小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

朱健栄教授、スパイ容疑で、取り調べに思う:

2013年09月15日 | 社会戯評
朱健栄教授、スパイ容疑で、取り調べに思う:
既に、もう50日以上も前に、行方不明で、中国の当局による取り調べを受けていたという噂が、広まっていたが、結局、公式に、中国当局が、スパイ容疑で取り調べ中であると、確認された。日本人女性との結婚を機に、生活と研究の拠点を日本に移したにもかかわらず、党員権を放棄したにもかかわらず、中国籍は、保持し続けていたのが、裏目に出たのだろうか?それにしても、先般の韓国政府による日本国籍を有する呉 善花女史に対する、その親日反韓言辞に対する入国拒否(国籍転化したから、拘束は免れたのであろうが)といい、今回の朱教授に対するスパイ容疑の取り締まりといい、何やら、かの諸国でのこうした動きは、どうも、理解に苦しむものがある。恐らく、自国に有利な思想的なオピニオン・リーダーとは謂わぬが、「ある種の思想統制」ならぬ、ある方向への「大衆心理の思想誘導」のようなきなくさい臭いが漂ってくるような気がしてならない。一体、朱教授は、いつになったら、自由に、この間の経緯・事情を、以前のように、TVで、歯に衣着せぬ物言いで、あますことなく、白日の下に、さらけ出すことが出来るのであろうか?それとも、一連の民主家への弾圧同様に、戦前の治安維持法の如く、有名無実の法律の下で、非合法で、不当な拘留と思想改造工作が、続けられるのであろうか?赤裸々な物理的な暴力的な形でのこうした動きと、一方、「有識者懇談会」とか称される一見、極めて、民主的、且つ、法に則った幅広い民意をくみ取り、意見を代表するソフトな仕組みと、果たして、どちらが、正しいのであろうか?内閣法制局の在り方など、果たして、かの国のあからさまな手法を、我が国は、如何にして、こちらは、正しいと断言出来うるのであろうか?然るべき「世論の誘導」という点に於いて、その手法は国柄で異なるものの、どちらにも、共通しているところはないであろうか?それにしても、中国籍であると云う事だけで、皮肉にも、不当拘束されるとは、この朱教授は、今後、それでも、中国国籍を保持し続けるのであろうか?仮に、釈放されて、帰国した暁には、それとも、出国どころか、出獄(?)来なくなってしまうのであろうか?


SNSは、果たして、仮想から現実的な運動体たり得るのか?:

2013年09月14日 | 社会戯評
SNSは、果たして、仮想から現実的な運動体たり得るのか?:
セミリタイヤー後に、やむなく、SNSに参加することにしたが、実際、「六次の隔たり理論」ではないが、確かに、人脈というか、様々な情報源へのアクセスは、拡がることは間違いなさそうである。もっとも、その段階から、ある種のオピニオン・リーダー、(このリーダーという言葉が、実に厄介な存在ではあるが、なかなか、適切な表現上の言葉が見つからない。謂わば、コンセプト・コーディネーターとか、オピニオン・サポーターとかいうものであろうか?)、或いは、その延長線上での仮想ではない「現実的な運動体」に機能させるには、一体何が、必要条件としてあげられるのであろうか?実に悩ましい限りである。既に、コンセプトに、ある程度、共鳴している目的意識が明確になっているクラウドのような人々、即ち、「その生活しているところをもっと良くしたいと願う、そういう志しを有する人々」が、少なくとも参画・参集している限り、このパワーを、行政も含めて、ある一定の地域振興や、活性化に、繋げられれば、結果として、それは、補助金を貰っていようが、いまいが、それで結構ではないかと思われる。何も、「一身独立して、一国独立する」とまでは謂わぬが、、、、、、、。もっとも、これまでの経験値から云えば、補助金の切れ目が縁の切れ目であろう事は、事実である以上、これを糧に、或いは、起爆剤として、使用することは決して、間違いではなかろう。むしろ、その間に、どのような仕組みを構築すれば、自立的な運動体となり得るのであろうか?但し、何事も、市場経済の枠の中では、イベントを行なうにしても、経費・時間・労力は掛かるわけで、そのコストのブレイク・イーブン・ポイントは、一体どこまでが、許容され、(無償労働提供のボランティア活動は、ありがたいもので、これは別にして)その為には、事前に、何を準備したら良いのだろうか?どのくらいの規模を想定したら良いのかを、少なくとも、クローズドな範囲でも、中核事務局スタッフや関係者間で、アカウンダビリティーを、きちんと、設定していなければ、少なくとも、反省・展望・改善も、出来ないのではないかと感じる訳です。SNSの会員は、年齢層も又、考え方も、多種多様であり、つかみ所のない仮想のクラウドのようなものかも知れません。しかも、毎日、現役世代で、仕事を持ちながら、メシを食って行かなければならない若い人々が大半であろうかと推察しますが、一人一人の異なったレベルで、例えば、肉体労働が無償提供出来るヒトは、無償肉体労働奉仕で、或いは、ITのノウハウを有するヒトはIT分野で、私みたいな腰を手術したリハビリ中の年寄り人間は、肉体労働ではなくて、お金を街に落とすことで、商品を購入したりと、それぞれの得意な出来うる範囲の役割分野毎で、運動に、参画すれば宜しいのではないでしょうか?それでも、未だ、そうした運動が本格的に、地域を活性化されるような具体的にお金が落ちて、廻るような仕組みを作り出すには、どうしたらよいのでしょうか?飲んで、喰って、喋って、面白、おかしく愉しむことも、悪いことではないのですが、どうも、自己満足の行きを脱することがなく、その延長線上に、何か、別の目指すべき約束された地は、見いだせないのでしょうか?確かに、その延長線上で、起業支援とか、iターン機会の醸成とか、農業・林業・酪農業・飲食・芸術・音楽・絵画・もっと広い意味での文化活動の支援、エコ活動、再生自然エネルギー支援、(欲を言えば切りがありませんが、)広い意味での行政への働きかけ、或いは、外部オピニオン・リーダーたる役割を、具体的に、担える一員になれれば、それに越した事はないでしょう。SNSは、何もその地域に住んでいる人達ばかりではないので、その意味で、外部からの「開かれた眼」を「内向きの眼」とは、異なった視点から、意見を仰げるのも、素晴らしい特徴であります。出来うることなら、結果的に、何とかお金が落ちる仕組み、(飽くまでも、仕組みを作り出すこと、お金を落とすことではなくて、そう言うと嫌がるヒトもいらっしゃるかも知れませんが、)実際、地方都市に住み始めて、大都会に較べて、賃金が低いとか、雇用の場が少ない、等を風聞するにつけ、やはり、起業というと大げさですが、幅広い意味での、安定して長く働くことが出来る、子育てが出来る地域作り、IT分野での仕事でも良し、何でも結構ですから、そういう地域作りに、具体的に、会員各位が、それぞれの役割の中で、協働できるような、出来れば、コンセプトから、運動体へ、そして、点から線へ、そして、面へ、更には、立体へと、発展してゆけるそういう仮想空間ではない、現実に、展開できる場であり、且つ、機会でありたいと、私は、位置づけております。そういうことを出来うるような運動体をSNSに期待するのは、無理なのでしょうか?NPO活動でも、FBでも、ツィッターでも、山を動かすムーブメントの原動力はあっても、どのようにしたら、高い志しを、形あるものに、結実できるのでしょうか?試行錯誤は、続きます。



