
ボブ・ディランの伝記映画はこれまで幾度となく企画されてきたが、ディラン以外の誰が彼の数奇なキャリアを捉え、人生を物語ることができるだろう?2007年にはトッド・ヘインズが6人の役者を擁してディランを演じさせ、『アイム・ノット・ゼア』と題したが、イライジャ・ウォルドによるボブ・ディラン評伝“Dylan Goes Electric!”を脚色したジェームズ・マンゴールドもまた『A COMPLETE UNKNOWN』と題した。フォークからエレキへ移行するキャリア初期5年間を通して、ディランの精神性と時代を超える芸術を再定義するのだ。
1961年、ボブ・ディランはNYに降り立った。真っ先に向かったのは入院中であるウディ・ガスリーの見舞いだ。フォーク界の巨星はハンチントン病を患い、今や歌うこともギターを弾くこともできなくなっていた(2024年は『スピーク・ノー・イーブル』『ナイトビッチ』と大活躍のスクート・マクネイリーが黙演)。ガスリーに始まりガスリーに終わる本作は彼をディランの精神的支柱と捉えており、共に病床を囲むピート・シーガーに出会わせると、『オッペンハイマー』さながらのテンポで60年代のフォークシーンを活写、アメリカ音楽史に足跡を遺す偉人たちを紹介していく。ディランが彼らに触発され、次々と曲を発表していくヒットメドレーはほとんどミュージカル映画のようなスタイルだ。
キャスト全員が猛特訓の末に歌唱をマスターし、ディラン役のティモシー・シャラメは彼の輝くような才能であれば造作もないことであるかのようにディランの存在をカバーしている。それは時代のスターにだけ許された行為であり、もし『アイム・ノット・ゼア』が2025年の映画であればシャラメはケイト・ブランシェット、クリスチャン・ベール、ヒース・レジャーに名前を連ねただろう。
『A COMPLETE UNKNOWN』はディランの閃きと実験性、好奇心に満ちたキャリアを多くの才人とのコラボレーションに見出しており、とりわけここでは2人の女性の存在が注目されている。エル・ファニングが演じる恋人スージー(劇中ではディランの要望で役名がシルヴィに改められている)、そしてフォーク界のスター、ジョーン・バエズだ。瞬く間に時代の寵児となるディランを前に、孤独と疎外を抱くファニングはキャリアにおけるターニングポイントとも言うべき名演。そしてバエズを演じ、アカデミー助演女優賞にノミネートされたモニカ・バルバロは本作最大のブレイクスターと言っていいだろう。当時「バエズは自身の爪先を見つめながら歌った」と描写されたジョーンの物憂い気かつ孤高の気質を素晴らしい歌唱パフォーマンスで甦らせている(驚くべきことにバルバロは本作の準備を始めるまで歌もギターも経験がなかったという)。歌唱でステージに立つ者だけが持つ、固有のカリスマ性を創造することに成功しているのだ。
ディランはそんな2人の女性の間も、多くの才人の眼前もすり抜けていく。映画のクライマックスは1965年に催されたニューポート・フォーク・フェスティバル。ここでディランはエレクトリックスタイルのパフォーマンスを行い、聴衆を騒然とさせる。多くのフォークファンが憤慨し、ピート・シーガーとは袂を分かつことになるが、どこ吹く風だ。「ユダ!」と断じられた後のディランの業績は知っての通り。誰もが安易に他者へ発言を要求する今日、芸術家を一時の“正しさ”で測ることはできず、そして真のアーティストは大衆が求める瞬間にこそ口を噤み、名もなき者=A COMPLETE UNKNOWNであり続けるのである。
『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』24・米
監督 ジェームズ・マンゴールド
出演 ティモシー・シャラメ、エドワード・ノートン、エル・ファニング、モニカ・バルバロ、ボイド・ホルブルック、スクート・マクネイリー
※2025年2月28日公開