、刺激されるのであろうか?その後、また、いつものように、トボトボと、歩調を、まるで、私に合わせてあげているよという風に、歩き始める。こんな新鮮な空気を毎朝、吸っていたら、長生きする筈である。長野県は、死亡率が、低い県らしい。成る程、頷ける。