いよいよ、絵本が9月26日発行予定にまで漕ぎつけました:

2013年09月13日 | 書評・絵本
いよいよ、絵本が9月26日発行予定にまで漕ぎつけました:
未だ、我が老犬の介護に追われていた今年の3月頃に、ふとしたきっかけで、「だから、わたしは”ラッキー”なの!?」(英文併記:That’s why I am “Lucky” !?)という絵本の創作構想を立ててから、試行錯誤の末に、様々な方々の専門的な助言とアドバイスによって、何とか、刷り上がり最終見本を手にすることになりました。これに伴い、後は、残された作業として、最終微調整と修正を行い、今月末頃までには、(一応、9月26日発行予定で、)ネット販売の方も、準備をして貰うことになりました。同時に、URLの取得も予定しています。
(絵本の内容紹介)より ココデ出版用
子供達が犬を飼いたいというので、やや脚の衰えた父の散歩のお供も兼ね、大田区の城南島動物愛護センターの里親募集に応募し、講習会の末に、子犬を貰ってくることに家族会議で決定されました。殺処分される子犬を貰うのだから、口笛に反応する子犬を選ぶことに初めから、決めていました。だから、名前も、”ラッキー”としようと。4匹の姉妹犬の内、一匹だけが、耳がピンと立っていて、初めから、ゲージ越しに、しっかりとこちらを見ている。口笛を吹くと、スタスタと近寄ってくるではないか?「私を助けて下さい」と哀願するような眼で、アイ・コンタクトを外さない。外したら、「命の糸」が切れてしまうのではないかと訴えているようであった。向こう側に廻って、再び、口笛を吹いても、この子犬は、近寄ってきた。係の人に告げると、「この子犬は、良い犬ですよ」と、太鼓判を押してくれました。それからというものは、絵本のストリーの通りです。もし、人生とか、運命とかというものがこの世に、否、「犬の世界」にもあるとしたら、きっと、この子犬は、必死になって、わずか3ヶ月の幼い「命の細い糸」を、自らの力で、手繰り寄せようとし、口笛に引き寄せられたのかも知れません。それは、丁度、今日、虐めや自殺・差別・貧困の問題を抱える、或いは、生きる力を失いつつある、更には、病床に伏せっている子供達に、改めて、生き抜く力とは、何か、死とは、殺処分という事は、何か、家族とは、何か、自分にとって、どういう存在なのか、別れるとは、どういう気持であるのか、等々を、「犬の気持を通して自問自答」してもらう良いきっかけになればと思っています。こんな幼い子犬ですら、自分自身の人生を、必死に切り拓き、ガス室から奇跡的に、生還し、新しい家族の中で、様々な「出逢いと別れ」を経験し、四季折々、新しい家族と過ごし、一緒に、子供達の成長を見届けながら、年毎に、共に、成長してゆき、やがて、歳を重ねるに連れて、身体が衰えてゆく、そんな「犬の一生」を、きっと、子供達は、まるで、「自分の人生」模様のように感じて貰えれば、これに越した喜びはありません。もしも、自分が、この犬の立場になっていたら、皆さんは、果たして、本当に、「だから、私は、ラッキーなの!」と思えるでしょうか?それとも、「だから、私は、ラッキーなの?」と、疑問符がついてしまいますか?答を教えて貰えないままに、”ラッキー”は、逝ってしまいました。



誰だ!キノコをかじる奴は?:

