寒い寒い朝です。
ひめちゃんは1人散歩で、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました。
南廻りで帰ります。
無量寺そばで、元気に番犬している白い子におはよう
この冬は、お外で番犬してる子に、ほとんど逢いません。
みんなどうしたかな?
南無阿弥陀仏の文字塔も寒そうだね
ひめちゃんは、夜はほとんどおかあさんのベッドの上で寝ています。
なので、朝早くからお散歩の催促可能です
おかあさんは、もう少しゆっくりお散歩に出たいんですけど
1月1日、世良田東照宮は、参拝待ちの行列が長く続いていました。
あまりの長さに諦めて、翌2日に出直しです。
今日も新田荘歴史公園の駐車場は、結構混んでます。
歴史資料館は素通りして、東照宮に急ぎます。
何処が行列の末尾かな?
行列はほんの数名、そんなに込んでません
「どうする家康」のスタンプ設置場所も込んでません。
まもなく参拝の順番が来ました
この大きな白い箱は、臨時の賽銭箱だったのです
遠くから見ると、ここで貴重か何かしているように見えたのですけど。
大勢がいっぺんに入れられる賽銭箱だったのです
お賽銭を入れて、2礼2拍1礼です
拝殿への階段は、バイヤフリーの配慮がなされています
拝殿の周りにも大勢の人と、お守りお札の販売所です。
左から回って、本殿を目指します。
「あのう、御朱印はありませんか」
「拝殿の右前のテントでやってます」
「ありがとうございます」
拝殿の裏側です。
しっかり赤い
あれ、本殿は閉ざされています。
「文化財保存修理中につき、御本殿へ参入できません」
確か本殿には左甚五郎の作品がありました。
二日続けてやって来たのは、左甚五郎の作品に逢うためでした。
残念
本殿前の石灯籠は、老中の忍藩主・阿部忠秋の寄進です。
彼は、のぼうの城・忍城から「のぼうさま」が去った後の忍城の殿様で、長楽寺改宗(臨済宗から天台宗へ)の実行責任者です。
ここは古墳のように見えますけど、怖い話もあります。
『長楽寺改宗と天海』(橋本幸雄 平成19 岩田書院)によれば、昭和46年2月のこととして、
一般の通念として、東照宮は古墳上に建立されたものであろうと考えられていたのである。所が、その東照宮の側溝掘鑿に際して、無数の墓石、板碑の残片及び陶器の破片、骨壺と思われる素焼の土器の破片、それに人骨多数が、ぞくぞくと出てきたのである。~中略~東照宮は、とにもかくにも墓石人骨で盛り土された丘の上に建っているのである。~中略~そして、その丘の下に埋められている恐るべき埋蔵物は、当然東照宮建立以前の遺物で、それは、当時この東照宮の地にあった旧長楽寺の墓石群に他ならないと考えられる。
さらに筆者は
事実、長楽寺には天台と云う時代の新風が流れ込んで、天海によって中興されたが、その地下に永遠に葬りさられた霊達は今は何を考えているだろうか。また、その自分の御先祖を崇敬の念を持って供養したはずの家康は、その御先祖の霊の上に鎮座している。また、そう願って長楽寺を手中にした天海も、あの世で東照権現の御先祖になんと言い訳をするのだろうか。
と言っています。
すごすぎる話です
拝殿右前のテントで、御朱印を3種類いただきました。
お正月バージョンの御朱印です
拝殿から出ると、見なれない建物があります。
清き神水、ペットボトルに汲んで帰ってもいいようです。
でも、ひめちゃんちには、神棚がありません。
なんとなく、神棚がないのが寂しく感じられる年になりました
(つづく)