朝は冷たい雨の中、貧乏カッパでお散歩です
昼間は、寒いながらも晴れました
タバサねーちゃんと南の方にお散歩です。
やっぱり晴れのお散歩がいいね
3月15日、三度目の榛東・吉岡方面(桃井郷)探訪、出かけました。
今回は、桃井塚・桃井城探訪です。
国道17号線(上武道路)を、道の駅・よしおか温泉方面に降ります。
菜の花もだいぶ咲き進んでいました
西には、怒る穂の榛名山が霞んでいます。
まだ、道の駅・前橋赤城がオープン前で、国道17号線の渋滞などはありませんでした。
北に霞んで見えるのは、子持山かな?
道の駅・よしおか温泉を左に出て、4年ぶりに桃井塚を目指します。
確かゴミ置き場の陰でした
今回も見落とさないように、ストリートビューをよくよく見て来ました
何故か表示も何もありません
この角を曲がってすぐです。
ありました
大小2基の五輪塔が、桃井直常夫妻の墓ということです。
いちおう大切にされているようです
今回は、道祖神の文字が気になります
かなり個性的です
修験者・無幻道人のイメージです
無幻道人は、群馬郡下野田村(北群馬郡吉岡町)の生まれだそうです。
先日、赤城歴史資料館で、かつての企画展の冊子を購入してきました。
説明板を確認です。
桃井播磨守直常は元弘三年(1333)足利尊氏に従い六波羅攻めに参加し、その後播磨守に任ぜられ、越中国守護に封ぜられた。観応の擾乱では足利直義方につき直義亡き後は南朝方に味方し、貞治五年(1366)足利義政と越中に戦った。直常の終焉については判然としないが桃井荘に隠棲し、ここに没しこの地に葬られたと伝えられている。
りっぱな経歴ですね
実はなんと、ひめちゃんちのある旧新里村にも桃井塚はあるのです
桐生市のHPによると、
延元3年(1338)に越前(福井県)藤島で激しい戦いとなりましたが、義貞の死によって戦乱は終わりを告げました。義貞の家臣として参戦した桃井次郎尚常は、さらし首となった主君の首級を密かに義昌寺に届け、その後、新川の大屋の地で主君の後を追い、自害したと伝わってます。
どうも別人です
新里では、「桃井次郎尚常が新田義貞の首を義昌寺の船田義昌に届け、その後桃井塚で腹を切った」と、ほとんどみんなが信じてます
腹を切る必要はありませんね。
出家して菩提を弔えばいいじゃありませんか。
腹を切るという発想、江戸時代のものですね。
新田郡出身のひめちゃんちのおかあさんには、どうしてもこの話に納得がいきません
新里村新川に西毛からやって来た人達が持ち込んだ、桃井の記憶のような感じがします
向こうに見える桃井城は、4年前は整備中でした。
公園としてオープンされているようです
梅の花咲く桃井城、探訪します
(つづく)
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