2013年09月12日 | 自然・植物・昆虫
誰だ!キノコをかじる奴は?:
昔、中国のマツタケの輸入に関係していた友人から、「収穫する前には、周りに、農薬を播いて、ナメクジなどに、かじられないように対策するので、自分は、マツタケを食べないのだ」という話を聞いたことがある。むろん、事の真偽の程は、よく分からぬが、少なくとも、何ものかが、恐らく、夜であろうか、相当な勢い(食欲)で、かじっていることだけは間違いなさそうである。周囲には、直系1センチくらいのロート状のギザギザした歯であろう丸い歯形のような跡も散見される。暗視カメラでも据え置いて、撮影したいところである。ナメクジなのか、それとも、甲虫類の一種なのか、実に、気になってならない。過日、森や木々の中からの不気味な声が、どうやら、「雨蛙の鳴き声」であることが判明して、一安心したところであるが、悩ましい難問が又ひとつ、出てきた。かじると云うことは、毒キノコではないのだろうか?私は、残念乍ら、キノコ・アレルギーで、抗ヒスタミン剤を服用しないと、耳道の奧まで、炎症で、痒くなってしまう。その昔、海外出張の時に、大型ロブスターとマッシュルームのソテーを食べて、ホテルで、耳の中を爪でひっかいて、バイ菌が入り、外耳炎と瞼の上が、腫れ上がり、ドクターに、抗生物質を処方して貰ったものの、服用した抗生物質が多量で、身体が、一挙に、云うことをきかない程、だるくなった経験をしたことがあった。それ以来、ロブスターとキノコは、いけませんね。(大好物なのに)、ブナヒメジや、まさに、今、様々な種類の美味しそうな旬のキノコが、店頭に並び始めている。バター・ソテーや、醤油で炙って半生で食するのも、悪くはなさそうである。自分で、キノコ狩りなどが出来て、キノコ汁などを味わえたら良いのになぁとも、思わず、生唾を呑み込んでしまいます。抗ヒスタミン剤を服用してでも、少しくらいは、食べてみることにしようか?折角だから、、、、、、。



アベノミクスならぬアベノピックスだそうである?:

2013年09月11日 | 社会戯評
アベノミクスならぬアベノピックスだそうである?:
それにしても、フランス語云う代物はどうしてどうして、どっこい、まだ、欧州の主導権を握る機構の中では、政治や経済の場での英語(実際には、米語が、国際標準なのかも知れないが)に対して、その存在感を改めて、如実に示したことに驚きを隠せない。オリンピックの誘致が、おもてなしの滝川クリステルや皇族によるフランス語のスピーチもさることながら、英国のコンサルタントのお陰(?)で、各IOC委員の考え方や動向、人脈やら、ハグを含めたロビー活動の在り方やプレゼンテーションに関わるアドバイスなど、どれ程の資金が費やされたのかは分からぬが、その前回からの累積投資額(誘致の必要経費=税金なのであろうが)と効果・リターンに見合った3兆円とも4兆円とも云われる経済効果を、「心のデフレ」からの脱却とインフラ整備に伴う成長戦略の「第4の矢」で、どれ程、獲得できるのであろうか?7年後に向けて、既にカウントダウンが、既に、はやくも始まった。日本人は、定められた目標に向かって、工程表をきちんと作って、実施するのが得意であるから、もう、交通インフラ・高速道路の整備や拡充、新駅の計画、羽田・成田間の高速鉄道網の再整備や、果ては、福祉・健康までも含めた施設のその後の使用方法など、雇用面(全国的には15万人の新規雇用が期待できると言われているが)までも、いまから、期待されているという。もっとも、前回の東京オリンピック後には、「宴の後」の結果、赤字国債を発行せねばならなくなり、結局構造不況と云われた景気の底に陥ったことを我々は忘れてはならないであろう。臨海副都心は、それでなくても、間違い無しに、埋め立て地であるから、地震の際には、大規模な液状化被害に見舞われることは必至であるし、津波などには、ひとたまりもなく、防災・減災・地盤改良対策・耐震構造の強化、果ては、防波堤の建設までも、急がなければならない。前回の新幹線の開業に対して、今回は、既に、リニア新幹線の前倒し一部開通も、財界からは、囁かれ始めている。震災復興も、汚染水のコントロールという国際公約も、7年後には、どうなっているのであろうか?3.11の時にも、ヒト・モト・カネが、東北に集中して、工賃や資材が値上がりした経験からすれば、間違いなく、又、東京一極集中になるであろうことは、市場経済の流れであり、容易に予想がつこう。捕らぬ狸の皮算用ではないが、もう、小学生高学年や中学年アスリートが、注目され始められている。又、海外観光客の倍増を目指して、年間2000万人目標も、今や、観光庁により強気の皮算用である。まるで、失われた20年間の萎縮した日本人の内向きのマインド・コントロールが、一夜にして、解消・逆転したような精神的高揚感のバブル状態、躁鬱の鬱から、一気に、躁状態に、日本中が突入したようなそんな状態であろうか?今回は、パラリンピックも同時開催であるから、バリアフリーに向けての施設の改修も期待されようが、東京だけが良くなって、又ぞろ、地方が置き去りにされてしまう可能性がないとも限らず、収益・余剰金の地方への配分とかも、ITネット利用のチケット販売とも相俟って、FIFAワールドカップではないが、検討課題にして貰いたいところである。それにしても、これ程までに、不得手であった大げさなジェスチャーを交えたプレゼンテーション(もう、ミズノの会長の笑顔には、笑ってしまうが)や、緻密で利益が交錯する多数の委員各位に対する情報収集や積極的なロビー活動が、出来るのであるから、何故、もっと、外交面でも、アメリカの韓国ロビーによる従軍慰安婦像の設置などに対しても、より効果的なロビー活動を図れないものなのであろうか?非常に、残念でならない。日本人は、改めて、熱しやすく、醒めやすい民族であることが、思い知らされる。持続的な成長を促すような、或いは、心のデフレという一種のマインド・コントロールを克服して、未来に向かって、希望が持てるような若い人々、とりわけ、これからの日本を背負って行く若人達に、何はともあれ、「心の開国へのきっかけ」になって欲しいものである。せいぜい、こちらは、年寄りボランティアでのお手伝いで、外人観光客のサポートやゴミ拾いでも出来れば良いだろうか?もっとも、もうその頃には、72歳である。冥土の土産に、何か、一つくらい、競技をみておくとするか?そう言えば、1984年ロスアンゼルス・オリンピックの開会式のチケットを、出席できなくなった人の代理で、間近に、観たことを思いだした。もう随分と遙か昔のことになってしまった。



上田合戦、「真田幸村公出陣ねぷた祭り」を観る:

2013年09月10日 | イベント 祭 催し
上田合戦、「真田幸村公出陣ねぷた祭り」を観る:
私が、まだ、小学生だった頃に、自宅に下宿していた青森出身の大学生さんが、地元に戻って実家の旅館を継いだので、後年、学生時代に、「青森のねぶた祭り」を亡き父と一緒に、観に行ったことがあることを想い出す。「ねぶた」と「ねぷた」の違いは、前者が、戦勝時と大型の立体型で、人形型に対して、後者は、出陣時で、扇型、鏡絵と見送り絵(正面と裏面)であるそうです。青森のねぶたが、伝統的な専門的な匠によって製作されているのに対して、どうやら、真田のそれは、中学生の美術部が描いたり、絵師が、製作したりと、まだまだ、その歴史は、これからではあるものの、少年スポーツ団や地域の自治会やら、職場単位であったり、相当な組織的な底辺の拡がりと可能性があるように思われる。春の上田城千本桜祭りや秋のケヤキ紅葉祭りに加えて、夏祭りと位置づけられるのであろうか?とりわけ、若い人達の参加が多く、真田祭りとは、やや、趣を異にするものの、歴史的な伝統を有する真田鉄砲隊の実演やら、真田陣太鼓など、更には、甲冑武者行列や大名行列を模したものや、真田おもてなし隊やその他の地域のおもてなし隊なども、併せて、参加するなどの工夫が凝らされていた。やや、大河ドラマの誘致を意識しての街をあげての署名活動など、若干鼻持ちならないところも感じられないことはないが、まぁ、それもよしとしようではないか?上田という街は、やはり、真田一族の栄光と歴史の厳しい処断を、今日でも、観光資源を重要な中核要素として、季節に応じて、徹底的に活用して行こうとする戦略であることに間違いなさそうである。真田幸隆・昌隆・幸村(信幸)という真田一族の三代の系譜が、脈々と連綿として、今日まで、地域・郷土の誇りとして、会津のような「敗者の誇り」としてではなく、むしろ、徳川という「勝者を斥けたという誇り」として、受け継がれていることは、驚くべきことである。それにしても、パフォーマンス広場でも、次々に、繰り広げられた踊りやダンス、とりわけ、青木村の「壁塗り踊り」(これは、実にユーモラスで、面白い)や、地元ローカル・アイドルグループのダンス(めじゃーでなくても、ちゃんと、それとおぼしきオタクの応援団が最前列で応援してくれているのは実に在りがたいものである。)や、外国のヒップ・ホップばりの曲に、盆踊りさながらのニュー・ウェーブな着物を着飾った女性グループによる踊りには、何とも、驚かされた。うまく、曲のイメージとリズムに、三味線をアレンジして、しかも、これに、着物でも踊れるようなスローな振り付けを施して、曲に合わせて踊るとは???こんな風なことが可能であれば、外国へ、もっと、売り込んでみたら宜しいのではないだろうか?きっと、人気を博すことは間違いないのではなかろうかとも思われるが、、、、、、。大変驚くと共に、一体、これを主宰している振り付け師は、どんな経歴なのであろうか?こんな所にも、真田の心意気が受け継がれているのだろうか?午前中の雨も何とかあがり、今にも降りそうな雲り空ではあったものの、ひどい雨にならず、良かったですね。なかなか、上田市の祭りのノウハウは、大したものである。今後に、期待が持てそうである。



2013東御ワイン・フェスタに参加する:

2013年09月09日 | 社会戯評
2013東御ワイン・フェスタに参加する:
これまで、国産ワインの原料は、主として、北海道の池田町産とか、山梨県産の甲州ぶどう産が、有名であったが、どうやら、ここにきて、長野県も、県内の4つのワインバレー(産地)としての強みを一段と、アッピールして行こうとする戦略が、明確に打ち出され始めたようである。日本アルプス(4社)、千曲川(10社)、天竜川(2社)、桔梗ヶ原(9社)という4つの有力産地のうち、千曲川ワインバレーの中で、東御市は、その構想の中心にならんとしているようである。最近顕著な地球温暖化に伴い、標高の低い山梨のようなところでは、昼間の気温が上がりすぎれば、当然、夜の気温も上がりすぎてしまい、葡萄の酸味が抜けてしまい、その結果、「間の抜けた味」のワインになってしまう恐れが、危惧され始めている。その意味では、標高が高くて、夏の日照時間が長く、夜の気温が低い東御市では、葡萄の糖度も高まり味が凝縮すると云われている。考えてみれば、「巨峰の産地」でもあり、最近では、皮ごと食べられるナガノ・パープルも生産が、勢いづいているが、ワイン原料用葡萄の種類も、長野産甲州種とか、欧州系ぶどうのメルロー種や、シャルドネ種など、6種類程度のぶどうが、新たに、長野県で栽培され始めていることは、大変興味深いことである。きちっとした適格なマーケティングを行い、その延長線上に、安心して農家栽培・生産拡大が出来るような、安定した原料買取制度他、栽培から、生産、流通、販売、ワインのラベル・デザイン作成ノウハウ、ソムリエの育成、飲食・レストランの振興策、輸出支援策などを一貫して、様々な経済分野で、構築できるような行政とのタイアップも含めた具体的な構想の実施が、待たれる。それには、栽培農家や、起業による生産者への支援、りんごの栽培耕作放棄地の葡萄への転用とか、もっと、総合的に、行政も含めて、新たな取り組みが必要性であろう。サッポロ北安曇野池田ヴィンヤードの増資、サントリーの塩尻ワイナリーの増設、メルシャンの丸子町でのマリコ・ヴィンヤード(丸子の古代語がマリコだそうである)の規模拡大、塩尻の井筒ワイン等、今や、具体的に、長野県産ワインには、まさに、追い風である。今回のワイン・フェスタは、バスの運行体制には、甚だ、大きな問題があり、且つ、工場や製造過程を見学できるわけはないし、参加者の中には、「参加費で、ワイングラスを買わせておきながら、試飲に、カネを払わせるとはなにごとか」などと云う不満も聞かれたが、確かに、田中駅との電車の連絡時間もあるのであろうが、なかなか、バスの運行は、難しいもので、今後の課題となることは間違いないであろう。出発の時点で、小一時間ほども立ったまま、待たされたのには参ってしまう。それこそ、試飲用ワインを振る舞うべきではなかったのではないだろうか?規模が大きくなればなる程、こうした問題点が不満の種になろう。確かに、販売を主体にすれば、それこそ、「巨峰ぶどう祭り」等で、不特定多数に、販売する場としては、こちらの方が、良いかも知れないが、やはり、そこは、「ワインの蘊蓄」ではないが、ソムリエとは謂わないが、それなりの最低の知識やマナーは、勉強する機会をと言う気持は、分からなくはない。葡萄の木の植え付けや栽培、そして、収穫、ワイン作り、ジュース作り等、「地域活性化・産業振興・雇用の増大」の一手段にもなり得るのかも知れない。そういう可能性を有する企画であるようである。東御市は、なかなか、この辺のフット・ワークが、小諸市よりも上手であるように感じられたのは、私1人だけであろうか?今夜は、販売支援も兼ねて、長野産甲州やシャドネーでも、白系を一寸冷やして飲んでみるとしようか?



文芸別冊、「赤塚不二夫」追悼を読む:

2013年09月08日 | 書評・絵本
文芸別冊、「赤塚不二夫」追悼を読む:
いつものチャイを飲みに、茶房、「読書の森」のおきまりのカウンター席に、座ると、ふと、この雑誌が、眼に飛び込んできた。どうやら、向こう側から、是非、この本を読んでみたら如何でしょうかとも、言わんばかりであったような気がしてならない。何とも、皮肉なことに、入稿当日の未明に、(2008年8月)当のご本人様が逝去されてしまったので、急遽、追悼の二文字が、表紙の右上に、加わることになってしまったらしい。我々の世代は、漫画でも、子供の頃は、未だ、トキワ荘時代出身の手塚治虫の鉄腕アトムや、鉄人28号の時代だから、赤塚不二夫が世に出てくる頃には、既に、少年期は卒業していた訳だから、具体的に、その作品を漫画本として、よく読んだという記憶はあまりない。むしろ、断片的に、おそ松くんやバカボンなどに登場するキャラクターを通して、赤塚不二夫なる天才ギャグ漫画家が持つ「独特の思想性」に、興味を抱き続けていたと云ったほうが正解かも知れない。過酷な漫画業界の中でも、とりわけ、ギャグ漫画家は、ストリー性のある漫画家に較べて、5年持てば良い方であると云われているらしいが、赤塚不二夫は、そんな中、燦然と輝く存在感であったのであろう。「笑い」というものは、こうして、この特集誌を読んでみると、なかなか、「ある種の思想性」に富んだ面白いものである。決して、小説家の一段ランク下に評価されるべきものではなさそうである。一寸、戯れに、電子辞書で、(最近では、本ではなくて、電子辞書が便利になってしまった)調べてみると、「ギャグ」とは、筋と関係無く挿入される即興的な台詞、「ユーモア」とは、上品で、機知に富んだ洒落、「洒落」とは、その場にあった気の利いた人を笑わせる文句、「冗談・ジョーク」とは、ふざける、たわむれを云う話、「パロディー」とは、著名な作品、文体などの一見してそれと分かるように部分を残したまま、風刺、滑稽な感じにさせるように、作り替えた作品、本歌とり、狂歌、替え歌、等、「コピー」とは、本物を似せたもの、「ナンセンス」とは、意味のないこと、馬鹿馬鹿しいこと、くだらないから、止めろという気持をこめて云うこと、成る程、こうして、改めて、この漫画に冠する装飾詞としては、改めて、「その思想性」が垣間見られそうなきがしてならない。ナンセンス・ギャグ漫画、どうしてどうして、今にして思えば、「当時の一種の狂歌」のような表現だったのかも知れない。それは、明らかに、手塚治虫にも、藤子不二雄にも、石ノ森章太郎にも真似の出来ない、ハチャメチャな破天荒な人生そのものの表現作品だったのかも知れない。思えば、並木座で、高倉健の任侠映画を見ていたときも、観客から、当時は、「ナンセンス」等という掛け声や、ノン・セクトの中では、既存セクトへのパロディーではないが、「ニャロメ派」なる旗をかざしているのを見かけたものである。そんなところにも、反骨精神に富むこの教育勅語に育てられた多感な幼少年時代を過ごして終戦を迎えた漫画家の心に、そのパロディー化された様々なキャラクターを通じて、(ピストルを乱射する警官や、反骨精神旺盛の猫等や)その思想性に、共振したのかも知れない。もっとも、娘さんのインタビューには、ギャグを漫画だけでなくて、夫婦揃って、実生活までを演じてしまったのには、流石に、子供心が、何故、折れなかったのかとも、、、、、、。両親が破天荒なときには、子供はどうしたらよいのであろうか?もっとも、タモリや、タコ八郎や、果ては、ドンキーカルテットまで、芸人の潜在的な才能を見通すある種の能力も備わっていたことも事実であろう。文芸評論家が、解析する如く、前近代性と近代性、漫画の構造というか、表現の約束事を破壊しながら、且つ、自己矛盾を提示しつつ、シュールで、マニアックな自己言及ギャグを笑い飛ばす手法、確かに、これでは、上述の3巨匠にも、流石に、この分野には、手が出せないことだったのであろう。それこそ、赤塚不二夫独特の世界観だったのであろう。それにしても、往事を振り返ってみれば、漫画家も、ある種その時代背景を背負って、世に出てくるものなのかも知れない事が理解されよう。病院でも、見舞客が密かに、禁を犯して、酒を差し入れに持ってきたら、もう既に、戸棚の中は、酒だらけだったとか、、、、、、。幻覚とアル中の中で、最期の最期まで、この漫画家は、入院生活までも、パロディー化、ブラック・ユーモア化、ギャク化してしまって、そして、その果てに、逝ってしまったのであろうか?結局、「これでいいのだ!」とは、まるで、禅問答の哲学用語のような響きが残るようである。植木等の「分かっちゃいるけど、止められない」と、赤塚不二夫の「これでいいのだ!」は、名言であろう。若い漫画家の中で、これから、彼を超える破天荒な漫画家が、出てくるのだろうか?



一寸気になるCMと振り付け師の存在:

2013年09月07日 | 映画・テレビ批評
一寸気になるCMと振り付け師の存在:
竹本ピアノ、大和ハウス・ベトナム篇、グリコ・ポッキー、ボート・レース競艇、等のCMには、どうやら、CMのこれまでの特徴である「メッセージ性」に加えて、「画像の動き」が、視聴者の記憶に残るように、踊りの振り付けを、重視した新しい試みがなされていると云われている。踊りそのものが、CMタレントの個性と潜在的な可能性や新境地を切り拓くきっかけとなったり、或いは、ダンスそれ自体が、メッセージ性、コミュニケーションそのものになるそうである。そうして、CMを見てみると成る程、面白いものである。往年のアイドルだったウィンクの無表情な素人っぽい歌い方に、2人別々の仕草をつけて、謳わせたのをブレイクのきっかけとして、踊りの振り付け師が、CMの分野にも、その活動範囲を拡げる結果になったというではないか?自由に、身体をくねらせて、縦横無尽に、踊れることはおおいに羨ましい限りである。とりわけ、リズム感がなくて、おまけに、ステップを踏めば、手と脚が、バラバラになることは、エアロビクスの教室で、体験済みである。この頃の小学生は、学校でも音楽以外に、ダンスが、教科の一つにもなるそうであるから、大変なことである。タレントも、歌って、踊って、演技してと大変な時代になってしまったものである。我々の若いときには、舞踏を志す者は、なかなか、バレーのダンサー以外には、アングラの世界に、埋没するマイナリティーの前衛家しか、余り記憶がないが、今や、コミュニケーションの一つの手段として、身体の不自由な人々にも、車椅子ダンスではないが、様々なジャンルで、拡がりをみせていることは、実に、すばらしいことではないだろうか?CMにも、今後は、歌ではないが、作曲・作詞、誰々だけでなくて、振り付け誰々と明示してもらえれば、より親近感が湧くような気もしないではないが、、、、、、。如何がなものだろうか?今度、見るときには、タレントの仕草に注目である。



トカゲの捕食を夢中で観察する:

2013年09月06日 | 自然・植物・昆虫
トカゲの捕食を夢中で観察する:
自然観察が、偶然にも、続く。玄関先に目をやると体長20センチ余りの茶色の尻尾の長さが、10センチ以上もある頭の大きさが1センチくらいの小さなトカゲが、何か、緑色の羽のようなものをくわえて、首を一生懸命に、左右に、上下に振っているのに、出くわした。よくよく観察すると、どうやら、口から、薄茶色の腹と、くの字に折り曲がったバッタの脚のようなものが確認される。恐らく、キリギリスの子供のようである。トカゲの方は、口が、まだ、小さいせいなのか、丸呑みには至らず、一生懸命、身体全体をS字状に、くねらせて、胃袋の方へと押し込もうとしているようである。やがて、5分程、すると、赤い口をパクパクさせながら、呑み込んでしまったようである。そして、又、ペロペロと舌を出しながら、器用に、歩き始める。偶然にも、その行く手には、何と今度は、2センチくらいのウジ虫のような虫がいるではないか?早速、慎重に、小さな尖った三角形の口でパクリとくわえると美味しそうに、食べ始めた。トカゲには、時々、出くわすが、まさに、捕食する瞬間に、出くわすのは初めてである。こんなトカゲも、又、蛇や野生の狐等に、今度は、捕食されてしまうのかも知れない。お一寸、目を離すと、土の茶色と見まがうほどで、どこに居るのか、ジッとしているとカモフラージュされて、識別できないものである。それにしても、偶然、キアゲハの五齢幼虫の発見と云い、トカゲの捕食の瞬間に出くわすのも、里山では、私達の知らない所で、大自然の営みは、人知れず行われているものである。



村田諒太というプロ・ボクサーの誕生:

2013年09月05日 | スポーツ
村田諒太というプロ・ボクサーの誕生:
相撲などと云うものは、アマチュアから、ある程度の実績を積むと、プロ入り後にもそれ程の違和感もなく、その延長線上で、活躍できそうであるが、どうやら、ボクシングの場合には、そうはいかないようである。ロンドン・オリンピックでの金メダルを取るまでは、この村田諒太なるボクサーの名前をどれ程の人が、或いは、プロのスポーツ・ライターですらも含めれば、知っていたのであろうか?更に云えば、その潜在的な実力を正当に評価していたのであろうか?モハメド・アリ等の超一流のボクサーを売り出した伝説のプロモーターのボブ・アラム氏をして、何故、米国でのプロモートを決断させたのであろうか?サラス・テクニカル・トレーナーによれば、60日間の短い期間で、アマチュアから、プロ・ボクサーへと身体も心も改造し、数々のプロゴルファーや世界チャンピオンの身体と栄養と事故防止も含めた肉体改造を担当する山本フィジカル・トレーナーや、スパーリング・パートナーも含めた総合的なプロジェクト・チームは、まるで、一つの商品を企画・立案・生産・マーケティング販売するが如き様相である。腕の振り出し、パンチの打ち抜き方、足の運びの矯正、ステップの運び方、等、まるで、巨人の星ばりの「肉体矯正ギブス」ではないが、アマチュアの時代のテクニカル上の欠点の改造、フィジカルの肉体改造と独自のこれまでの自前トレーニング方法とは全く異次元のトレーニングを文化と習慣の異なる異国の地で、家族と離れて孤独に、練習に励む「駆け出しのプロボクサーの誕生」である。名伯楽のトレーナーを持ってして、言わしめるその「魂の炎」と「努力」は、やがて、一戦一戦を経た上で、その拳で、天賦の才能を世界水準にまで、開化させるようになることを、期待したいものである。これまでも、高校でのボクシングとの出逢いや、アマチュア時代からの「良き指導者」に恵まれてきたが、今度は、どのような「一つの商品」として、プロの世界で完成されて行くのだろうか、おおいに、楽しみである。もともと、ボクサーという者は、ハングリー精神の貧困から、這い上がるような狂犬の心のようなものが必要不可欠のように云われているが、こうしたプロジェクトXのような「国際的なチーム・ワーク」で、1人のボクサーが、デビューすることはファンとしては、心待ちである。それにしても、相撲と較べれば、一つのビジネスとして、ボクシングは、既に、完成されているが、相撲も、もっと、科学的なトレーニング方法で、力士を生み出すような手法が、とれないものなのであろうか?何とも、古典的な手法による師弟関係とかでなく、外部のトレーナーとか、怪我予防のフィジカル・トレーナー制度の養成とか、国際的な企業が資金を出す制度とか、廃業後用のちゃんこ番でなくて、科学的なトレーニング手法が、望まれるところであるが、やはり、旧態依然たる組織では、柔道も含めて、何ともし難いか?期待する方が無理かも知れない?ラスベガスのプロモーターにでも、コンサルになってもらって、マーケティングしてもらえないものだろうか?そんな発想の転換があっても宜しいのではないかとも思われる。如何でしょうか?一プロレス・ファン、ボクシング・ファンならずとも、そんなことまで、考えてしまいました。



スロー・クウェイクの不気味さ!:

2013年09月04日 | 社会戯評
スロー・クウェイクの不気味さ!:
確か、3.11の東日本大震災が起こる前に、NHKスペシャルで、メガ・クェイクの特集を見た記憶があるが、何とも、今回の連夜の特集には、不気味なものを感じざるを得ない。素人考えでは、大地震の前に、頻発する小さな揺れの地震は、プレートのひずみを多少なりとも、解放してくれる謂わば、良い意味での地震なのかと思いがちであるが、どうも、身体に感じないが、高性能の地震計が観測・感知している微弱のスロー・クェイクは、どうやら、その種の類のモノではなくて、むしろ、東日本大震災の前には、その予兆があったらしい。もっとも、シアトルなどでは、その増幅・連続線の延長線上に、大地震が誘発されると仮説されたにもかかわらず、案に相違して、大地震には、幸い至らなかったらしく、仮説は、まだ、きちんと、科学的に、実証されたわけではないらしい。むしろ、GPSによる地殻のひずみやスロー・クェイクと関連づけられていると推測される井戸水の水位の減少変化とか、様々な予兆解析手法とも関連づけた上で、どのようなメカニズムの下で、巨大地震を引き起こすことになるのかということを研究・観測が、現在進行形中であるそうである。しかしながら、過去の古文書などや実地調査により、間違いなく、近い将来、巨大地震が再び、日本列島を襲うことは、間違いなさそうである。成る程、ある程度、メカニズムがつかめたとしても、それが、いつ起きるのかを予知する術は、未だ、我々、人類には、ないのであろうか?想定とは云っても、もの凄い甚大な被害であることは、疑いを挟む余地がないようである。それにしても、ひずみが、四国沖や伊豆半島沖や房総半島東側沖や南西諸島や宮崎沖などでも、「既に、溜まっている」ことが、様々な観測から検証されている以上、どうやら、いつ起きてもおかしくはなさそうである。関東大震災の時には、祖母は、父を抱えて、隅田川に逃げ込んだと云っていたが、今度は、我々は、どこへ逃げれば良いのでしょうか?汚染水の問題にも、困ったものであるが、こちらも、困ってしまう。異常気象、竜巻の危険性、心配はつきないが、、、、、、、、それでも、生き抜かなければならない。



キアゲハの五齢幼虫を見つけました!:

2013年09月03日 | 自然・植物・昆虫
</afont size="3"> キアゲハの五齢幼虫を見つけました!:
生ゴミを棄てに、コンポストの蓋を開けようとすると、何気なく、その横から生えでた草の葉先に、何やら、モスラの幼虫のような虫が、それも、明らかに派手な緑と黄色と黒の縞模様で、オレンジ色の斑点が目立つ、明らかに、6月16日の茶房、読書の森で、昆虫写真家、海野和男氏による御牧ヶ原のガタガタ途を歩くワークショップで、見かけたキアゲハの幼虫と瓜二つであることが分かる。しかも、その数が、周辺をよく見渡すと5匹にも達していたのには、驚いた。いつも、コンポストには、生ゴミを棄てにゆくので、これまで、一向に、気が付かなかったものであったからである。早速、デジカメで写真を撮り、図鑑やネットで、幼虫の写真を再確認したところ、どうやら、この幼虫は、前蛹段階前の5齢幼虫のようで、1齢、2齢、3齢と徐々に、年齢を重ねてきたようである。もう、既に、夏も終わりに近づき、9月の涼しい秋風も吹き始める頃なのに、一体、厳しい冬をどのように越すのであろうか?蛹となって越すのであろうか?余程、飼育のために、籠にでも捕獲しようかとも思ったものの、何せ素人が、飼育を誤って死滅させてしまっても、可哀想なので、そのまま、自然の摂理に任せて、現状維持で、自然観察を続けることにしました。一部の葉先は、もう既に、すっかり、食べ尽くされていて、葉はないものの、まだ、何本かの草は、何とか、残っている。成る程、蝶の幼虫の好む食草というものをキチンと、残しておけば、卵からかえった幼虫が、それを食べながら、生存出来るのであることが了解される。雑草とばかりに引っこ抜かないで良かった。来年は、この花の種を播いておくことにしようか?芹なども、根を棄てるときに、そのまま、コンポストの中から、根が外へ、生え出て、はみ出して成長したのかも知れない。出来るならば、偽アカシアの葉を食べる蝶の幼虫がいると宜しいのですが、、、、、、。無事、前蛹から、蛹に、そして、来年、暖かくなってから、成虫へと脱皮することを願いつつ、ここのところ、毎日、観察してみることにしようかな。何か、気持が、暖かくなるような気がしたのは、錯覚だろうか?

><

「信州山の日」とは如何に?:

2013年09月02日 | 社会戯評
「信州山の日」とは如何に?:
元々、日本の祝日は、戦前の何らかの記念日が、名前を変えたりして、制定されている事が多いが、7月の祝祭日である「海の日」も、制定当時は、まあ、休みが増えればよいかと思っていたが、明治天皇が、東北の灯台を巡行後で、横浜に戻った日を記念にしたとか、何がなんだか、訳が分からない。日本は、島国だから、海の記念日を制定したのかとくらいにしか、思っていなかったが、海の日があるのだから、「信州山の日」という日があってもおかしくはなさそうであるし、山があるなら、「川の日」や「湖の日」があってもおかしくはないが、、、、、、、、と。もっとも、既に、祝日として、海の日がある以上、祝日ではなくて、県独自の山のイベントなどの観光振興や売り込みに、利用とするものらしいが、、、、、、、。いずれにせよ、最終的な答申がまとまり、実施に移されるまでには、紆余曲折が予想されるものの、各分野での連携が、観光協会や学校・行政の相互連携がなされなければ、何のための「信州山の日」なのか、分からなくなりそうである。それが、只単に、山登りの活動だけに止まるのではなくて、エコ活動やグリーン・ツーリズムにも、広く、拡大されて行く起爆剤やきっかけになるのであれば、それはそれで、又、興味深い活動になりそうであるが、、、、、どうなるのであろうか?今後に注目しよう。



銀行の顧客情報、スイス、米に提供の記事におもう:

2013年09月01日 | 社会戯評
銀行の顧客情報、スイス、米に提供の記事におもう:
とても、小さな記事である。しかしながら、興味深いモノがある。長年、顧客の秘密を徹底して守ることに努めてきたスイスの銀行が、米政府当局に新たに、捜査情報提供するという新制度が導入されることで合意されたと報じられている。銀行による合法的な脱税の幇助という罪の司法取引(?)で、銀行の方は、ひとまず、起訴・訴追を免れることが出来るのであろうか?確かに、麻薬取引も含めて、国際的な犯罪取引やマネー・ロンダリング、などは、スイスの銀行口座が、タックス・ヘブンとして、脱税に利用されているという主張は、当たっているであろうし、銀行への刑事訴追や道義的な責任追及も当然のことであろう。それにしても、銀行ならまだしも、国を挙げて(?)、タックス・ヘブンの促進や、国際的な租税条約の盲点を突いて、合法的に、脱税(?)或いは、国際的な節税指南を行う国際的な税理コンサルタントやファンド・マネージャーは、まるで、小判鮫の如く、跡を絶つことはないのであろう。スイスやケイマン諸島やプエルトリコで、ロンダリングする必要がある程のマネーを持ち合わせていない庶民は、ただただ、この記事をポカンと口を開けて、見ているだけであろう。今日、どんなに、騒ぎ立てたところで、銀行の個人情報も、含めて、今後は、所得税課税以外に、恐らく、資産課税基準や、その他のあらゆるとれるところからは、何がなんでも、税金を課税して取り立てる手法が、日本だけではなくて、全世界的に、普及して行くことであろう事は、恐らく間違いなさそうである。またぞろ、一部の資産家だけが、その規制の一寸先をゆき、残された為す術もない庶民は、じっと、茹で蛙状態になるのであろうか?それとも、大いなる納税者の世界的な反乱は、生ずるのであろうか?